濫觴(らんしょう)

 この言葉の意味は、「物事の始まり。物事の起こり。起源」といったものである。
 「濫」は「あふれる」、「觴」は「杯(さかずき)」の意。揚子江のような大河でも、その源は杯(觴)にあふれるほどの、つまりはささやかな水であるという意。
 「孔子曰ハク、昔者、江ハ岷山ヨリ出ヅ。ソノ始メテ出ヅルヤ、ソノ源ハ以テ觴ニ濫ルル可シ。」(『荀子・子道』)が出典。

 この NEWSLETTER [濫觴]は、英国国際教育研究所で学ぶ皆さんへのささやかな、けれども真摯なメッセージとなって、教育や学問の世界での新しい宇宙を創造しようとする皆さんの磁場となるように創刊されたものです。
 既成の価値観に踊らされる事なく、一杯の水を、清く澄んだ水を、皆さんとともに、照れることなく、汲み続けていこうと思っています。

(図師照幸)

No.198 夢の途中(84) 桜

 日本語の教育実習の指導の際、学生から桜の花とアーモンドの花の見分け方を教えてもらう。とてもよく似た花なので、これはどっちなのかな、と春になるといつも考え込んだものだ。花見は桜狩りとも呼ばれ、江戸時代になると、貴人や武家の遊びとしてのそれが庶民にも広がることになる。春は樹木が生命力をたくましく取り戻し、枝の先は天空を指す。
 春は、新しい呼吸を始めるときである。

 ロシアのウクライナ侵略戦争のために、英国と日本を結ぶ飛行機のルートが少し変更になって、要する時間が増えたようだ。ぼくが英国にやって来た35年前には直行便はなく、北極圏アラスカ(米国)のアンカレッジを経由した。時が逆戻りしたような不安を感じている。
 35年前、「深呼吸をしてきます」とあいさつをしてぼくは、日本を離れた。3年程度で日本に戻るつもりだったが、その10倍以上もの長い間、異国で生活している。幼かった子どもたちももはや中年と呼ばれる年齢になり、彼らにとっての生きる場は間違いなくこの英国であり、異国ということばを用いることはもはや似合わぬかもしれないが、やはり日本という国はぼくにとってまぎれもなく大切な祖国である。ぼくは日本が好きだ。日本に住む兄姉や友人たちが好きだ。教え子たちが愛おしい。
 ぼくの深呼吸はすぐに、荒い息遣いに変わった。研究所が設立され、所長となったぼくは、助走をする暇もなく、全速力で走り始めた。しかもそれは、ゴールの見えない長距離走であった。ロンドン中心部のビルに構えたオフィスの窓から、正面に見えるビッグ・ベンの文字盤が午前零時になると一瞬消えるのを見ながら、これからは自分との闘いになることを自覚した。ぼくにはその時、すがることのできるものは何もなかった。ただ、〈教育と生きる〉という、まるで運命のような信念だけがぼくを支えた。吸った息を気付かずに吐くように、ぼくは研究所の歩みを始めた。
 教育の世界でしか呼吸してこなかったぼくは、そのわずかばかりの経験や体験を通して、不思議な疑問と怒りを持っていた。〈はたして現代の教育は確かに人間の幸せを生み出しているか〉〈誤った価値観に迎合し、こびへつらい、可能性を奪い、人間を窮屈にし、ゆがめてはいないか〉などなど、そういった思いがあった。

 手探りをしながらという具体的な触感はなかった。全くの闇の中でぼくは、教育が求めるものは何かと考えた。おそらくそれは、「幸せになりたい。幸せになるためにはどうすればよいか。そもそも幸せとは何か」という問いに答えるものではないか。そしてさらに、それぞれの人間がそれぞれの生を生きる上での〈まなざし〉をどのように形成するかということではないかと考えた。
 ぼくは幼いころから今に至るまで、詩の創作活動を続けている。作品の一部を定期的に、日本の詩誌に載せているが、その中に連載詩「変数Xの孤独」というものがある。ぼくたちはあらかじめ設定された数式の中を転げまわる一つの変数に過ぎない。抗うことのできない道筋をたどって最終的に吐き出される値にどのような意味があるのだろうか、あるいはその風景はどのような光や色を持ち、どのような影を生むのかといった拙い作品群である。12歳のころ後頭部を強打し、意識のないまま入院したことをきっかけとして、自分はどこから来たのかと考えるようになる。ぼくはいつか死ぬのだろうか。自分が死に、残った世界にはどのような意味があるのか。今、ぼくはどこにいるのか。すべてが不思議だった。よく空を見た。あの向こうに何があるのだろう。ずっとずっと向こうには何かがあるのだろうか。中学生になったぼくは、父親の本棚から哲学書を持ち出してページをめくった。
 ぼくはぼくの目でしか世界を見ることができない。ぼくが動くと、そこがぼくの世界になる。この単純なことにいつもとらわれて生きてきたぼくは、できれば自分以外の人の見ているものも知りたいと思うようになる。ぼくが否定するものには、ぼくの知らないすばらしさがあるのかもしれない、と思うようになる。文学というものが教えてくれた不思議な感覚である。美術館を訪れ、作品と向き合ったことによって得られた感覚である。コンサート会場に腰かけたぼくに襲いかかった感覚である。その、ぼくはぼくから離れることができるかもしれない、そういった全身が浮遊するような感覚は、ぼくにぼくの持つそれとは異なった〈まなざし〉を持たせてくれるようになる。
 〈学ぶ〉ことから得られるものは、〈教える〉ことがめざすべきものは、そのような〈まなざし〉の獲得にあるのではないか。つまり、自分の存在が、あるいは幸せといったものが、既成の〈時間〉や〈空間〉によってはとらえられないのならば、新たな座標軸を生み出し、その上に座標を取るようにすればよいのだ。学ぶことによって知性を磨き、豊かな〈まなざし〉を獲得するのである。

 研究所は33歳になった。数多くの仲間たちに支えられながら大いに語り合い、笑い、泣き、痛みにも耐えた。仲間たちの一人ひとりの顔を思い浮かべると、胸が熱くなり、涙がこぼれる。教え子たちの今を思うと、全身が震える。
 「夢の途中」ということばでぼくは、その時その時を支えた。〈夢〉とは何だったのだろう、と毎日考える。常識なるものを全く持ち合わせていないぼくは、何に向かって疾走してきたのか。「途中」ということばに甘えてきたのではないか。ぼくが求めようとし、教えようとし、育もうとした〈まなざし〉は今、春の柔らかい陽光の中に咲く桜の色の中で、立ち尽くしている。
 一歩前に、そういう思いがぼくを責める。空を見上げる。あの向こうにあるものを捕まえた錯覚を持ってはならない。すべてを脱ぎ捨てて、たくましい〈夢〉を追いかけて、〈途中〉を疾走したいと思う。(202243日)

No.197 青いまなざしを 創立32年の朝

 ここ数日、ロンドンの空は青い。毎日見つめる樹木は確かに、若々しい緑葉を身にまとい始めた。コロナ禍で、瞬く間に一年が過ぎた。昨年の2月末からずっと、家に籠った。この一年の間に、知人が死に、家族の何人かがベッドに伏した。ぼくは、だからといってむろん、何もできない。
 研究所は満32歳、振り返ると不覚にも涙があふれる。未熟な者の、自己陶酔の涙だ。けれども、〈ああ、楽しかったなあ〉〈うれしかったなあ〉といった思い出は、苦しく、悲しい思い出に負けないほどあるように思う。

 最近、ある有名なフランス料理のシェフの番組をよく視る。ぼくより一歳若い彼は、日本を代表するシェフで、数多くの世界的な賞を受賞している。彼のレストランにはかつて、一度だけ行ったことがあったが、その人物については全く知らなかった。その一流のシェフが、家庭でできる料理を伝授するという番組だ。番組というのかな、自分で作った映像をYouTubeに載せているのだ。丸々と太り、年老いた彼は、決して面白くない冗談をはにかみながら放ち、どこにでもあるスーパーから買ってきたどこにでもある材料を使って、瞬く間にさまざまな料理を仕上げていく。時々、料理を皿からこぼしたりもしながら。中卒の彼は素材の入った袋の漢字が読めなくて困った表情も浮かべる。あたたかく、柔らかな空気が流れる。
 彼は北海道の貧しい漁村に生まれ、高校に行きたかったのだが、家が貧しかったので札幌の米屋さんに住み込んで夜間の料理学校に通う。食べ物屋さんに就職すれば食べていくことはできるだろうと考えたのだ。しかしながら、この料理との出会いが彼の人生を変えることになる。彼は見学で訪れた札幌グランドホテルの厨房に隠れ、何とか雇ってくれと直談判する。グランドホテルの料理が最高だと聞いた彼は、最高のものと出会いたいと願ったのだ。懸命に修業を積んだ彼が耳にしたのは、東京の帝国ホテルにこそ料理の神様がいるということだった。神様に会いたいと思った彼は、グランドホテルを辞めて、帝国ホテルのレストランに何とか、下働きで潜り込む。何年もの間、皿洗いや鍋磨きをした彼はしかし、もう駄目だと思い、帝国を去ろうと決意する。去る前に、帝国のすべてのレストランの鍋磨きを自分にやらせて欲しいと頼み込み、それを終えたら故郷の漁村に帰ろうと思うのだった。鍋磨きに打ち込むある日、帝国の神様がスイスに行って修行をして来いと勧める。そのあと、フランスのミシュランの星を誇る数々の有名店で修業を積んだ彼は、何年かののちに帰国する。すぐに自分の店を立ち上げ、自分でなければできないフランス料理を追求する。      
 その頃の、つまり若いころの、独立して自分の店を持ったころの映像をつい最近、視た。彼は瘦せていて、ギラギラした、挑むようなまなざしを周りに向けていた。始めたばかりのレストランの厨房で彼は、スタッフを怒鳴りちらし、苛立っていた。
 ぼくは、殴られたような衝撃を受けた。そうなのだと思った。その夜ぼくは、いつまでも寝つかれなかった。

 ぼくはぼくの道を歩もう。教育のあるべき姿を少しずつでも求めて歩こう。32年前のぼくは、深夜零時のビッグベンを見ながら、たった一人で武者震いをしていたではないか。今もなお詩を書き続けているぼくは、その世界と教育の世界を無理やり分けて呼吸する必要などなかったのだ。友はいる。宝物のような教え子たちもいる。恥ずかしい未熟さはそのまま、さらけ出すしかない。深夜徘徊した朔太郎のように、風景の中で静かな呼吸をした道造のように、あるいは、狂人のまなざしを持った中也のように。

 32周年を迎える今、支えとなってくれたすべての人に、心からの〈ありがとう〉を。(2021.04.02

No.196 Going back to the frontline 夢の途中(83)

 庭の樹々や芝の上を元気に飛び回る栗鼠たちに、大気が確かに緩み始めた春を感じる。名前は知らないのだが、白く清らかな花がまっすぐに背を伸ばして咲いている。

 2月に日本に出張し、帰英してからぼくはずっと、4週間も自宅に幽閉されている。滞日中のTVではずっと、新型コロナウイルスの恐怖が報じられていた。街行く人はみんなマスクをしていて、ロンドンで30数年も暮らすぼくには、やや異様に感じられた。
 ロンドンに戻ったぼくは、英国政府の指示に従って、一人で自宅に籠った。Self-isolationと呼ばれる自宅待機である。コロナ感染の広がる日本や中国などから英国に入国した者は、他の人には会わないようにして、少なくとも二週間は家にいなさいという指示である。
 確かにぼくがロンドンに戻ったその頃は、英国ではサッカーも他のイベントも超満員の観客を抱えて普段通りに行われていた。もし英国に入国し、自宅待機の者が熱を出したり咳き込んだりするようなことがあれば、111番に電話すれば自宅までお医者さんがやって来て、PCRという検査をしてくれると聞いて、(ほおぅ、すごいな)と感心したのだった。滞日中の日本のTVでは、検査が思うようには受けられないと盛んに報じられていたのだから。
 けれども、一週間も経つと、風景はみるみる変わっていった。英国、特にロンドンの感染者数が劇的に増加したのだ。それに伴い、死者も増えていった。慌てたボリス・ジョンソン英国首相は公立の幼稚園、小学校、中学校、高校の一斉休校を命じた。私立校も大学もそれに倣った。会社や企業には、社員に自宅で仕事をするような態勢を取らせるよう指示した。公的機関にはすべて、閉鎖を命じた。この風景には覚えがあるなあと思った。そうだ、日本もまた、このような動きをしていたのだった。
 ロンドンはさらに加速した。多くの地下鉄の駅が封鎖され、公共交通網が封鎖されつつある。サッカーなどのイベントの開催が禁じられ、レストランやカフェ等、すべての飲食店が閉鎖に追い込まれた。英国民の文化、パブも営業が禁止された。つまり、営業が許可されているのは、薬局と食料品を扱うスーパーマーケットのみということである。政府は繰り返し、すべての国民に、自宅にいるように、‛stay at home’と呼びかけた。30年以上もロンドンで暮らすぼくが初めて経験する非常事態だった。いや、生まれてこの方、日本でも経験したことのない異様な事態となったのである。
 英国には世界に誇る医療制度NHSがある。英国内のすべての人が、基本的には無料であらゆる医療を受けることができるのであるが、今回のコロナへの対応に喘いでいる。未知の病原菌に対して、医師も看護師も献身的に真摯に闘っているが、如何せん急激な感染者への対応に苦しんでいる。ベッド数などの基本的態勢が整わない。そこで、大規模な展覧会会場を急遽、病院に作り替えることとなり、NHS Nightingale Hospitalを誕生させることになった。あの、ナイチンゲールの名を冠した。
 医師や看護師も足りない。そこでNHSは、すでにリタイア(退職)している医師や看護師に、「戻ってきて、力を貸してくれ」と呼びかけた。すぐに7千を超える人たちが手を挙げた。医療現場を支えるボランティアの人たちも17万人を超えた。心ある人間の息遣いを感じる。

 そしてぼくは、3月19日の英国の高級紙The Guardianの記事に目を止めた。
   I’m the head of medical school. But doctors like me are  
   going back to the frontline
 ケンブリッジ大学やオックスフォード大学と競う、世界のトップ大学の一つであるUCL (University College London) の医学部のヘッドが今回のコロナ患者の治療の最前線に立って、一人の医師として働くというのである。医学の研究者として活躍する彼には、目の前で苦しむ一人の病人を見過ごすことができなかった。むろん反論もあるだろう。研究者や科学者には他にやるべきことがあるだろう、との。それも正論だろう。けれども、彼の、一人の医師としてのまなざしは、患者たちだけでなく、眠る時間を惜しんで必死で働く他の医師や看護師たちに、そして数多くのボランティアの人たちに、それから国民のすべてに、大きく、深い、あたたかい力を与えたに違いない。
 教育の世界においても、勘違いをしている研究者や大学教員が少なからずいる。教育に関する研究は、教育現場に活かされて初めて意味を成すのだ。研究のために現場があるのではない。この教授のまなざしは、必ずや医学における研究の世界においても大きな成果となっていくに違いない。そう思う。

 研究所は4月の初めでもう、31歳となる。早いものだ。まだまだ、若い。まだ〈夢の途中〉なのだ。ぼくたちはもう一度、まっすぐに前を見据え、教育のあるべき姿を求めながら、一歩ずつ、歩んでいこうと思う。数多くの卒業生の心ある実践や研究を信じながら、そして仲間たちの力強い心を感じながら。

No.195 かたき地面に竹が生え、 創立30周年の朝に 夢の途中(82)

 午前零時になると、ビッグベンの文字盤は一瞬消える。ロンドン・ピカデリー通りのビルの最上階の部屋の窓際に立ってぼくは、それをじっと見ている。手前にはネルソン提督の像Nelson's Columnが立っている。
 イタリア人とドイツ人の若い秘書たちはもちろん、とっくに帰っており、残っているのはぼくだけだ。ぼくは暖炉の前の椅子に腰かけて、もう2時間以上も飲み続けているシーバスリーガルChivas Regalのグラスに手を伸ばす。目を閉じて、口にしばらく含み、もうとっくに感覚のなくなった舌の上を滑らせてゆっくり飲み込む。
 目を開けて手元のノートを見る。たくさんのことを考え続けていたはずのぼくが書いていたのは三角形と円、それから、<かたき地面に竹が生え、>ということばだけだった。
 30年前、ぼくはそうやって独り、歩き出した。

 いつも父と母がいた。あらゆるものを許し、いつもやわらかい微笑みで優しく抱きしめようとする母はしかし、ぼくが英国に旅立つ直前に逝った。だから、ぼくの英国での生活を知らない。
 母を失い呆然と立ち尽くした父は、しばらくするとまた、母のために心を尽くして育て続けた庭の花たちに語り掛けながら過ごすようになった。静かな父は多くを語らなかったが、ロンドンから帰省したぼくを自分の部屋に呼ぶと、「教育は厳しい世界だ」と言った。「君の母親のように許す力と抱きしめる力が必要だ」
 「たくましく学び、大きく学び、深く学び、豊かに学んだ者が、この人間社会の一人ひとりの幸せについて考える力を獲得する」 「貧弱な学びからは自分の利益しか考えることのできない者が生まれてくる。そこには、必要のない競争や愚かで悲惨な差別や戦争、貧しい嫉妬などが生まれてくる」
 父はこの世を去る直前にぼくに言った。そして続けた、「これでサヨナラだね」
 日本に戻った際は、わずかな時間を見つけては両親の眠る墓の前に立った。何年経ってもあふれそうになる涙をこらえながら、その時々の悩みや苦しみをぶつけた。冷たい墓石はしかし、あたたかくぼくを抱きしめてくれた。

 何も見えない。何も知らない。そういった無知で未熟なぼくには、優れた知性と豊かな教養にあふれた多くの友人がいる。大学などで教授として教育現場や研究に携わる彼らは不思議なほど純粋なのだ。いつも教育について熱く語り、ぼくを導いてくれた。
 ぼくたちは教育の力を信じている。その力は人間のあるべき歩みを支え、歩んでいく先にある様々な未来の輝きに寄与しようとする。
 けれどもまた、一人ひとりの人間が完全ではありえないように、教育に携わる者たちも決して全き存在ではない。彼らは時に、悩み、泣き、地団太を踏んだ。そして、それだからこそ彼らは一人の呼吸する人間として学生や生徒たちにまっすぐに向き合うのだ。
 友人は、教育という世界で生きている者たちだけではない。様々な仕事をしながら、それぞれの仕事で出会う人や状況とごまかすことなく格闘している。もちろん愚痴を言ったり、ため息をついたりもする。けれどもどんな時も逃げようとはしない。悩んだり、傷ついたりしながら、あくる日には笑っているのだ。
 ぼくはそういった友人たちがたまらなく好きだ。

 そして何より、研究所の歩みをともに支えてきてくれた仲間たち(所員・スタッフ)だ。取り組んでいる教育活動に納得しないと、深夜の1時であろうが2時であろうが、みんなを集めて、「ぼくたちがやろうとしている教育がこんなにみっともなくてもよいのか」などと勝手なことを言うぼくに、みんなひたすらついてきてくれた。朝から夜まで一日中、一つのことについて話し合ったこともたびたびだった。
 30歳になった研究所には、数多くの物語がある。それらの物語において主な役割を演ずるのはいつも、この仲間たちである。お腹を抱えて笑ってしまうような喜劇においても、つらい悲劇も、もちろん明日を夢見て全力疾走をする青春のドラマも、それらのすべてを仲間たちと共に生きてきた。そして、新しい明日も。

光る地面に竹が生え、/青竹が生え、/地下には竹の根が生え、/根がしだいにほそらみ、/根の先より繊毛が生え、/かすかにけぶる繊毛が生え、/かすかにふるえ。

かたき地面に竹が生え、/地上にするどく竹が生え、/まっしぐらに竹が生え、/凍れる節々りんりんと、/青空の下に竹が生え、/竹、竹、竹が生え。 (萩原朔太郎「竹」『月に吠える』)

No.194 優しい時間 夢の途中(81)

 花が見たい。春先ならば、むろん水仙だ。北へ行く列車の中でぼくは、ふと、そう思った。その〈ふと〉は、まさしく脈絡のないところに浮かんできた純然たる、ふと、である。そして、季節はもう秋になろうとしている。

 シートに取り付けられた大きなテーブルには、もう残り少なくなったハーフサイズの赤ワインとプラスチックのグラス、年季の入った革製のカバーをかぶせた文庫本、それに金縁の眼鏡がのっている。そうだ、最近気に入って愛用しているコクヨのペンシルと消しゴムも。ペンシルの芯は1.3mmの極太である。
 列車はスコットランドに向かっている。
 疲れたな、と思ったぼくは、黒い手提げ鞄に必要なのか不必要なのかよくわからないものを放り込むと、ロンドン・ユーストン駅の窓口でエディンバラ行きの切符を買った。夏の終わりの土曜の夕方である。
 駅構内の店で飲み物を買うと、ためらうことなく列車に飛び乗った。幸い空(す)いていた。

 車窓から眺める景色は睡魔を運んできて、ぼくはすぐに眠った。深い闇の奥に引きずり込まれるように、しかし目覚めて腕時計を見るとほんの10分ほどしか経っていなかった。
 鞄から文庫本を出し、グラスにワインを半分ほど注いで、読み始める。するとまた、眠くなるのだ。腕を組み、背もたれに寄りかかってウトウトする。浅い眠りだ。けれども、ぼくは夢の中で泣いていた。

 少年のぼくは泣いていた。
 ぼくはいつからぼくなのだろう、と少年はずっと考えている。
 どうしてぼくは、自分の目からしかものが見えないのだろう。ぼくが感じたり、思ったり、考えたりすることはすべて、ぼくという人間の中で生まれ、様々な形に変わり、時にそれは暴れまわり、疲れて横たわり、完結する。それが不思議でならない。
 ぼくが〈生きる〉ということにはどのような意味があるのだろうか。
 少年は父親と母親を心から尊敬し、その両親の大きな愛に抱かれながら育つ。兄姉も優しく、みんな豊かな知性を持っていた。けれども、母が、父が死に、兄が死んだ。大切な、かけがえのない人たちが次々と消えていった。それらの人たちは、いったい何のためにいたのか。ぼくの人生の一時期に存在した者たちは、一時期のためにだけ配置された風景にすぎないのだろうか。

 いつのまにか通路を挟んだ反対側の座席に、赤子を抱いた女性がいる。生後6か月ぐらいだろうか、つぶらな瞳の女の子だ。女性とよく似ていて、とても可愛い。白い、手編みと思われる柔らかそうな毛糸の服を着ている。
 赤子と目が合う。微笑む。微笑む自分をぼくは見ている。見えないのだが、確かに見ている。
 赤子はじっとぼくを見つめている。女性が気付く。ぼくを見る。ぼくは微笑む。女性も微笑む。
 視線を外し、のどかな外の風景を眺める。

 鞄からノートを出して、ペンシルで三角形を描く。いくつもの円を交差させて、一つため息をつく。
 数多くの牛が見える。
 運河が見え、細長いボートがのんびりと動いている。

 どうしても、どうしても逃れることのできないまなざしが、ぼくを捉える。
随分生きたようだが、それほどでもないような気もする。面白いことに、平均寿命というものから計算すると、これからそれほどの時間が残っているわけではない。その残っている時間と同じ時間で、ぼくは何もしてこなかったではないか。
 平均寿命? ああ、ぼくには関係のない数値だった。
 さて、エディンバラに着いたらどうしようか。そうだね、その程度にしか、ぼくは先々のことを考えずに生きてきたのだった。いや、その時々にはもっともらしい理屈、時には論理というものがあったようにも思う。けれども、いずれにしても大したものではなかったのだ。
 いつだったか、ホテルを予約しないでエディンバラに着いたことがあった。寒い冬だ。タクシーに乗り込むと、「一番いいホテルまで」といって連れて行ってもらった。大変な額の宿泊代を払わされたが、ホテルの名前さえ覚えていない。
 いや、一晩中歩き回って、朝一番でロンドンに戻ろう。列車の中の優しい時間をすぐにもう一度味わいたい。ぼんやりとした眠りの中で、少しだけお酒を飲みながら、人を愛そうとする時間を静かに過ごしたい。

No.193 教育原論 安らぎと違和感と 夢の途中(80)

  6月後半から7月にかけて日本に出張した。
 暑い。夏の日本はできるだけ避けたいと思っているのだが、様々なスケジュールの調整からこうなった。もっとも、ぼくが仕事を終え、7月の始めにロンドンに戻ったあとの日本は、暑い、とかいった生易しい気象ではなく、豪雨と酷暑に喘いでいる。数多くの亡くなられた人たちのことや、被害に遭われた人たちのことを思うと、たまらなくなる。日本という国の季節や風景が、間違いなく変化しているように感じる。変化しているというのではなく、破壊されてきているというべきかもしれない。

 わずか2週間の出張ではあったが、仕事の合間に懐かしい友人や教え子たちと会うことができた。
 70代後半の友人夫妻は、昔と変わらず優しかった。今も若者相手に教鞭をとりながら、研究も続けている。さらには、平和運動にも精力的に打ち込んでいる。
 50代前半の教え子たちは、それぞれが所属する組織の中で、必死で生きている。もがき苦しんでもいるのだろうが、会うことができた者たちのまなざしはみんな、素直で、真面目で、そして柔らかかった。
 30代や40代の教え子たちも、会っている5、6時間の間、あれもこれも話したい、聞いてほしいというように、自分の取り組んでいる教育について熱っぽく語り、聞かせてくれた。「どんなにまわりがおかしくても、負けずに、教育のあるべき姿に打ち込みます」と宣言するそのことばに、油断すると涙が出そうになって困った。
 70、80代の詩人たちも、ぼくを囲んでくれた。優れた詩作品を発表し続ける詩人たちのまなざしは鋭く、かつ優しい。
 愛すべき者たちに囲まれながら、幸せだなあと感謝しながら、もっともっと頑張らねばと自分を叱咤した。日本の初夏の暑さがぼくを励ましたのだ。

 ロンドンに戻り、研究所に出勤する朝の電車の中で、あるネット記事を読んだ。

 7月14日、新幹線のグリーン車に乗車中にツイッターを更新。
 前の席のクソ野郎がおれが寛いでいるのにもかかわらず一々「席を倒していいですか?とか聞いてきやがる。ウゼエ。勝手に倒せや。そうやって何でもかんでも保険かけようとすんなボケ(堀江貴文・ホリエモン・45)

 後ろの席の人に迷惑をかけてはいけないと声をかけたことで、このように罵倒されなければならないとはどういうことなのだろうか。この堀江貴文なる人物についてはいろいろな話題となった男であるから、名前ぐらいは知っていた。この男のこの発言にぼくは、正直言って憤りを覚えた。この男のことばの汚さは、このように公けにさらされるべきものではないと感じた。ツイッターなるものは、「読んでくれ」というものだろうから、きっと誇らしげに書いているのだろう。
 このような言葉を操る男をテレビやラジオ、雑誌等は面白おかしく持ち上げる。調子に乗ったこの愚かな男がさらに暴走する。それにつられて一緒に走り出す者たちが少なからずいるのだそうだ。同じような言葉遣いをすることがカッコイイとでも思うのだろうか。
 いや、この男に限らない。同じ日のネット記事には大阪府知事、大阪市長を歴任し、今またタレントとしてテレビ等に出ている橋本徹という男のツイッターの同種のことばづかいが載っていた。彼の罪はもっと重く、公職にある当時も、この種の恥ずかしい言葉遣いをさも誇らしげにばらまいていたのである。しかも彼は、大阪府や、大阪市の教育改革を政治活動のPRの柱の一つに謳いあげていたのである。
 メディアの罪も重い。この、チンピラともいえる男どもの、チンピラ風のことばづかいを商品として垂れ流しているのである。なぜ商品になるかと言えば、この男たちが、知事や市長、IT資産家という、社会的地位を持っているからである。つまり、そのような者たちが、チンピラ風のことばづかいをするのが面白いからである。
 しかし、大衆も気づかなければならない。この男たちがチンピラ風のことばづかいをしているのではないことに。この男たちはただの、そして純粋なチンピラなのである。そのことに気づけば、朝であろうが、昼、夜であろうが、チンピラのことばを敢えてありがたくテレビで聞こうとは思わないだろう。ただのチンピラが、テレビで話しているだけなのだから。
 そして、これらの種類の男たちを遣うメディアの連中もまた、あるいはもっといやしい種類の人間たちなのである。
 驚くことに、このホリエモンなる男がこの度、「高校」を創設し、若者の教育に関わることにしたと報じられている。

 喘ぐ自然の中で、安らぎと違和感を覚えている。

No.192 教育原論 父と子 夢の途中(79)

 およそ35年も前の教え子の息子が訪ねてきた。教え子というのは日本で教鞭をとっていた頃の教え子である。その若者は日本のある国立大学の歯学部に在籍しているという。柔道をやっているとかで、がっしりとした体格の好青年である。むろん初めて会うのだが、人のよさそうな表情に教え子の面影を見る。
 「先生、息子を先生に会わせたかったんです。会ってもらえませんか」というメールが届いたのだったが、これまでも昔の教え子の娘や息子たちが時折、ロンドンのぼくを訪ねて来ていた。
 その度にぼくは、〈懐かしさ〉を覚えるのだ。教え子たちの子どもを通して、かつての自分に再会するような〈ときめき〉を覚えるのだ。だから、子どもたちにとってはあまり興味がないであろう昔話を、ぼくはワインを飲みながら長々と話すことになる。

 その頃、ぼくは長髪だった。今はもう、わずかな時間ですべての髪の毛の数を数えることができるのではないかという荒廃ぶりであるが。長身のぼくはさらに背が高く見えるほどに痩せていた。痩せてはいたが、しっかりと筋肉を身にまとい、腕相撲や100メートル走ではだれにも負けないぞと片っ端から戦いを挑んだり、ジャンプ力を誇ってみせたりもした。
 ユリイカや現代詩手帖といった月刊の詩誌を愛読し、近現代の詩人たちの詩集を分析的に読み込んだ。群像や文学界といった文芸誌を読むと、この新人作家は芥川賞を、あるいは直木賞を取るだろうと予測してみせ、それがその通りとなっても、関心はもう新たな作家の作品に向かっていた。
 権威といわれる学者、研究者たちの論文を実感が持てるかどうか、納得できるかどうか、自分のことばに置き換えながら読んでいった。名前の大きさに比してつまらないなあと思ったり、論理の明快さに感動したり。
 ボーナスのほとんどは本代に消えた。わずかばかりの印税収入も浴びるほど飲んでいた酒代に飛んで行った。

 そして、教え子たちとの出会いである。ぼくは彼らを徹底的に愛した。今思い出しても素直に、瞼が熱くなるほどに。
 おそらくぼくは、彼らとの出会いによって、教育のあるべき姿について考えるようになったのではないかと思う。
むろん、未熟で、稚拙で、独りよがりで、傲慢で、この種のことばをいくら並べても足りないほどに、ぼくは情けない青年だった。力のなさを認識しながら、それを補い、成長させようとする努力の姿勢も十分ではなかった。けれども自分自身は、必死で努力していると思っていたのだ、その時は。
 彼らはしかし、みずみずしいまなざしで、まっすぐにぼくと向き合った。そうなのだ。彼らはぼくを〈先生〉と呼んだ。〈ぼくたちはあなたを先生と呼び、あなたをじっと見つめます〉と、〈さあ、ぼくたちに教えてください。ぼくたちは何のために学ぶのですか。ぼくたちは何を学んだらいいのですか〉と彼らは毎日、ぼくに語り掛けた。ぼくはその時、何を彼らに教えようとしたのだろうか。

 訪ねてきた青年は、不思議なほどにぼくのことを知っていた。自分の父親の友人たちのことも詳しく知っていた。幼い頃からくりかえし、くりかえし、話を聞いていたんです、と彼は笑った。
 父親がわが子に、自分が子どもや青年であった頃のことを話し聞かせる風景は何とも幸せである。先生や友達のことを話すときの父親はとってもうれしそうなんです、と青年は言う。そして、とても誇らしげなんです、とも言う。
ぼくはワインのグラスを手にとって、口に持って行かずにテーブルに置く。もう一度グラスを手に取ると、しかしやっぱり飲まずにテーブルに戻す。
 急に降り出した雨が、激しく窓ガラスをたたく。窓の外には、小走りに走っていく男や女の姿が見える。今、目に映ったばかりの彼らの服装の色が思い出せない。
 ぼくの40年ほどの教師生活は、いつ終わるのだろう。
 ぼくの父は結局、死ぬまで教育者だった。ぼくが幼い頃から父は、教育者としての生きざまをぼくに見せ続けた。生活のすべてが、〈先生〉だった。ぼくはその父の姿を誇りに思って生きてきた。
 ぼくは、いつか〈先生〉を卒業するのだろうか。
大学の教員をしている息子がある日、ぼくに送ってくれたEmailをプリントアウトして、ぼくは小さな布袋に入れてお守りとしていつも持っている。ぼくがある日曜日の午後、突然倒れて、救急車で大学病院に運ばれたとき、彼が送ってくれたものだ。
 ……I just wanted to say that your health and happiness are the most important things for all of us. The biggest worry in my life is your health. Even before Sunday, I had been worrying a lot about it. In fact, I worry about it every day. Remember that we all need you to be well so we can share our lives with you. And my son needs his Jiji to play with and learn from many, many more years to come! ……

 青年はぼくとの写真を撮ると、FBで日本の父親に送った。

No.191 続・29年目の春 まなざし 夢の途中(78)

 四国のある国立大学で講演をした時のことだ。講演を終え、その大学の副学長が、大きな会場に集まった学生たちや教授たちの前でお礼のことばを言ってくれた。彼は言った、「図師先生が書かれているものをいろいろと読むと、たびたび〈まなざし〉ということばが登場する。先生が大切にされていることばであることがわかる」と。講演に先立ち、ぼくの大量の拙い文章を読み込んでくれた彼に驚くとともに、頬の赤らむのを覚えた。
 確かにそうだな、と思う。このことばを用いるときぼくは、その文脈の中で、違和感を覚えることはない。ことばに違和感を持つといつまでも気になってしまうぼくは、話しことばの際も話しながら自分のことば遣いをモニターしながら話すようになっている。
 いつからこのことばを遣うようになったのだろうか。おそらく自分の考えを文章によって書き表したり、人前で講演のような形で話すようになったりしてからではないか。つまり、ものを見つめるということのあり方について生意気に発言するようになってからではないか。
 けれどもそれは、ぼく自分の〈まなざし〉について述べたものではない。こうでなければならないと発言するぼくは、自分自身に向ける〈まなざし〉には気持ちの悪いほどの甘さがある。いや、ぼくの〈まなざし〉自体が厳しく問われなければならないのだ。

 29歳になった研究所は、純粋に教育の可能性を追い求めてきた。研究所が誕生した時から今に至るまでを思い返すと、目頭が熱くなる。既存の価値観や権威、権力といったものに屈することなく、研究所は胸を張って走ってきた。
 ことばの教育がどのように位置づけられなければならないかと真剣に考えた。朝も昼も夜も、考え続けた。歩きながら、電車の中で。サンドイッチを頬張りながら、酒を飲みながら。
 ことばの教育を担う教師はどうでなければならないか。外国語を学ぶとは何か。教えるとはどういうことか。
 日本の大学教授や臨床心理士たちで作る研究会から頼まれて不登校の子どもたちを預かったものの、その子どもたちがホームステイ先に帰って来ず、夜中の1時や2時に研究所にスタッフを集めてみんなで対策を考えた。
 「自分も他の学生たちと同じように外国に行ってみたい」と希望する全盲の大学生を受け入れた。語学留学をどこも受け入れてくれないと相談を受けたのだ。
 学校におけるいじめ問題にも取り組んだ。ロンドン大学のピーター・スミス教授に基調講演をしてもらい、国際シンポジウムを開催した。日本からも大学教授たちが参加した。
 心を病んだ学生が英国の警察や病院の世話になった。日本ですでに発症しており、親によって外国に捨てられた青年だった。ぼくたちは、深夜に走り回った。
 日本の政府関係の機関が何のために外国に存在しているのかという疑問をぼくたちは強く感じた。「何もしないのがいいんです。何かして失敗すると今後に響きますから」と平気で言う役人にぼくたちは背を向けた。「違法とはわかっているが、娘を学生として入国させてくれないか」と厚顔にも相談してくる高級官僚もいた。そういった者たちに、周りの弱い者たちはひたすら頭を下げて取り入ろうとした。権力にすり寄った。公僕たる者たちは実は村社会の代官であったのだ。経験した数々の事例は昨今の劣化しつつある日本社会をさもありなんと悲しい確信に導く。
 日本の大学がはたして高等教育機関としての確かな教育理念を持っているのかという疑いもぼくたちはたびたび持った。大学の教員の中には、学生の教育にはまったく情熱を持っていない者たちも少なくなかった。自分の学生を、若者を馬鹿にしていた。
 けれども、未開発諸国、発展途上国の子どもたちの教育に携わりたいと入学してくる若者も少しずつ表れ始めた。劣悪な環境の中で、現地の子どもたちにあたたかいまなざしを向ける卒業生もいるのだ。
 銀行で働く青年が、いろいろな経験を積んだ後は自分の故郷に戻って、海外の人たちをたくさん招き入れて、もう一度新しい日本を作る仕事がしたいと語ることもあった。そのために研究所で学びたいと入学してきた。
 社会人として長い間働き、一つの区切りをつけた人が、新たな生を求めて歩み始める姿にはたびたび出会った。生きるということは何だろうと静かに考えながら、柔らかな表情に包まれたその人のまなざしは光を放っていた。

 ぼくはもう一度、自分の顔を鏡に映してみよう。ぼくは、研究所は、はるか遠くの青い空を見つめているか。そのまなざしは、曇りなく、輝いているか。
 負けてはいないか。教育のあるべき姿を求めようとしているか。新しく、豊かな可能性を信じているか。
 これまでは助走にすぎない。まだまだ、「夢の途中」なのだ。

No.190 29年目の春 はじけても、もう一度 夢の途中(77)

 日本にいるころ、行きつけの酒場があった。和製英語で言うならばスタンドバーという種類の、10人ぐらいしか入れない、カウンターだけの小さな店だ。だからいつもいっぱいで、けれども店に顔を出すと、他のお客さんを追い出しても、何とか入れてくれるのだった。名を「ダック」といった。
 ぼくなんかよりずっと年上のママさんがいて、同じくらいの年齢の女性がいて、ぼくと同じくらいの年齢の若い女性もいた。つまり3人いたのだ。カウンターの中に3人も入れば身動きができないぐらいの狭さだった。
 ぼくはたいてい、教員仲間と、つまりは男2、3人で通った。たまに、女性スタッフが加わることもあった。客はみんな常連で、ぼくより若い人は見かけなかった。ぼくよりみんな、ずっと年上だった。
 通い始めたころはカラオケなどというものはなく、みんな大いに語り合うのだった。けれども、職場の愚痴をこぼす人はあまりいなかった。そういえばいったい何を話していたのだろう。
 ある晩、公務員をしている人が、「実は、頼みがある」と真剣な面持ちで話し始めた。「娘を嫁にもらってくれないか」というのである。彼はいろいろとぼくが会ったこともない娘の長所を並べ立てた。ママが慌てて言う、「先生はもう結婚されているのよ」と。
 一番若かったぼくだったが、いろいろな人たちの様々な相談を受けた。的確なアドヴァイスなどできなかったが、じっくりと時間をかけて話を聞くことはできた。
 しばらくすると、カラオケがその店にも出現した。今のような画面に歌詞や動画が現れるといったものではなく、伴奏だけが流れるのである。分厚い歌詞カードを見ながら歌う極めて原始的なものだ。年配の人たちはみんなうまかった。むろん、ほとんどは演歌である。テレビをほとんど見なかったぼくは、彼らが歌うのを聞いて流行りの歌を知るのだった。軍歌を歌う人も何人かいた。
 ぼくは、10年近くもそこに通った。
 そのバーが主催して、日曜日にお花見に行ったこともあった。ぼくは子どもたちを連れて行ったのだったが、バーの女性や、常連さんの奥さんやお嬢さんたちが幼い子どもの面倒を見てくれた。
 店が閉まるまで飲んだ時は、ママが家までタクシーで送ってくれた。タクシーの中で彼女は時々、いろいろな悩みを口にした。ああ、懸命に生きているんだなあ、とぼくは、あまりに未熟な自分を叱咤した。
 みんな優しかった。どうしてだったのだろう。ぼくが店に顔を出すと、「あ、先生、ここ、ここ、ここにおいでよ」と時には自分の座っていた席を譲って、自分は立ったまま飲もうとしたり。
 そんなみんなが「先生、みんなで何かやろうよ」と言い出した。「じゃあ、ぼくが脚本を書くから、みんなでお芝居をやろう」と提案した。みんな驚いた。大変な歓声が上がった。
 芝居の題名は「シャボン玉、飛んだ」と決めた。

   シャボン玉飛んだ  屋根まで飛んだ
   屋根まで飛んで  こわれて消えた
   風 風 吹くな シャボン玉飛ばそ

   シャボン玉消えた 飛ばずに消えた
   生まれてすぐに こわれて消えた
   風 風 吹くな シャボン玉飛ばそ

 野口雨情作詞・中山晋平作曲の童謡である。この歌が好きだった。けれども、それはできなかった。ぼくが英国に行くことになったからである。みんな寂しそうだった。ダックで開かれた送別会の夜、「シャボン玉、やりたかったなあ」と彼らは言った。
 10年前、つまり日本を離れて20年が経ったころだ。店を訪ねたぼくは、大きくなって、きれいになったダックに戸惑った。もちろんスタッフも、ママも変わっていた。時が流れたんだなあ、とぼくが静かにカウンターでウイスキーを飲んでいるとドアが開き、年老いた女性が現れた。
 「先生、お帰りなさい」
 昔のダックのママだった。今のママが、電話をかけたのだという。どうしてわかったのだろう。ぼくは名乗ってはいない。今のママが引き継ぐときに写真を渡し、この人が店に来たら電話をしてくれと頼んでいたのだという。20代の青年の頃の写真でよくわかったものだと驚きながら、小さくなったママを抱きしめた。
 椅子に腰かけ、ぼくは年老いた彼女と静かにウイスキーを飲んだ。「シャボン玉、やりたかったねえ。みんなずっとその話をしながら先生の思い出話をしていたんだよ」と彼女は言った。
 そうなのだ。
 はじけたシャボン玉を、もう一度飛ばさなければ、と思う。もう一度、青い空に向けて、シャボン玉を飛ばそう。
 研究所はこの4月に29歳になる。来年は30歳だ。まだまだ若い。これまでは助走にすぎない。まだ、「夢の途中」なのだ。

No.189 教育原論Ⅰ 教師(9) 夢の途中(76)

 2月に日本に出張し、東京、福岡、大阪と移動した。大阪で仕事を終えたある日の夕刻、3人の友人と会った。ぼくのホテルのすぐそばにホテルを取って、わざわざ東京からやってきてくれた東京学芸大学教授のM先生、同じくホテルを取ってやってきてくれた広島・尾道市立大学教授のH先生、それに数日前の東京にも会いにきてくれた高知大学名誉教授で、今は京都大学で教えているW先生である。

 数日前にアメリカ出張から帰ったばかりのM先生が、教員の労働状況の改善について話し始める。日本での最近の話題である。教育行政や学校制度が専門の彼の表情は穏やかだが、その論の展開は鋭い。
 たしかに、日本の学校の先生たちはとても忙しい。授業(教科指導)だけをしていればいいわけではない。特に小学校や中学校の先生たちの一日は大変である。子どもが学校にいる間のすべてに関わり、加えて、家庭やそのほかの空間における子どもの生活にもいろいろと関わらなくてはならない。
 要求の際立つ保護者のことを、ある教育評論家は「モンスターペアレント」と名付け、テレビドラマになるほどに話題となった。親が子どものことに必死になるのは当たり前であり、それをこのことばでひとくくりにカテゴライズするのは乱暴な話であるが、度の過ぎる親たちが多くなったのはたしかである。さらに、その親たちの顔色をうかがうような教育委員会の存在が、この問題を大きくし、複雑化させ、つまりは現場の教員を困憊させた。
 クラブ活動等の指導も、教員の時間を奪っている。運動関係の顧問や監督、コーチになると、土曜や日曜日も、あるいは夏休みなどの長期休暇も休むことができなくなる。もともと体育系の教員ならともかく、たまたま割り当てられた教員にとっては物理的にも、精神的にも負担が大きい。
 一般の会社などの、他の社会とは大きく異なった空間で、教員たちは常に、全力疾走が強いられている。
 そこで、労働条件を見直そうという機運である。このことはぜひ取り組むべきだと強く思う。強く思うのだが、労働時間が厳密に規定され、その他の時間は一切解放されるというのは、たとえば一般の会社員のような、あるいは役所の公務員のような、とたとえたほうがよいのかもしれないが、教員の仕事を、そのような仕事として本当に位置づけることができるのだろうか、とぼくは懐疑的だ。
 一日の仕事を、ある時間が来たらさっさと引き出しの中にしまって帰宅するというようなことは、教員には難しいのではないか。古いといわれるかもしれないが、教員の勤務時間の規定や厳密化というものは実際的にそぐわないのではないかと思っている。朝の教員同士の打ち合わせ、朝礼のようなものを済ませたら、教員に時間の管理と仕事への取り組み方は任せてもいいように思う。
 可能であれば、日によっては早く帰宅して自宅で教材研究等に取り組むのもいいだろう。どうしても学校に残ってやりたいことがあれば、夜の10時や11時になってもいいのではないか。気になる児童や生徒、学生と、あるいは保護者と、土曜や日曜日に語り合うのもいいし、夏休みの3週間や一月を海外で過ごすのもいいだろう。途中、学校を抜け出して、美術館に足を運び絵画を鑑賞してくるのもいい。
 もし、先生が学校にいない時に子どもたちに何かあったらどうするのか、といった心配も当然あるだろう。そのために、教員数を増やすのである。少なくとも今の2倍の教員で、教育現場を受け持つのだ。つまり、一つのクラスに二人や三人を配置する。 
 とても経済的に成り立たない、非現実的だ、という嘲笑が聞こえてきそうだが、そうだろうか。現在の日本の国の予算は適切に組まれているだろうか。とても必要とは思われない兵器を、実は防衛については何もわからない素人大臣が、米国から大量に購入したり、いわゆる箱モノと言われる贅沢な建築物を次々と建築たりして、結果的にあるいは意図的に、限られた者たちに富を集中させているではないか。真摯に見直せば十分に教育の改善に税金の配分ができるだろう。首相はたびたび外国を訪れ、まるで自分のお金のように大盤振る舞いして、その結果、それらの国から大歓迎をされる自分に酔っているではないか。
 まずは、教師と児童、生徒、学生が向き合うその場を豊かにしなければならない。まずは、教師に豊かな感性と優れた知性を持たせることだ。教科書の代わりにタブレットを持たせ、スマートボードなる電子黒板を配置する前に、子どもたちを見つめる教師の豊かなまなざしを教室に置くのだ。
 優れた教師を養成するのがまず、重要なのである。
 先生と呼ばれる信頼できる人間が、全身で、ぼくを見ている。私の明日を一緒に考えようとしてくれている。子どもたちが、そう感じる空間を創出するために、政治は、教育行政は何をしなければならないかとまず、考えてみなければならない。

No.188 教育原論Ⅰ 教師(8) 夢の途中(75)

 幼いころ、ぼくは泣き虫だった。いや、実際はそうではなかったと思うのだが、「てるてるぼうず、てるぼうず」という囃子(はやし)で、からかわれた覚えがある。ぼくの名前が「てるゆき」だからそう囃したのだろう。「あした、天気にしておくれ」と続き、雨が降っているから(泣いているから)早く止んでおくれよ、というのである。なかなかうまい揶揄(からか)いかたである。いじめられていたわけではない。だれもが、なんらかのこの種の遊びの対象とは少なからずなっていた。
 今は本当に、涙もろい。小説を読んでいても、ドラマを見ていても、すぐに涙があふれてしまうのだ。必死で生きている人の姿を描いたものや優しい心が描かれたものに触れると心が動き、単純な話であってもつい、涙があふれる。そういったフィクションの世界だけでなく、シリアやソマリアなどの国の難民の苦悩をテレビの映像で見ると、嗚咽(おえつ)してしまいそうになることもある。学生の卒業式のあいさつのことばを聞いていても、油断すると危ない。歳を取るとだれでもそうなるのかもしれないが。
 できるだけ優しい人間になりたいと、よく思う。毎朝のように電車の中で決意するのだが、帰りの電車の中ではひとり、自分を責めている。むろん、この優しさの意味は、若い時に比べると少しは変化し、成長したようにも思う。いや、そのようになれたというのではなく、なりたい姿の表情が変わってきたと思うのだ。優しくありたいといっても、どのようなかたちが優しさなのか。
 ぼくは今、優しさとは大切な人を抱きしめる力だと思っている。この「抱きしめる」とは、実に難しい。抱きしめるためには当然ながら、その人を心から愛さなければならない。この「愛する」ということがまた、難しいのだ。何を青臭いことを言っているんだ、老人のくせしてと笑われそうだが、おそらく誰もが、よくわからないのではないか。
 いつだったか、日本に出張した際、日本の大学の教授たちと卒業生(教え子)たちが、10数人集まってくれた。居酒屋で談笑するうちに、ぼくの目の前に座っていた女性の卒業生が「早く結婚したいなあ」と言い出した。「それは不純だね」とぼくが言う。「どうしてですか」とむきになる卒業生に、「結婚というのは間違いなく不純だとぼくは思うんだ。だって、一種の契約を結ぶんだよね、愛している人と。自分の愛情に自信があるのなら、そういった契約などでお互いを縛り合う必要などないんじゃないかな。さあ始めようというときに、〈念のための契約〉を結ぶなんておかしくないか?」「永遠の愛を誓うんだからいいじゃないですか」
 「永遠の愛は契約によって保障されなければならないものなのだろうか。そんなものは必要なかったんだよ、昔は。社会というものが進歩するようになってね、いろいろな規則のようなものでお互いを縛り合っていくことになる」
 これはつまらぬ論争のための論争にすぎぬ、もう止めようと話しながら思っていると、隣に座っていたやはり女性の大学教授が「図師先生のおっしゃる通りですよ。まったくその通りです」と力強く頷いた。
 ぼくの言っていることは今も正論だとは思う。けれども、いつも正しいことが良いことであるとは限らない。幼い頃から理屈っぽかったぼくのことを母は、随分心配していたようだ。この子は論理というもののために息苦しい人生を送るのではないかと。学生運動が盛んな時期には特に心配していたようだ。
 ぼくの長男と次男にはそれぞれパートナーと子どもがいて、幸せに暮らしている。二人とも結婚はしないと宣言している。結婚という形式にとらわれたくないというのである。これから先どのような生き方をしていくのか、もちろんぼくにはわからないが、幸せのかたちがいろいろあってもいいではないかとは思うのだ。 
 教師論にこの話題を取り上げたのは、先生という人たちが児童や生徒、学生といった者たちに向き合うとき、もちろん専門とする知識や技術が優れていなければならないのは当然であるが、人間が人間と向き合って学ぶ場において、教える人間と学ぶ人間との、言わば〈生きる〉ということについての捉え方というものの闘いのようなものがあるように思うのだ。闘いは、幼い幼児においてさえ意識されている。この保母さんの疲れたまなざしは何なのだろうか、この先生はどうしてあの子に対してだけ優しくて私には優しくしてくれないのか、この教授の大切にしているものはいったい何だというのか、そんなに数字が大切なのか、そんなに有名な会社に就職することが誇らしいことなのか、ボーイフレンドが工事現場で働いていてはいけないのか。こういった闘いはもちろん、友達間や、親子の間でも繰り広げられる。そのほとんどは無言で、愛想笑いなどを浮かべながら。
 教師には、できるならば青空を思いきり突き抜けるぐらいの自由なまなざしがほしいと、ぼくは思う。既成の様々な束縛から解き放たれているような、こんな人が世の中にいたらちょっと困るけど、でもとても楽しくなるような、そういった伸びやかさがほしいと思う。そうでなければ、うんと背伸びしようとする、学ぼうとする者たちを抱きしめることはできないのだ。

No.187 教育原論Ⅰ 教師(7) 夢の途中(74)

 少年院で行われた成人式のレポートを読んだ。認定特定非営利活動法人育て上げネット理事長の工藤啓さんの文章である。少年院とは「家庭裁判所から保護処分として送致されたものを収容するための施設」をいい、2015年6月施行の現行少年院法(新法)によれば、4種類に区分して、概ね12歳から26歳までの者を収容し、社会生活に適応させるための矯正教育を行う。念のために言えば、少年刑務所などとはその定義が全く異なる(参考:Wikipedia)。
 社会に適応できず、様々な問題を起こし、いろいろな人に迷惑をかけた若者たちがそこで暮らしている。迷惑をかけられ、危害を被った人たちにとっては、許せぬ存在に違いない。けれども、その者たちの立ち直る可能性を信じて設けられている機関である。
 ぼくには加害者と被害者の気持ちを理解する力などむろん、ない。ただ、ぼくたちの生きている社会が、若者の幼い過ちを何とか受け止めてやろうとする姿勢を持っていることには、拙い感傷なのかもしれないが、きっとそうだろうが、被害者から見れば許せないに違いないが、ホッとするのだ。ぼくが被害者であれば、おそらく許せないだろうと、自分の身勝手さは自覚している。
 その少年院にも成人する若者たちがいる。その者たちのために、成人式が催される。彼らは「背筋を伸ばして座っている。スマホを眺める者も私語をする者もいない」。一人ずつ壇上に立ち、深いお辞儀をして、1、2分程度のあいさつをする。「贖罪」「後悔」「反省」「謝罪」といったことばが、「自覚」「仁徳」「感謝」「健全」「責任」などということばにつながれる。「親孝行します」「幸せにします」「もう二度と悲しませません」という彼らのことばを聞く参列した親たちは、涙を流し、天井を見上げる。
 家族から新成人に書かれた手紙が代読される。「親の事情でつらい思いをさせてごめんね。あなたが生まれてきてくれて良かった。かわいいあなたがいてくれて本当に良かった。自分の可能性を信じて、あきらめないでいてほしい。母はずっと、あなたの味方です」などと書かれている。新成人も親たちも鼻をすすり、嗚咽する。
 だが、新成人の数に比して、参列している親たち家族の数は明らかに少ない。少年たちの非行や罪の背後には、複雑な家庭事情と社会背景がある。
 かつて成人式は1月15日だった。今日は14日だから、ちょっと前までは明日が成人式かと思いながら、ぼくはこの工藤さんのレポートを読む。日曜の朝、緩くなった涙腺に慌てる。
 人間は決して強くない。たびたび躓いては転ぶ。擦り傷程度の痛みならば、照れ笑いでごまかすことだってできるだろう。けれども、生きる間ずっと背負わなければならない傷を抱えながら若者は、確かに明日を見つめることができるのだろうか。

 新しい年を迎えた。1月1日の朝は特別である。今日が昨日につながっていることは承知しながらも、正月の朝は新しい空気に満ち溢れていなければならない。昨日までのそれと明らかに異なっていなければならない。
 教師はおそらく、この朝の、新鮮な空気を常に感じることのできる人間でなければならないと思う。つまり、児童や生徒、学生たちと向き合うとき、彼らが体や顔のところどころに漂わせている昨日までの〈失敗〉を一旦、引き出しの中にきれいに整理してしまいこみ、全く新しい紙と鉛筆を渡してやりたい。
 さあ、この新しい紙に、君の明日を書いてごらん。いやいや、昨日までのことは気にしなくてもいいから、思い切り明日のことを考えてみようじゃないか。うん、明日食べたいものを書いたっていいさ、会いたい人の名前を書くのだっていい、そうとも、行きたいところについて調べてね、そうそう、どうやったら行けるかなと考えてみる、うん、うん、そりゃあお金がかかるかもしれないなあ、でもお金のことはちょっとの間忘れてさ、なんとかなるさって、そうそう楽天的にね、えッ、お月さまのところに行きたいって、そうだなあ、遠いなあ、行けるといいなあ、お月さまのところに行って何をしたいの、あ、そうなのか、お月さまに立って、地球を見たいのか、すてきだねえ、そうだよ、行ったことのある人だっているんだから、ほんとだよ、そして帰ってきたんだ、ぼくたちの星に。君は? お母さんの脚を治してあげたいって? そうか、左の脚が不自由なのか、お医者さんになるのか、いいねえ、でも大変なんだぞ、お医者さんって。わかってるって?
 たくさん勉強するんだ。あなたは? そうですか、こどものころいじめたともだちに謝ってまわりたいんですか、そうですか、そうですか。ええ、次はあなたですよ、順番からいっても、寂しそうな人の背中をいつまでもさすっていてあげたいって、うーん、あなたには寂しそうな人がわかるんですね。最後に、あなたです。病室のベッドに横たわって周りのみんなに迷惑ばかり掛けているので何にもできないけれど、残された時間、できるだけ微笑んでいたいんです。
 ぼくたちは新しい空気を思いっきり吸い込むことができる。

No.186 もう一度 夢の途中(73)

 師走というのは、確かに他の月とは違う。2、3倍の勢いで駆け抜けていく。そのことは、時間というものが実は、一見冷たい厳格性を持っているかのように思われるが、極めて主観的な基準としてわれわれ人間社会に存在していることの証である。
 何を馬鹿なことをと笑われるかもしれないが、科学というものはつまり、そういった曖昧で、我儘な感性に支配されている。写真よりも似顔絵の方が〈その人〉を描くことができ、ピカソのキュビズムが具象を超えて迫力ある真実を表現するのもそういうことだ。心のありようで、見ているものの形や色、質感や体温や味が異なるのである。

 しばらくすると、2017年が死に、2018年が生まれる。時は繰り返されることはない。同じ季節や時がやってくることは決してない。時は、生まれた瞬間に死んでいくのだ。〈今〉は瞬時に〈過去〉になる。

 2018年をぼくは、本当に全く新しい思いで迎えたいと思っている。教育の世界で呼吸をして、およそ40年が過ぎた。新年からの数年間でぼくは、時間をかけて、いろいろなことを、可能性も含めて丁寧に整理してみたいと思っている。数多くの人たちとの出会いについても、そのほとんどが詫びることから始めなければならないが、心からのお礼の挨拶をしたい。

 ぼくは今、大量の段ボールで埋まった倉庫を少しずつ片付けている。遅々として進まず、その意味では困っているが、ぼくにとっては貴重なものがたくさん出てきて、それらを手に取り、様々な思い出をかみしめている。不覚にも涙が手の甲に落ちたりもする。ぼくが中学生の頃の成績通知表なども見つかった。数十年も前に定期購読をしていた岩波書店の月刊誌「文学」に突然、ぼくの名前を見つけた時の驚きや喜びも、暗い倉庫の中で蘇った。如何に未熟であったかがよくわかる古い写真の中の自分の表情に、いまさらながら赤面する。
 過去を振り返ることが今のぼくにとってどのような意味を持つのか、新たな意欲や勇気を与えてくれるのか。
そういったものを見つめながらぼくは、数多くの人たちに支えられてきた自分の幸運に、素直に感謝する。そうなのだ、ぼくは素直になることができるようにはなったのだと思う。若かったぼくは特に、自分よりずっと歳を取った先輩たちにかわいがっても らった。我儘や生意気を大きな笑顔で受け止めてもらった。こんなことがしたいと言えば、周りの誰かがすぐにお膳立てを整えてくれた。ぼくはすべての中心にいて、やりたいようにやらせてもらった。自分には才能や力があるのだとイイ気になっていた。けれども、それらのほとんどは、数多くの人たちによって見えないところで半ば成し遂げられており、光の当たるところにぼくが座っていただけのことであった。

 ぼくはもう一度始めようと思うのだ。60代半ばとなったぼくでなければできない新しい一歩を踏み出そうと思っている。まだまだぼくは、十分すぎるほど若いのだから。
 小説「虹の岬」で谷崎賞などを受賞した詩人の辻井喬さん(本名、堤清二。セゾングループ創始者。2013年 11月25日、86歳で没)と東京の本郷で、ワインを飲みながら数時間語り合った。その時70代の彼はぼくに、「ぼくはこれから、こんなことに挑戦しようと思っている」と夢を語って聞かせてくれた。ぼくは心が震えるのを感じた。
数多くの世界に意欲的に挑戦し、活躍を続ける世界的実業家、ヴァージングループ代表のリチャード・ブランソン卿もまた、彼の自宅にぼくを招いて、はるか遠くをじっと見据えながら、夢を語った。ぼくより数歳年上の彼は、ぼくの肩を抱き、教育の世界は君がやるんだと、ロンドンの大きなホテルでたくさんの聴衆を前にして言ってくれた。思い出すだけで、ぼくは自分の無力に恥ずかしくなる。

 心静かに新年を迎えよう。たぎるような情熱を抱きながら。それを恥ずかしいと思うことなく、照れたりしないで、ぼくはもう一度、新たな一歩を踏み出そうと思う。
 そうなのだ、ぼくたちは何度でも始めることができる。どこからやってきて、どこにいくのかがわからないぼくたちは、さらにいつからぼくはぼくになったのかさえ分からないぼくたちは、しかしながら、今を生きることはできる。今につながる明日を見つめようとすることはできる。明日を見つめる今を大切にすることはできるのだ。
 新年は、もう一度始めようと決意するためにあるのである。できれば、さわやかで、あたたかい、確かな一歩を踏み出したいと、強く思っている。(今回は、「教育原論」は休んだ。次号から再開の予定である)

No.185 教育原論Ⅰ 教師(6) 夢の途中(72)

 英国は冬時間になった。朝はなかなか明るくならず、夕刻は暗くなるのが早くなった。だからと言って、一日が短くなるわけではない。明るい時間が短くなる代わりに、暗く思索を強いる時間は長くなる。
 帰りの電車の中でぼくは、窓に映る自分の顔を見つめながら、深いため息をつく。小学生のころから、逃れることのできない〈自分〉というもののまなざしに息苦しさを覚えていたように思う。それから逃れようとしてぼくは時に、呼吸することを止めようとした。虚ろな現実が、真実を語る文学や音楽や絵画の世界に冷たく否定されていることをぼくは、はるか昔から識っていた。そうなのだ。ぼくが今、呼吸しているこの時空は虚構にすぎない。

 教育論や教師論などと仰々しい言い回しで書き続けているたとえばこの拙文も、大学生や教師たちに講演といった形で語ることばも、それを終えた数分後にはぼくを打ちのめそうとして襲いかかってくる。つまりぼくは、生きようとして実は、自らの精神に致命的な攻撃を繰り返しているのだ、極めて自虐的に。
 ぼくに教育を語る資格があるのだろうか。ぼくは〈先生〉と呼ばれるべき人間なのか。そういった思いに車窓に映るぼくはいつも、震えているではないか。

 ぼくが尊敬してきた〈先生〉たちはどのように、自分というものと向き合ってきたのだろうか。
 例えば、父である。
 父が父として、そしてまた教育者として優れていたということをぼくは疑わない。ぼくが物心ついた幼い頃から父を慕ったいろいろな教師たちが我が家には集まり、ぼくの目の前で教育論を闘わしていた様はぼくの原体験と言っていい。碁を打ちながらぼくが通っていた学校の教頭先生に教育について語る父の姿はたまらなくカッコよかった。静かなことばには力があった。そしてそれこそがぼくの父であった。教育者として偉大な彼は、故に父であった。
 父と交わした会話はいつも、世界平和についてであり、自衛隊の法的根拠であり、自然環境保護であり、人としてどう生きるかといった一般論であり、彼が育てていた庭の植物の学名であった。 
 ぼくは父の弱さを知らない。父の悩みを聞いたことはない。彼は死ぬときでさえ、「これでお別れだね」と、ぼくにはそう静かに一言言っただけだった。
 彼は何を吸って、何を吐いていたのだろう。ぼくのように、弱いため息をついたりはしなかったのか。いや、それを確かめようとは思わない。そのことに意味を見出したりはしないだろうから。

 ぼくの仕事は教育である。人が生きるということと仕事とがどのような関係で位置付けられるのかという問いを、ぼくはぼく自身に向けたことはかつて一度もない。娘が最近、「パパはリタイアしたら何をするの」と聞いたが、「パパはリタイアしないんだよ。ずっと仕事を続けるんだよ。パパは生活やお金のためにだけお仕事をしているのではないから」と答えた。うん、そのことばに、嘘はない。だが、自分の未熟な今を見つめると、ため息をつく以外にできることがないのだ。

 教師とは何だろう、先生って何なんだ、ということを書こうとしたこの拙文においてぼくは、とりとめのないことを書き続けている。それでいいとも半ば開き直ってもいる。
 少しだけ教育に必死になって打ち込んできた人間が、随分歳を取ってもなお、立ち尽くしているということを文字に残すのはそれほど悪いことではあるまい。
 ぼくもまた、ぼくの子どもたちと話すトピックは、「学ぶとはどういうことか」とか、「これからの人類にとって何が大切なのか」とか、「仕事の意味」とか、「戦争と平和」とか、そういったことばかりであって、子どもたちが話題にすることもまた、そのようなものなのだ。それはどうやらおかしいことらしく、先日日本に行った際に一緒に酒を飲んだ友人の大学教授があきれていた。きっとそうなのだろう。そういったことはやや珍しいのだろう。
 だが、ぼくは思うのだ。教師であることが、おそらく父親であることを支えているのかもしれないと。あるいは、父親であるために教師でありたいと思っているのかもしれない。そして、そういったことはどうでもいいことであるようにも、やはりとても大切なことであるようにも思えるのだ。
 ぼくはため息を、少し深くため息をつく。それは決して美しい風景ではない。ただ、そうしているうちはまだ、ぼくは逃げ出したりはしないのだ。〈先生〉でありたいと願うぼくは、しかしながら車窓に映った顔を見ながら、冬を感じさせる寒さの中で、必死で、そう必死で、自分に語り掛けるのだ。逃れることのできない自分に向かって、未熟なままでは情けないではないか、と。

No.184 教育原論Ⅰ 教師(5) 夢の途中(71)

 カズオ・イシグロが今年のノーベル文学賞に選ばれた。随分前から候補になっており、いつかは受賞するのだろうと思っていた。両親は日本人だったから彼も元々は日本人である。九州の長崎で生まれ、6歳の時に父親の仕事の都合で英国にやってきた。
 イシグロはそれからずっと、英国の教育を受けて育つ。その彼が初めて英国に移り住んだ時のことをぼくは、自分の子どもたちと重ね合わせて想うのだ。ぼくの子どもたちは数日後に6歳になる長男、年子(としご)の4歳の次男、2歳の長女の三人だった。つまり、全くイシグロと同じ境遇で彼らは英国で暮らし始めた。
 英国で数年暮らし始めたある日、ぼくは長男が英語で書いた作文を読むことになる。
 「ぼくは悲しかった。どうしてぼくたちは友だちやおじいちゃん、おばあちゃんたちと別れて、イギリスという国に行かなければならないのだろう。ぼくの弟は飛行機に乗る前に泣いた、〈いやだッ〉と大声で叫んだ。妹は両手で顔を覆った。ぼくも泣きたかった。でも、ぼくはお兄ちゃんだ。ぼくが泣くと、パパやママはきっと困るだろう。ぼくは必死で我慢した」
 英語ということばの存在も全く知らなかった子どもたちは、英国に着くとすぐ、今まで日本人を受け入れたことがない現地の学校に放り込まれた。何か月もの間彼らは、ことばを使うことのできない、クラスメートが何を言っているのかが理解できない学校生活を送ることになる。
 子どもたちを受け入れてくれた学校の先生たちのことを考える。大変だっただろうなあと思う。子どもたちもつらかったと思うが、休むことなく、学校に通う。
 子どもたちは日本にいるときは、家の近くの私立幼稚園に通っていた。つい先日、その頃の、幼稚園と保護者との間の「連絡帳」が出てきた。次男の連絡帳に、その頃の担任の先生がコメントしている。
 「今月は大分欠席が少なくなりましたが、まだ他のお子さんと比べると多いです。この前、朝の時間に、〈みんなでお歌を歌いましょう。何の歌がいいですか〉と訊くと、陽くん(次男)が手を挙げて、〈お帰りの歌〉と言いました。悲しかったです」
 つい笑ったが、先生は大変だっただろうと思う。そういえば、ぼくも小学校の1、2年生の頃の3学期は概ね不登校を繰り返した。2学期が終わり、冬休みになり、クリスマスやお正月といった楽しいイベントがあって、こたつの上にはミカンがあった。わざわざ寒い道を歩いて学校に通うことは億劫だった。いじめられていたわけでもなく、学校の先生たちのことも好きだったし、ぼくはクラスのリーダーだったし、成績もよかった。が、少し疲れていた。ぼくが休んでも、教育者の父も、そして母も怒らなかった。学校の先生もそうだった。家でぼくは父親が買ってきてくれる本ばかり読んでいた。
 学校には毎日きちんと行くのがいいのだろう。けれども、なぜいいのかと訊ねられたら、どのように応えたらよいのだろうか。
 ぼくはたっぷりの愛情で両親や家族に愛され、学校の先生たちにも抱きしめられていた。〈甘え〉や〈甘やかし〉といった言葉で片付けられるかもしれないが、父は厳しい人であったし、先生方にも尊敬の念を抱いていた。矛盾しているように思われるかもしれないが、子どもだって疲れるのだ。それを周りの大人たちが抱きしめてくれた、そう思うのだ。ぼくは次第に学校を休むことはなくなった。
 ぼくの幸運は、周りの大人たちの、学校の先生たちの大きさに包まれていたことだ。ぼくの子どもたちは英国で、のびのびと呼吸を始める。ことばの障壁は10か月足らずでなくなり、しばらくすると長男にも次男にもたくさんの友達ができた。何よりうれしかったのは、友達の喜びを自分のことのように喜ぶことができる〈知性〉を手に入れていったことである。人の不幸をひそかに喜んだり、人の幸福を妬んだり、ひがんだりするような醜さとは無縁だった。このことがぼくにはたまらない喜びだった。
 イシグロはどのようにこの英国に溶け込んでいったのだろうか。どのような苦労をしただろうか。周りの大人たちは彼にどのように向き合ったのだろうか。いつか機会があれば訊いてみたいと思う。
 先生をはじめとした知的な大人のあたたかさや大きさは、たとえば学科の成績では表せない子どもの成長に大きな力を与えることだろう。だから、ぼくたち、教育の世界で呼吸する者は、自らの〈知性のありか〉について、〈知性のかたち〉について、もう一度考えてみる必要があるだろう。自分の専門とする領域においても、知識や分析力・研究力、教育力などといったものがすべて、確かで豊かな人間性に支えられているものでなければ、つまりは意味を持たないのだと認識しなくてはならない。
 ところで、「将来自分は大統領になりたい」と、研究所の教育実習が行われる女子校の生徒だったイシグロの娘は、習ったばかりの日本語表現を使ってそう言った。残念なことに、英国は大統領制ではないので彼女はなることができない。(続く)

No.183 教育原論Ⅰ 教師(4) 夢の途中(70)

 先生の右手の親指と人差し指、それに中指のペンだこ辺りから、それらはいつも、真っ赤だった。赤インクで染まっていた。
 佐土原泰恵先生(漢字に間違いがあるかもしれない)は、ぼくが小学5年生の時の担任だった。

 ぼくが通った小学校は丘の上の城跡にできた学校で、大きな石垣に囲まれたすばらしい環境だった。山田洋次監督の映画「フーテンの寅さん」の舞台になったこともある。ポーツマス条約の小村寿太郎を産んだ城下町は美しく、その小学校と中学校の子どもたちはみんな、登下校ですれ違う人に、町の人にも観光客にも、「おはようございます」「こんにちは」ときちんと挨拶をする。そのことを、その市に招かれて講演(小村寿太郎記念講演)をした折に市長さんに話すと、「私たちの誇りです。全国の教育に関する協議会で表彰されました」とのことだった。

 その小学校の6年間、ご指導をいただいた担任の先生方もその他の先生方もみんな素晴らしい先生方であったが、ぼくの記憶の中で、佐土原先生の赤く染まった指は特に印象に残っている。
 先生に提出した作文や日記にはいつも、先生から赤いインクで書き込まれたコメントがびっしりと埋まっていた。今のように30数名の児童数ではなく、50名近くの児童の担任だったのではないか。毎日のように出される課題に、閉口した覚えはぼくにはない。けれども、先生はおそらく、寝る時間を削って毎晩、子どもたちの拙い作文に赤いインクで書き込んでいったのだろう。
 何歳だったのだろうか、その頃の先生は。20代の半ばから後半だったのだろうか。お子さんがいたようにも記憶しているが、定かではない。とにかく先生は懸命に、ぼくたちの教育に打ち込んでいた。その必死さが、ぼくには赤く染まった指とともに思い出される。きっと、多くのものを犠牲にしながら、本当に全力で教育というものに生きておられた。
 だからぼくは、安心して、先生の創る豊かな「子どもの世界」で呼吸することができた。つまり、確かに小学生の時間を過ごすことができたように思うのだ。
 子どもたちが先生というものに望むのは、いったい何だろうか。ぼくは「成長を続ける大人の姿」ではないかと思っている。先生が完璧な人間であってほしいとは思わない。優れた人であってほしいとは思うが、「優れた人」が完璧な人であるとは思わないのだ。先生も悩むに違いない、躓(つまず)くに違いない、失敗することだってあるだろう、と小学校の高学年ぐらいになれば思うのだ。けれどもそれをごまかしたり、うやむやにしたりはしないで、真摯に、まっすぐにそれらを乗り越えようと努力している姿に、つまりは成長を続けている人の姿に、ぼくたちは「先生」ということばを冠したいのだ。すごいなあ、と思うのだ。
 佐土原先生にどのような悩みや苦しみがあったのかはもちろんぼくは知らない。しかし、先生の指の赤い色にぼくは、素直に頭(こうべ)を垂れなければならない尊さを感じていたのだった。
 教員の労働時間等について、日本では今、もう少し改善しなければ、といったことが話し合われているようだ。その通りだと思う。先生たちの仕事はとても厳しい。勤務時間はあって無いに等しい。特に小学校の先生や、保育園や幼稚園の先生たちは過酷な労働に耐えている。
 かつて、学力低下が話題になった際、メディアに乗ってスター的な存在になった東京大学・大学院の教授が講演をした後、「週休二日にしたのは先生たちが楽をしたいからではないか。だから学力が低下したのだ」という会場の経済人からの指摘を受けて、「その通りです」と愛敬を振りまいた。ぼくはその発言に反論し、その有名教授を論破した。
 「もともと週何時間といった基準に、学力と結び付けた科学的根拠はなく、また、土曜日に時間が生まれたからと言って先生たちが遊び惚けているわけではなく、意識的な先生たちは研鑽に励み、あるいは、遊んだからと言って、そのことが悪いわけではなく、とにかく詰め込めといった発想で教育を語ってはいけない」と。
 先生という仕事は、それほどたやすく時間で区切ることはできない。勤務時間以外で授業研究や教材分析、その他の幅広く深い基礎研究など、あるいは児童、生徒、学生といった個人の、つまりは一人ひとりの人間とじっくりと向き合う必要もある。教育が相手にしているものは人間なのだ。だから、勤務時間をしっかりと区切れば労働条件は整ったなどとはゆめゆめ思わないで欲しい。「冗談じゃないぞ」と一蹴したくなるのだ。
 教師もまた、自分の未熟さを知れば、型通りの勤務時間などに身を委ねてはおられないだろう。眠る時間を惜しんで本を読み、教案を作り、授業を振り返り、子どもたちの一人一人の顔を思い浮かべ、自分の未熟さに一人赤面し、鳥肌を立て、嗚呼と叫び、地団太を踏み、たとえば指先を真っ赤に染め続ける努力を重ねていかねばならぬのだ。(続く)

No.182 教育原論Ⅰ 教師(3) 夢の途中(69)

 松井博文と向井均はぼくより10歳年上である。二人とも英語の先生である。松井さんが産経新聞を愛読し、向井さんは朝日を読む。向井さんが反核に動けば、松井さんは米国からの自立を主張し、自衛隊を軍として整備すべきだと主張する。つまり、この二人はその主義主張、思想信条が全く異なるのである。
 年の離れた二人とは、けれども、よく一緒に時間を過ごした。酒をよく飲んだということだ。このまったく対立する二人は、ぼくがいるとなぜか一緒にいるのだ。だが、二人だけで飲みに行ったりはしない。
 松井さんは文学論や哲学論を闘わせることを好んだ。それに政治的立場が絡むのである。酒が入ると多弁になる。向井さんはじっと静かに話を聞く。自分の考えと違うことを松井さんが言ったりすると、露骨に嫌な顔はするのだが、ことばにはしない。その表情を見て、松井さんは気分を害し、もっときつい口調で語り始める。ぼくは概ね松井さんの考えに真っ向から反論する。すると向井さんは、そうだ、そうだという顔をしながら頷く。松井さんの考えに与することもあるのだが、そういった場合は向井さんは悲しい表情を浮かべる。
 この二人と一緒に飲む酒には独特の味があった。その味を実は、ぼくは楽しんでいた。ぼくはこの二人が大好きだったし、尊敬もしていた。年は10歳も離れていたが、結局ぼくが一番偉そうな態度を取っていた。この二人には歳の差を感じたことがないのだ。
 だから、激しくケンカしたこともある。激しい論争をしたまま別れ、家に帰ると、松井さんから追いかけての電話がかかり、また延々と電話で論争したこともある。
 二人はことごとく対照的だったが、二人とも静かで落ち着いた雰囲気を漂わせており、そういう意味では似てもいた。そして二人ともよく勉強をしていた。
 さらに二人とも、生徒の教育に誠実だった。決して目立たなかったが、生徒の一人一人を大切に、丁寧に指導、教育していた。生徒たちは安心感を持って、信頼感を持って、指導を受けていたに違いない。
 ぼくは穴だらけの未熟な教師であったが、この二人には綻びはなかった。ぼくの子どもの受け持ちがこの二人であったなら、安心して任せることができたに違いない。
 けれども、松井さんも向井さんも、そして前号で書いた吉田和彦も、完璧な教師であったわけではない。100人の教員会議の際はできるだけ議長席から遠いところに座り、会議にはほとんど参加せず、それぞれ好きな本を読んで過ごしていた。ほとんどの議題に興味がなかったのだった。これはやはり良くなかったなあと今は反省する。生徒の教育に関する様々な議題について、やはりよく考えて、意見などを述べるべきであった。
 こういった具合だから、ぼくたちはいわゆる出世競争には全く興味がなかった。中には主任や、部長、あるいは教頭、校長を目指し、一所懸命に多数派工作をする先生もいないわけではなかった。けれども、こういう思いを抱いていた先生たちを揶揄することもいいことではない。自分の思った教育をしようとして偉くなろうというのは責められるべきではないのだ。
 松井さんも詩を書いていた。ある夜、ぼくはある大学の教授と二人で飲んでいた。詩の同人誌を主宰する老教授である。ぼくの友人に松井という男がいて、真面目な詩を書き続けているのがいるのですが、同人に加えてくれませんかと頼むと、うん、図師さんがいいというならいいよと快諾してくれた。それから松井さんを呼び出して紹介した。この老教授は大きな世界をゆったりとした心で抱きしめている詩人だったが、ほとんどその時、松井さんには話しかけなかった。しばらくしてこの教授は死んだ。もう30年以上前の話である。今、松井さんはその同人誌の中心的な存在になっているようで、ヒロシマを題材にした詩なんか書くべきではないなどと、反核や平和運動をしている者たちを攻撃しているようだ。ぼくがいたら、激しい口論になっているだろう。最近の彼の詩を読むと、孤独なのだ。頑固なのはほほえましいのだが、なんだか一人ぽっちなのだ。
 向井さんは反核や平和運動をしながら、そして様々な病と闘いながら、静かに活動している。日本語教育や平和教育の研究、フルート演奏の練習と多趣味の彼は、二人の可愛い娘を嫁がせて、孫のおじいちゃんも真面目にこなしている。かつて、ぼくの夜の徘徊に付き合って大酒を飲んでいた彼は今、家で焼酎をちびちびやっているのだそうだ。
 彼は、ぼくが英国に渡る際のぼくの大量の書籍の荷造りを一人でやってくれた。ぼくが外で飲んでいるときも我が家にやってきてコツコツと荷造りをしてくれたのだ。
 二人に共通する真面目さは、現代のまるでほとんどの人間がパフォーマンスの中で踊っている気持ちの悪い世の中で、ああこういう人が「先生」と呼ばれる人なのだと感じさせる清涼感がある。右も左も信念があればいい。ぼくにとって、親友であり、まさに信頼し、尊敬する先輩教師であった。(続く)

No.181 教育原論Ⅰ 教師(2) 夢の途中(68)

 この「教師論」においてはしばらく、抽象的な理屈を振りかざすのではなく、ぼくがかつて出会った「先生」について書いていこうと思う。その具体的な姿に、「先生」と呼ばれる人がどのような〈力〉を持っていなければならないかがおのずと見えてくるのではないかと考えるからだ。
 ぼくは40年余りの教育者としての生活の中で、数多くの先生に出会った。そしてまた、ぼくの幼い頃からの学校生活の中で、学ぶ者として、教えていただいた先生たちとも印象深い出会いがあった。

 まずは、吉田和彦のことを書きたいと思う。
 彼は大学を卒業すると、ぼくが一時期勤めていた私立中・高等学校(男子進学校)の国語教師として着任した。彼は後輩として、ぼくのところに挨拶にやってきて、すぐにぼくたちは意気投合した。
 彼は新任教師の歓迎会で、長谷川きよし/野坂昭如の「黒の舟歌」を歌った。偶然だが、実はぼくも歓迎会の際、同じ歌を歌ったのだった。
 彼にはいつも、毎日きちんとお風呂に入っているのだろうかと思わせる独特の匂いがした。髪はぼさぼさで、フケが浮いていた。かけているメガネのレンズは、それでちゃんと見えるのかというぐらいに汚れていた。声は大きく、唇は大きな明太子を上下に二つくっつけたような迫力があった。その口からは時折、よだれが垂れた。それを彼は、数日は着続けているワイシャツの袖で拭った。20代の彼のお腹は貫禄たっぷりにせり出していた。  
 ぼくたちは、それからは毎晩のように一緒に飲んだ。彼は自分の仕事が終わると、ぼくのいる図書研究室にやってきた。ぼくの仕事の区切りがつくと、当たり前のように居酒屋に繰り出し、教育論を激しく闘わせながら、苦しくなるほど食べ、飲んだ。あるときは、開店したばかりの小料理店のビールを「もう1本もありません」と言わせるまで、すべて飲み干した。それからさらに夜の街に繰り出すのだった。行きつけのスタンド・バーをはしごし、それぞれの店でウイスキーのボトルを瞬く間に空にした。多くの場合、最後は雑炊屋さんに立ち寄り、雑炊を食べた。雑炊ができる前に彼はカウンターに突っ伏して眠った。ぼくは一人でビールを注文し、お店のおじさんやおばさんと話をしていた。
 ぼくたちは教材分析について、たとえば教えようとする小説や詩について、細かいことまで分析しあった。教授法については、お互いなんとか自分でないとできない独自の方法はないかと考えた。生徒の一人一人についてもとことん話し合った。
 ぼくはしかし、いつも吉田和彦を論破した。徹底的に論理的に冷たく叩きのめした。もはや立ち上がることができないのではないかというほどに、ぼくは責めた。その程度しか考えられないのか、それで教師と言えるのかと。時に彼は泣いた。
 ぼくがさまざまな学会や研究大会で研究発表をする度に彼は、年休を取って当たり前のように同行した。ぼくの発表資料の入った段ボールの箱をいつも運んでくれた。ぼくは主催者の用意してくれたホテルに泊まり、彼は自費でカプセルホテルに泊まった。大会当日は発表者や役員等には弁当が配られたが、彼にはなかったのでぼくがこっそり一つ余計にもらってきて彼に渡した。
 ぼくはしかし、彼が好きだった。好きなだけではない、尊敬もしていた。立派な先生だと心から思っていた。けれども、日本で一緒にいるときにはいつも、冷たく、厳しく、言語分析や教授法の未熟さを責め続けた。
 彼の心の中にはいつも受け持っている生徒たちがいた。明日の授業を考えていた。彼の心やまなざしは、少しでも納得のいく授業をしたいんだと、地団太踏む子どものように純粋な思いであふれていた。ズボンからはみ出していたのはワイシャツだけではなかった。常人が推し量ることのできない、教育に対する情熱と真摯さがあふれていた。ぼくなど敵わない立派な先生だった。
 長い歳月が過ぎ、ある時、日本のある地方都市でぼくが講演をする会場に、彼は突然現れた。その夜、ぼくたちは久し振りにゆっくり飲んだ。もう、狂ったような飲み方はお互いできなかった。そしてようやくぼくは、彼に言うことができた。「君は素晴らしい先生だよ。ぼくは君のことを尊敬していた」
 彼は泣いた。
 彼はその時勤めていた学校でのことをいろいろと話してくれた。「ぼくは自分の信じる教育をやろうと思っているんです。それができなければ、くびになってもいいと思っています」
 「相変わらず馬鹿だな、お前は。お前のような先生が辞める必要なんてないんだ。生徒たちがかわいそうだろッ。辞めろと言われても、俺は絶対辞めないと言うんだよ。そして、今までのようにいい教育をするんだよ。それが、お前らしくて、格好良くて、……」ここまで言うと、もう言葉が出てこなくなってしまった。ぼくも彼も、ただ静かに酒を飲んだ。
 何度拭っても、ぼくたちの涙はあふれた。(続く)

No.180 教育原論Ⅰ 教師(1) 夢の途中(67)

 学校には学ぼうとする児童や生徒、学生がいる。そして、彼らを教える教師、先生がいる。もう一度、その教師や先生と呼ばれる人たちについて考えてみたい。もう一度というのは、このコラムでは、何度もすでに書いているからだ。それでもいい。この「教育原論」を書き始めたのは、今のうちに教育について自分の考えていることを整理してみようと思ったからだ。この、今のうちに、という言い方は適切ではないかもしれないが、いつまでも文章を綴るという行為ができるわけでもあるまいと、休日にふと、庭の芝生の上で戯れる狐のカップルを見ながらそう思ったのだ。現に、この「濫觴」を書き始めた初期のころは30分もかけずにどんどん書き上げることができた。一気に書けたのである。怒りや喜びといった強い思いがあったのだ。その思いがたちまちのうちに言葉を連ねさせた。けれども今、その勢いがなくなっている。どうしてだろうか。疲れが蓄積しているということもあるだろうが、疲れだけではないようにも思う。そうだな、それがいったい何なのかといったことも考えながら、筆を進めていくことにする。

 ぼくはずっと、先生である。教育以外の仕事をしたことがない。だから、ほぼ40年間、先生と呼ばれながら生きてきた。学生時代にほんの少しだけしたアルバイトも、家庭教師と塾や予備校の講師である。「せんせー」と呼ばれることに違和感はない。まったくない。むしろ「所長」や「さん」付けで呼ばれると、時にドキッとしてしまうことさえある。
 父も先生だった。母は結婚するまで先生だったらしい。子どものころ、先生というのは父だった。周囲の人たちは父のことを常に先生と呼んだ。物心ついた時にはそうだった。そして我が家にはいろいろな学校のたくさんの先生たちが集まった。6人兄姉の末っ子であるぼくは、どの人が親せきの人で、どの人がただの先生なのかがよくわからなかった。それらの先生たちは我が家によく泊まった。何日もいる人もいた。毎日やって来る先生もいた。彼らはお酒を飲みながら、母の手料理を食べながら、よく議論した。すべて、教育論だった。激しい論争が、怒鳴り合うような議論が終わると、立ち上がって、踊りながら歌を歌った。覚えているのは「リンゴの唄」であり、「麦と兵隊」や「侍ニッポン」である。正確には表記が違うかもしれないが。いや、これらの歌は父が歌っていた歌であり、他の先生の歌は何も思い出せない。軍歌も歌っていた先生たちはしかし、戦争を否定し、平和を尊んだ。
 父は戦争中も先生だったのだ。戦前も、戦後も。
 肩を組みながら、怒鳴るように大声で歌う先生たちは、泣いていたのか。いや、なぜ泣いていたと思うのか。ぼくには彼ら先生たちが、必死で戦後の教育に打ち込んでいたことがわかるような気がする。敗戦で大きく変わった価値観にもまれながら彼らは、論争しながら自らの教育力を磨いていた。先生たちの中には殴り合う人だっていたのだ。目撃したぼくは、その夜、怖くて眠れなかった。
 ぼくはあの先生たちが好きだ。もしタイムスリップすることができれば、教師となったぼくも仲間に入れてもらい、語り合いたい。たくさんのお酒を飲み、肩を組んで歌いたい。たくましい知性にもまれたい。
 みんな男だったが、母はそこに座っていた。優しいだけの母は、しかしそうではなかった。柔らかい笑みは絶やすことはなかったが、二日酔いで苦しむ若い青年教師に、朝の食事を用意しながら、優しい言葉で諭した。だから、母は先生たちから尊敬されていた。よくあれだけ大量の料理を準備できたものだと、今になって思う。それも毎日のように。
 そういえば、母も歌うことがあった。父が「歌え」とねだるのだ。言葉そのものは命令だが、実はお願いしていた。家内はうまいんだ、と父は自慢した。歌い終わると、きれいな声だろうと、また自慢した。唱歌や島倉千代子の歌だった。
 みんな大きかった。大人というのはこんなにもすごいのか、とぼくは思った。先生と呼ばれる人たちはこんなにも優しく、強く、そして知的なのかと圧倒されていた。むろん、その時のぼくには、知的であるということがよくわからなかったのだが、そのよくわからないものが実は大きな意味を持っているように思えたのだった。

 先生、ということばに誇りを持っている。先生と呼ばれることを卑下する教師が嫌いだ。教師という仕事を何となくやっている人間も嫌いだ。なりたくてなったわけではないなどと格好つける教師を認めない。そういう者たちは辞めればいい、辞めるべきなのだ。学ぼうとする児童や生徒、学生に申し訳ないではないか。
 学校ということばにはロマンがある。自分の明日を信じて、自分を成長させようとして学ぶために集うところだ。学べば自分は新しい明日を迎えることができると信じる者たちが集まるのだ。その学習者の明日に関わろうとする教師もまた、成長を続けながら、明日を信じなければならない。(続く)

No.179 教育原論Ⅰ 学校(5) 夢の途中(66)

 日本では、小学校新設に関するスキャンダルで持ちきりだ。教育理念を始め、様々な問題を抱えた学校開設の利権等に政治家が関わっているのではないかというのである。
 ぼくにはむろん、その詳細はわからないが、子どもたちが学ぶ場が大人たちのいかがわしさによって汚されなければいいがと願うばかりだ。子どもたちに関する社会的問題の発端や責任はすべて、いつも、大人にある。

 学校は、学習者(児童・生徒・学生)と指導者(先生)とが向き合う場である。目指すべき教育目標・学習目標に沿った学ぶべきもの(教育内容・学習内容)があり、そのための教材や教具を用いて教え、学ぶことになる。
 それらを一貫して支えるものが教育理念と呼ばれるものであるが、今回の騒ぎで取り上げられたものに教育勅語がある。この教育勅語、今、ぼくの手元にある。神社に行くと、ところによってはおみくじなどと一緒に売っているのだが、一度読んでみるといいだろう。この稿ではこのことに深入りしようとは思わないが、部分的にはなかなかいいことが書いてあるではないかと思う人もいるだろうし、最後までその言わんとすることに気づかぬ人もいるのかもしれない。要するに親や友達などを大切にする立派な人間になって、もしも国家の一大事ともなった時には、まずは国家のために何もかも投げ出して尽力せよと、朕(明治天皇)が臣民(天皇に仕える身の国民)に教え、諭している文章である。この教育勅語とは戦後、国会決議で明確に縁を切ったはずであるが、その考え方が一部勢力によって復権しようとしているのである。
 一人の人間を生きるぼくたちは、何より命を大切にしたい。自分の命と同じように、愛する者たちの命を守りたい。愛する者につながるすべての人たちを大切にしたい。その思いを国や民族、宗教や思想によって限定したり差別したりはしたくない。
 この地球にはきっと、いろいろな人たちがいる。例えばぼくの住むロンドンのバスに乗ってみるとわかるが、肌の色は様々であり、聞こえてくる言葉もいろいろだ。きっと信じる宗教も異なっていることだろうし、食べているものだって、食べ方だって違うだろう。
 学校に行きたくない不登校の子どもたちもいれば、行きたくてもいけない国の子どもたちだってたくさんいる。昨夜は、BBCのニュースでソマリアやその周辺の子どもたちが餓死していく映像を流していた。ぬぐっても、ぬぐっても涙がわいてくるのだ。
 最も大きな教育理念とすべきは、「幸せ」について考える力をつけようということである。学校は、保育園も幼稚園も、小学校も中学校も高校も、大学も専門学校も、あらゆる学校の目指すべきものは、「幸せって何だろう」と考えることであり、考えようとすることであり、そのためにどんなことをすればよいのかといろいろな知識やものの考え方を身につけていこうとすることである。自分だけの幸せではなく、自分の周りにいる人たちの、周りにいないけれども地球のいろいろなところに生きている人たちの、本当にみんなの幸せについて考えようとする力をつけていくのが、学校というところがまずは目指そうとすべきものでなければならない。
 想像する力が必要なのだ。
 だから、学校というところではいつも、夢や理想を自分の言葉で語り、語り合いたい。論争をし、より豊かな想像する力を身につけていくのである。
 有名小学校や中学校に行くための勉強や、有名高校や大学に合格するための受験勉強の全てをぼくは否定しない。目指す学校がとびきりの教育内容を持っているならば、それもいいではないか。薄っぺらい知識や思考を検証することなく暗記していこうとするような勉強をすれば合格できるような学校は大したことはない、二流や三流の学校なのだ。
 けれども、たとえば中学生には中学生のころにしか感じられない世界がある。小学生にもその頃でなければ見えないものがあり、大学生だって、そうなのだ。受験のために、そういった感性を犠牲にしなければ学べないものは絶対に存在しない。それは間違っているのだ。そういった犠牲のもとに学んだものは、幸せについて考える力や想像する力を滅ぼしていく。
 学校は自ら自身の質を確かめていく必要があろう。一流大学というその根拠があの、高校の貧弱な学習内容から割り出された偏差値であることに恥ずかしさを覚える必要があるだろう。大学教育のクオリティが高いかどうか、大学教員は自省してみる必要がある。大学内の政治力の闘いに興じている教員が少なからずいる実態は、恥ずかしいほど醜悪である。
 問うてみよう。たとえば、大学教員であるあなたは、学生に何を、何のために、どのように授けようとするのか、と。鏡に映った自分の顔が、マジックミラーのそれのように歪んではいないかと。保育園だって、小学校だって、同じなのだ。
 学校はもっと尊く、そこにあるのだ。(続く)

No.178 教育原論Ⅰ 学校(4) 夢の途中(65)

 新年を迎えたと思ったら、もうひと月が過ぎた。始業の日、今年は3日に書初めをした。子どものころからのぼくの習慣だ。いつからか、研究所のスタッフにも付き合ってもらっている。そのことはぼくの秘かな喜びでもある。
 ぼくは小学校に入る前から、書道の個人指導を受けていた。「トウゲせんせい」が書道の先生だった。大きな筆で思いっきり書くことを教わった。硬筆の先生は母だった。母が作ってくれた手作りの練習用紙にぼくは、母に抱かれるように文字を書いていった。書初めは父が習慣として教えてくれた。正月を迎え、清新な空気を吸いながら墨を磨った。和服姿の父は静かに、ぼくに話しかけることもしないで墨を磨った。ぼくも背筋を伸ばし、ゆっくりと墨の匂いを嗅ぎながら黙々と墨を磨った。新年はいつも、そうやって始まるのだった。

 「破戒」という映画(DVD)を今日(1月29日・日曜日)の午後、観た。被差別部落に生まれた小学校教師の苦悩を描いた、島崎藤村の名作文学の映画化である。市川崑監督、市川雷蔵主演、芥川也寸志音楽の豪華キャスティングによる1962年公開のモノクロ作品である。何年も前に購入していたものだったが、気持ちが沈むのを恐れて観ることができなかったのだ。
 いわゆる同和教育という部落差別に関する教育と出会ったのは大学生になってからだった。被差別部落というものの存在も、同和教育ということばも、恥ずかしいことにそれまでぼくは知らなかった。「破戒」や「砂の器」を読み、「橋のない川」を観てぼくは、人間の愚かさや醜さに怒り、あるいは怖さを覚えた。大人になり、教育者となってからぼくは、その差別に苦しむ人たちに出会った。社会に未だ、気持悪く息づく根拠のない差別を知った。
 この映画を観ながらぼくは、涙を流した。差別を恐れ苦しむ小学校教師の苦悩に対してではなく、絶望にのたうち回るその教師を教え子たちが救う場面にである。教師の「自分は部落出身者だ」という切実な告白を聞く小学生たちの流す涙にである。そしてそのことを子どもから聞いた親が、学校を去るその教師を見送る子どもに託すゆで卵という餞別にである。家に帰った子どもはどのように親にそのことを伝えたのだろう。子どものことばを親はまっすぐに受け止めたに違いないのだ。だからこそその母親は、村を去っていく教師への餞(はなむけ)をこしらえたのである。
 そう思うと、真摯な教育の力を感じた。あきらめてはいけないと思った。ぼくたちは変わることができるのだ、成長することができるのだと強く思った。根拠のない、醜い差別意識を取り払い、お互いを理解し合うことができるのだと思ったのだ。そのことを、子どもたちは〈学校〉という空間で学んだのだった。

 世界で最も大きな国の指導者が、その国を守るためにという理屈で、異なった宗教や民族を締め出そうと躍起になっている。人権がいともたやすく侵されていく。他の国の指導者や知性ある者たちは厳しく非難し、多くの一般大衆が抗議に立ち上がっている。そんな中で、日本国の指導者は暴君ともいえる大国の指導者にすり寄っていこうとしている。その様は醜く、海外に住む日本人にとって屈辱以外の何ものでもない。「日本人はどうして彼のような人間を大切にしようとするのだ。日本はどうして、あの国の間違いを正そうとしないのだ。防衛のためか。経済、すなわちお金もうけのためか」。海外の知性はそういったまなざしをぼくたちに向けてくる。日本に住む国民はどう思っているのだろう。
 なぜだろう。
 なぜはっきりと、「いけない」と言えないのだろう。
 なぜ醜く、へつらうのだ。

 幸せになりたいと願わぬ者は、一人としていないだろう。そして自分の幸せも、自分以外の者たちとのかかわりの中で作られていくものだということを、たとえ幼い子どもであったとしても知っているはずだ。他の人たちも幸せでなければ、自分も決して幸せにはなれないのだ。
 そして、みんなで、みんなの幸せについて考えるところが〈学校〉なのだ。映画「学校」の中で夜間中学教師を演じる西田敏行に、山田洋次監督はそう言わせている。
 「世の中はそんなに単純ではない。現実はもっと厳しいんだ」と十分に世の中というものを知ったという顔をした大人たちが言う。
 ぼくは思うのだ。単純でいいではないかと。みんなで幸せになろうと。苦しんでいる人がいたら、何とかして助けてあげよう。寂しそうにしている人がいたら友達になってあげよう。いいことがあった人がいたら一緒に喜ぼう。
 ぼくたちが桜の咲く頃に新1年生として大きなランドセルを背負って向かった学校はまぶしくて、立派で、ドキドキするような希望と期待にあふれていたではないか。もっと堂々と幸せについて考えてみようではないか。(続く)

No.177 教育原論Ⅰ 学校(3) 夢の途中(64)

 ぼくはおよそ40年もの間、教育の世界で呼吸してきた。〈学生〉ということばや〈学校〉ということばがとても好きなのだ。これらのことばには夢があり、明日へのあこがれがある。
自分という人間の成長を信じて、人は学ぼうとする。学べば自分は変わることができるのだ、成長することができるのだ、と思って学舎(まなびや)に足を向ける。明日を信じる者たちが集まるところが学校というところなのである。それは素晴らしい空間ではないか。
保育所や幼稚園、小・中・高校、大学や専門学校、あらゆる学校には明日を見つめようとする者たちが集まるのである。

 日本の子どもたちは、ほとんど無意識に小学校に行き、中学校に行き、そしてある者たちは高校や大学へと進学する。しかしながら、なぜ学校に行くのかといった意識はほとんどないと言っていいだろう。学校で学ぶということが自分にとってどんな意味を持つかといったことはあまり考えたりはしない。いい大学を卒業して大きな会社に就職するために、といったような、その種の目的意識は、あるいは強くある。
 けれども、世界には学校に行きたくても行けない子どもたちがたくさんいる。シリアの難民やソマリアの子どもたちは生きることそのものと向き合っており、学校という世界はまさしく夢の存在に違いない。

 マララ・ユスフザイは、1997年にパキスタン北部のスンニ派の家庭に生まれる。今年20歳になる女性である。幼い頃彼女は、医者になりたかったようだ。父親は女子学校の経営をしていた。
 2007年に武装勢力パキスタン・ターリバーン運動(TTP)は一家の住む地域の行政を掌握すると恐怖政治を開始した。特に女性に対しては教育を受ける権利を奪っただけでなく、教育を受けようとしたり推進しようとしたりする者の命を優先的に狙うようになった。
 積極的に女性の教育の重要性を説くとともに、平和・人権運動を展開するようになったマララはTTPから命を狙われる存在となる。2012年10月9日、通っていた中学校から帰宅するためスクールバスに乗っていたところを複数の男が銃撃する。頭部と首に計2発の銃弾を受け、一緒にいた2人の女子生徒と共に負傷した。TTPは「女が教育を受ける事は許し難い罪であり、死に値する」と正当性を主張して徹底抗戦の構えを示した。
 彼女は、治療と身の安全確保のため、英国バーミンガムの病院へ移送される。そして、外科手術により奇跡的に回復する。
同年7月12日、国際連合本部で演説し、銃弾では自身の行動は止められないとして教育の重要性を訴えた。
 ぼくは日本でたびたび、いろいろな人たちを対象として講演するが、その際何度か、彼女のことを語った。ある時は大学生に、ある時は教員たちに。日本の若者たちはその内容に目を見張った。教員たちは知っている者は肯き、初めて聞く者たちはその悲惨さに唸った。けれども概ね、そのことは知られていなかった。
 マララは言うのだ、「1人の子ども、1人の教師、1冊の本、そして1本のペン、それで世界を変えられます。教育こそがただ一つの解決策です。エデュケーション・ファースト(教育を第一に)」。(Wikipediaを一部参考にした)

 〈学ぶ〉には力が必要だ。それにはまず、大人がその環境を用意しなければならない。大人が用意しなければならない環境とは、受験競争に勝つためのそれではない。愛すべき子どもたちが、本当に幸せになるためにはどのようなことを見つめ、考えなければならないかという、そういう清新な空気に満たされた環境だ。それは〈幸せ〉とは何かというところから出発する。そのことには、たとえば親や教師たちもまた、立ち止まざるをえないだろう。
 力というのは〈勇気〉のことである。たとえば親は、わが子を本当に幸せにしたいと思うことだ。今、ぼくたち大人が定義している幸せがニセモノであることを、ぼくたちはすでに知っているではないか。にもかかわらず、ぼくたちは既成の〈幸せのようなもの〉を子どもたちに押し付けようとしているのだ。そうすることは楽だからである。その結果子どもたちは、少しゆがんだ笑顔や、喜びを、すなわち〈幸せのようなもの〉を、それが実は決して〈幸せ〉ではないとうすうす気付きながら親や教師などの大人の前で、そのニセモノを必死で、本当に必死で求めようとしていくのだ。
 これは、犯罪である。大人社会の、どうしようもなく醜い犯罪なのだ。その犯罪が、〈学校〉という舞台で展開していく。いじめも、不登校も、不良行為も、みんな大人が産み出したものではないか。政治家たちの下品で、教養など微塵も感じさせない攻撃的な言動を見よ。メディアの情報を、ことさらに商品化した汚臭のする退廃を見よ。そういったものがすべて、あのすばらしいはずの〈学校〉社会に持ち込まれているではないか。(続く)

No.176 教育原論Ⅰ 学校(2) 夢の途中(63)

 〈立派な人間〉になるためにぼくたちは〈学校〉に行くのだと教えられた。けんかをする子は悪い子だ、嘘をつくのはいけない、他の人に優しくしなければならない、きちんと予習・復習をして、忘れ物なんかするのはもってのほかである。食べ物の好き嫌いをしてはいけない。きちんとにんじんも食べなければいけない。お父さんもお母さんも、髪の毛が一本も生えていない小学校の校長先生もとても優しい担任の先生も、御用聞きにやって来る酒屋のお兄ちゃんも話し好きのクリーニング屋さんのおじさんも、みんなみんな同じことを言いながらぼくたち子どもの頭を撫でた。
 ぼくたち子どもは、そういった大人の人たちがとても大きく、立派に見えた。お巡りさんだけが恐くて偉そうに見えていたわけではなかった。

 学校で勉強する教科や科目というものは正直、身近な大人の人たちのことばに比べると少し気取っていて、体積や体重といったものを感じさせなかった。けれども、この薄っぺらい、匂いや味を感じさせない言葉の中にきっと、ぼくたちが立派になるための魔法の力が潜んでいるのではないかと、いや誰もそんなことは思っていなかっただろう。どうしてこんな見たことも触ったこともないものの名前を覚えなければいけないのだろうと不思議だった。それに、そういったものをできるだけたくさん、正確に早く覚えると、「えらいッ!」とほめてもらえるのだ。
 ぼくは「良い子」だったので、先生たちが望むことをそつなくこなした。するとたくさんほめられるのだった。けれども、あまりうれしいとは感じなかった、正直に言えば。だから、ぼくは疲れていた、小学校の1年生のころから。ためらわず、学校を休むことにした。3学期は家でゆっくり過ごすことにした。3年生の頃までそれは続いた。つまり、毎学年3学期は学校に行かないのである。ぼくにとっては大人の代表で、教育者でもあった両親は、ありがたいことにそれを許してくれた。怒ったり叱ったりは一切しなかった。家で過ごすぼくのためにたくさんの本を買ってきてくれた。学校の先生たちも家にやっては来るのだけれども、母親の手料理を食べ、お酒を飲みながら、父親と教育論議を楽しみ、日が経つごとにそういった先生たちの数は次第に増えていき、我が家は学校の先生たちの研修の場と化した。結局、ぼくの不登校が彼らの議題に上ることはなかった。ぼくは肩透かしを食ったようで、けれども大人という人たちの、先生という人たちの大きさを、豊かさを感じ、毎晩ぐっすりと眠ることができた。この人たちに、思いきり抱かれていていいのだと信じて疑わなかったのだ。

 いつからだろう。いつから〈学校〉は子どもたちを追い込むようになってしまったのだろう。繰り返すが、ぼくたちはなぜ、〈学校〉に行こうとするのだろうか、行かねばならないのか。
 この「濫觴」で何度かぼくは、幼い頃の娘とのやり取りを書いた。(「濫觴」No.24。研究所のHPで読むことができる)
 今はもう、32歳になった娘であるが、うんと幼い頃、学校に行きたがらなくなった娘と話し合った。彼女の登校途中、手をつなぎながらの会話である。ぼくたちは、こう整理してみたのだ。
 「人間が学校に行くのはね、学校に行っていろいろな勉強をするのはね、自分の幸せのためだけではなくて、他の人も幸せにしたいからなんだ。人間が学ぶというのは、きっと人を愛するということなんだ、愛する力をつけるために、ぼくたちは学校に行くんだよ、きっと」
 〈学校〉には今、そういった力があるだろうか。

 〈立派な人間〉になるために、懸命に勉強した者たちは、誰に対しても思いやりがあって、争いごとなどしようとはせず、平和であたたかい社会を気づくために働く大人になっているのだろうか。
 「あの子は成績はいいのだけれど、自分勝手で冷たいんだよね」とか、「あの子はあまり勉強はできないのだけれど、誰に対しても思いやりがあって、優しいんだよね」ということばを聞くことがある。これはとてもおかしい、とぼくは思うのだ。懸命に努力して、一生懸命に勉強して、成績が良くなった者は誰よりも立派であるはずだし、つまりは誰に対しても思いやりがあって優しいはずだ。
 国の官僚などの役人になったり、政治家になった者たちは基本的にその国ではエリートであるはずだ。(最近はそうでない場合も目立つようになっているが)
 国を任せることができるような〈立派な人間〉になったその者たちがなぜ、たとえば〈戦争〉などを発想することができるのだろう。〈戦争〉は〈けんか〉をとんでもなく大きくしたもので、人殺しではないか。けんかなどしないでみんな仲良くしなければいけないと教わったぼくたちは、とても困ってしまうのだ。人を殺すことを正当化するための論理を学ぶためにぼくたちは〈学校〉にやってきたのだろうか。(続く-次号「教育原論Ⅰ「学校3」)

No.175 教育原論Ⅰ 学校(1) 夢の途中(62)

 ある国立大学の教育学部の教授から頼まれて、彼が校長を兼務している附属小学校で子どもたちに講演をしたことがある。希望する保護者たちや先生たちも傍聴した。
 担任の先生に引率されて講堂に集まった子どもたちは、実に整然としており、自分が小学生のころ、こんなに立派だったかなあと驚くのだった。
 話の中ごろになると、疲れたのか子どもたちの姿勢が少し崩れ始める。すると、担任の先生がさっとやってきて姿勢を正すように注意する。
「そうか、疲れるよね。ごめん、ごめん。楽な姿勢でいいよ」と声をかけると、子どもたちは一斉にやわらかい姿勢になった。あッ、先生たちに申し訳ないことを言ってしまったな、と反省する。先生たちは一所懸命にしつけや教育に打ち込んでいるのだから、よそからやってきて、無責任な話をして、子どもたちのご機嫌伺いなどされたら迷惑に決まっているのだ。子どもたちだって、懸命に姿勢を正しているのに、どっちのいうことを聞いたらよいのか困ってしまうではないか。一番悪いのは、面白くない話を長々と続けているぼくなのだ。
しかしながら、小学校って、いいなあと思う。

 春の、桜の季節になると、大きなランドセルを背負った可愛い子どもたちの姿がほほえましい。幸せをあちこちに配って歩いているようで、なんともいえぬ喜びを感じる。
 小学校が多くの子どもたちにとっての〈学校〉という世界との出発点である。小学校に行くようになると、毎日数時間はあまり座り心地のよくない椅子に腰かけ、先生の指示に従って、まったくその通りに行動しなくてはならない。給食だっておかずだけ先に食べてしまってはいけない。三角形に順序よく食べるのが良い子だ。教科書と目の距離は30センチ離れていなければならない。そのためには背筋を伸ばさなければならない。鉛筆の持ち方や消しゴムの消しカスの処理の仕方、あらゆることを先生が教えてくれる。
 こういったことはやや窮屈だけれども、先生の言うとおりにしていれば、お父さんやお母さん、おじさんやおばさん、あるいは先生のような大人というものになれるのだろう、と思うのだった。大人になれば、先生のように給食を三角形の順番でない食べ方をしてもよくなるのだろうし、おとうさんのように寝っころがって本を読んだっていいんだと思うのだった。
 とにかく、〈学校〉はすごいところだった。今までの保育園や幼稚園とはまったく異なった空間なのだ。おしっこをしたくなっても、多少は我慢しなければならない。授業中にトイレに行ったりするとみんなから笑われそうな気がするし、先生が怒るかもしれないし、お母さんに先生が何か言うかもしれないし、そうなるとお母さんが悲しそうな顔をするだろうし、お父さんだって心配するかもしれないし、おじいちゃんだって神経痛がひどくなって今までよりたくさんお薬を飲むようになるだろうし、隣のおばさんがおそらく心配してくれてのことだろうけれど、いろんな近所の人たちに教えるだろうし、そうなるともう、ぼくはこの町にいることができなくなってしまうかもしれないのだ。
 でも、いったい何のために学校に行くのかというと、そういえばあまりはっきりとは聞かされていないような気がするのだ。いややはり、立派な大人になるためだと思う。
 ぼくの周りの大人の人たちは、それはもう絶対にぼくなんかかないそうもないほど立派なんだし、比べることすらチャンチャラおかしいのだ、そういうものを感じていたのだった、たとえばぼくの少年時代は。

 立派な人間になるためにぼくたちは〈学校〉に行くようだ。だとすると、〈立派な人間〉とはどういう人のことをいうのだろうか。〈良い子〉であることが立派な人間になるための子どもの姿であるように感じていたぼくは、学校の図書館の本棚に見つけた『良い子になるための本』という実に明快なタイトルのついた本を借りて帰り、なぜか兄姉には隠れてこっそり読んだ。なるほど、なるほどとは思ったが、まったく面白くはなく、そうか、良い子になるためにはなんとなく面白くないことを我慢しなければならないんだなとだけ思ったのだった。
 けんかをする子は悪い子だ、嘘をつくのはいけない、他の人に優しくしなければならない、きちんと予習・復習をして、忘れ物なんかもってのほかである。食べ物の好き嫌いをしてはいけない。ぼくはみんなが嫌いだという人参だって、ピーマンだって、何だって食べた。
 けれども、なんだか、ずっと先に、ぼくも、ぼくの仲良しのヨシトモくんも、ヒロちゃんも、タカオくんも、それからクミコちゃんも、確かにイイ人にはなるだろうけれど、立派な人になるに違いないとはあまり思えなかった。なぜだろうか。(続く-次号「教育原論Ⅰ「学校2」)

No.174 夢の途中 教育原論・序 夢の途中(61)

 前歯の乳歯2本が抜けて、むしろ愛嬌が増した孫に、ぼくが幼い頃可愛がっていたコロという小犬の話を聞かせてやる。日曜の夜、就寝前のベッドの中だ。初めて独りでお泊りをする8歳の少年は、緊張のせいかとてもよい子である。けれども、次第に抱きついてきて甘え、ぼくの腕を枕にして話を聞く。彼の父親、つまりぼくの長男や次男、それに娘がうんと幼い頃、2歳や3歳、4歳や5歳の頃、聞かせてやった話だ。彼らはこの話が好きで、何度も何度も聞かせてくれとせがんだ。35歳になったばかりの次男がベッドに近づき、〈覚えているよ、まだ。ぼくもまた聞きたい〉と云いながら、ぼくの隣に横になる。190センチ近くある次男と小柄な孫に両腕を与えながら、30年以上前に創った話を聞かせる。コロと少年の頃のぼくとの、事実をもとにした、少し悲しい童話である。

*

 少年の頃の思い出は、何度もこの「濫觴」に書いた。振り返ると、その頃のぼくと年老いた今のぼくとがさほど変わっていないようで、なんとも情けなくなる。
 全てを思い出せるわけではないが、思い出すことの多くが父や母の偉大さと兄姉の優しさと、それに今なお苦しんでいる自分の未熟さに関わることで、多少身についた知識やわずかばかりの経験ではそれらの未熟さを修正や補完はできなかったのだなと思うのだ。
 少年の頃ぼくは、独りの時間を愛した。本を読み、詩のようなものを書き、絵を描いた。同じ年齢の子どもたちとは、思い出せば、仕方なく、つまりは付き合いで遊んでいたような気がする。野球やゲームで遊んでいても、この時間が過ぎれば独りの時間が訪れる、と思っていた。本当に没頭するような興奮はそこにはなかったのだ。
なぜだろう。
 ぼくはいつも自分をばかり見つめていたのだ。それは幼稚園に通うようになったときにはすでに芽生えていた。ピアジェのいう〈知的自己中心性〉とでもいうものだろうか。自分がその場に立っているとしたらこのように見えるだろうといった〈メンタル・シミュレーション〉の力がなかったのではないか。
 社会的存在としての人間には、自分以外の人間を理解し、共感する力が必要だ。それだけではなく、他者の思考や行いの背後にある知覚経験や、いわゆる気持ちや感情、動機などの内的な特性に気付き、おそらくこういうことから悲しみを覚えているんだろうな、と推量し、適切な対応をするという社会性が必要である。
 ぼくはそのような〈社会性〉を手に入れるのに時間を要した。いや、今なお欠落しているようにも思われる。ところが、表面上は、あるいは誰よりも優れた〈社会性〉を持っているかのように振舞うことができるのである。
つまり、演じているのである。
 ゆえに、常に自分を否定しながら生きねばならなくなる。毎朝のようにぼくは、もっと優しい人間になろう、と決意しながら電車に乗る。けれども、今日もだめだった、と家路につくのである。
 自分の心や感情だけを大切にしているのではない。自分のそういったものを徹底的に分析して一日が終わるのである。それは常に批判的で、非難的なものである。だから毎日、おそろしく疲れるのだ。

*

 ぼくたちは学習する。最もわかりやすい学びの場は〈学校〉である。その学校でぼくたちは何を学ぶのだろう。何を、なぜ学ぼうとするのか。くり返しぼくは、考えてきた。
 そこで〈せんせい〉と呼ばれる者たちのありようについても考え続けている。この〈濫觴〉においてもたびたび論じた。
 親たちは、〈学校〉や〈せんせい〉に何を望むのか。何を望めばよいのか。
 教育行政に携わるものたちは、どのような使命を持ち、どのような理想を持ってそれに当たらねばならないのか。
 町のパン屋のおばさんやクリーニング屋のおじさんは何か関わるのだろうか。
 新聞やテレビなどのメディアはどうか。 
 そういったものについてもう一度、この場を何回か連続して借りて、丁寧に考察したいと思っている。

*

 シリアやソマリア等からの難民が、その子どもたちが彷徨っている。食べ物や飲み物もなく、お風呂にも入れず、海に放り出され、路上で震えながら、次々と息絶えてゆく。
 ぼくたちはいったい何をしているのだ。
 インターネットのような大変なツールをもてあそびながら、その傍らにあばら骨の浮き出た子どもたちが餓死しているのだ。経済競争に敗れた者たちが巨大な高層ビル群の足下で自死している。
 〈教育〉はもっとあたたかく、優しい人間を育てる行為なのではないか。夢のある豊かなものではないのか。(続く-次号「教育原論1「学校」)

No.173 大衆の選択 夢の途中(60)

 英国で生活するようになったある日のことである。30年近く前のことだ。車の運転ができないぼくは、しばしばタクシーで通勤した。わずかな時間だが、タクシーの運転手さんとはよく会話をした。
「夏のホリデーの計画はもう立てたのですか」
「いや、まだですが、運転手さんはどこかに行くんですか」
「ヨーロッパに行こうと思っているんですが、……」
「えっ、この英国だってヨーロッパじゃないですか」
「いや、違いますよ、英国は英国で、ヨーロッパなんかじゃありませんよ」
 英国の人からはこのような言葉を何度か聞いた。英国はヨーロッパの中の一つの国なんかじゃない、ひとくくりにされてたまるか、といった思いを持っているようなのだ。

* 

 ここ数ヶ月、EU Referendumという言葉とBrexitという言葉をいやというほど耳にした。前者は「英国がEU、すなわちEuropean Union(ヨーロッパ共同体)から離脱するかどうかについての国民投票」の意で、投票した人の過半数の選択で決めるというものである。後者は、EUから離脱するという意を込めた造語である。BR (British) とExitとを組み合わせたものだ。離脱しないでEUに残るべきだと主張した人たちは、Remainという語を用いた。
 結果としては、こういった国民投票をやることにした当初の予想に反して、Brexit、すなわちEUからの離脱が決まった。
 数多くの経済学者や科学者たち、世界機関の人たちがEUに残るべきだと主張したが、効果は無かった。オバマ米大統領も英国にやってきて、EUに残らないと米国は知らないよと半ば脅すようなメッセージも発したが、役に立たなかった。経済が悪くなろうが、移民たちを追い出せればそのほうが良いし、いろいろな政策にEUからいちいち干渉されるのは真っ平だというのである。
 ちょっと前に、英国(UK = United Kingdom連合王国)からスコットランドが独立するかどうかについての国民投票がなされた。結果としては、英国に残ることとなったのだが、そのとき、「心では独立、頭では残留」ということが言われた。独立したいのはやまやまだが、経済その他について考えると残ったほうが得策だという結論をスコットランド人は下した。
 今回のEU Referendumにおいても最終的には同じ理由で、Remainという結論になるのだろうと思われていた。けれども、夜が明けると、Brexitとなっていた。
 「エリート層の知性に大衆が勝利した」と報じられた。
 その結果、予想されたとおり、国内政治は大きな混乱に陥っており、経済は厳しい見通しで満ちている。
 Brexitを主導した者たちは、筋金入りの右翼UKIP(英国独立党)のNigel Farage党首だけは満面の笑みを湛えて喜んだが、前ロンドン市長のBoris Johnsonなどは顔を引きつらせていた。彼もまた、どうせ負けると予想していたのだろうし、ゆえに無責任な情報操作を行なったのだ。ぎりぎりで負けるというのが、彼らにとっては最高の望むべき結果だったに違いない。
 同じような風景が、ちょっと前に大阪でもあった。大阪都構想なる府民投票である。負けたほうの橋下市長が実に晴れやかな表情を浮かべて記者会見で応えていた。万が一にも勝ってしまっていたら責任の全てが自分に覆いかぶさってくることになっただろうが、うまい具合に負けることができたとの満足感である。
今になって、Brexitに投票した者たちが慌てている。もう一度国民投票をやり直してくれないかというのである。

*

 中国から研究所に留学してきている学生が言う。
 「中国では一度も選挙が行なわれたことがないとよく外国から批判されるが、選挙でいつも正しい結果が生まれるとは限らないという証(あかし)ではないですか」
 「そうだね。いつも大衆が正しい判断を下すわけではない。けれども、それが民主主義なのだ。愚かな選択をしたとしても、国民一人ひとりに選択する権利が与えられていることが大事なのだ。間違った選択をした責任は、国民が自ら負わなければならない」

*

 新聞もテレビも書かないし、言わないが、本心としては「愚かな民衆や大衆がまさに、愚かな結論を出した」と報じたいことだろう。いや、メディア自体がいまや、愚かな似非ジャーナリズムに堕しているのかもしれない。
 日本の国政では、改憲与党や野党のふりをした与党の補完政党が、衆参ともに3分の2を占めた。いよいよだ。選挙中は愚かな国民にひた隠しにしていた憲法改定が動き出すことになる。
 国会で発議され、国民投票で過半数の支持を得れば、誇るべき平和憲法が葬り去られることになるのだ。いや、それが、その愚かさこそがまさに、民主主義なのだ。
 英国人の主治医が、日本もいよいよだねと表情を曇らせた。

No.172 さようなら、いや、プロローグ 夢の途中(59)

 研究所は4月3日に27歳の誕生日を迎えた。今年はその記念日を初めて日本で迎えたのだったが、帰英後ぼくは、いつものように研究所の足跡となるところを一人でゆっくり回った。
 27年前のぼくは、幼い少年が眠りに落ちるとき、目覚めれば必ず新しい朝になることを疑わない、そのような思いで明日を信じていた。
 ロンドンの中心部のビルの最上階のオフィスからぼくはよく、深夜零時に、一人窓際に立ち、宙に浮かぶネルソンの像と、その向こうに見えるビッグベンとを眺めた。
 そのときのぼくは、何を思っていたのだろう。不安に苛(さいな)まれることもなく、湧き出るいろいろな構想に部屋の中を歩き回っていたように思う。箇条書きした紙を見つめ、「よしッ」とか、「うん」とか、ひとり呟いていた。
 その頃のある日、大学で講演するために日本に向かう飛行機の機内誌で、当時、時代の寵児ともてはやされていた世界的経営者、ヴァージングループ代表のリチャード・ブランソンの特集記事を読んだ。
 ロンドンに戻ったぼくは彼に手紙を書いた、「会って、いろいろなことについて語り合ってみないか」と。同じ世代の彼はすぐに、「会おう」と返信をよこし、何度も彼の自宅に招いてくれた。数多くの会社を経営する多忙な彼はしかし、毎回数時間を割いてくれ、ぼくたちは様々なことについて語り合った。
 彼はロンドン市内の5星のホテルの大きなホールを二つ、借り切り、ぼくのためのコンファレンスとパーティーを開いてくれ、集まった多くの人に向かって「ミスター・ズシが教育の新しい世界を創造する」とスピーチしてくれた。
 またある日、辻井喬さんに会ってみたいとふと漏らしたら、彼がわざわざスケジュールを調整して、ぼくを東京・本郷の瀟洒なフランス・レストランに招いてくれた。そこは著名な作家たちが屯(たむろ)するところで、ぼくたちは何時間も文学や文化、哲学について語り合った。その時、彼は70代であったが、まるで青年のように、これからの夢をぼくに聞かせてくれた。彼は日本を代表する詩人であり、谷崎潤一郎賞などの数多くの文学賞を受賞している小説家であったが、西武セゾングループの代表として数多くの会社のトップに君臨する経済人でもあった。
 そのころ、ぼくの周りには力ある魅力的な人たちが集まり、自分がやりたいと思うことは知らぬ間におぜん立てが整っており、ぼくはただ、夢や理想を語っていればそれでよかった。
 自分に自信があった。
 恵まれていた。
 今もまた、ぼくは多くの人たちに支えられて幸せな毎日を送っている。ことばなどでは表現しつくせないほど優れたスタッフや教え子たち、友人たちに囲まれている。
 つまり、ぼくが今日、このように教育の世界で呼吸することができているのは、周りの人たちの力によるのであり、ぼくの力ではないのだ。
 にもかかわらず、ぼくは傲慢不遜だった。自分でもそのことに気づき、毎日のように今日こそはすべての人に優しくありたい、謙虚な人間でありたいなどと決意しながら、そういう自分ではないことに打ちひしがれて一日を終える毎日なのだ。
 だから、未熟な自分に〈さようなら〉をしなければならないと考えるようになったのは、もう何年も前のことだ。
 自分の納得のいかない自分は潔く葬らなければならないと思うようになっていた。


 こういった思いはしかし、自分が歩んできた教育者としてのおよそ40年が今、〈終章 epilogue〉を迎えていると思ってのことだと気づいたのだ、最近。大量の本を読みながらぼくは、自分の本当の傲慢さに気づいたのである。
 ぼくはまだ、ようやく〈序章 prologue〉を終えようとしているにすぎない。ぼくはほんの少しだけ、教育の世界を知ることができたのであり、これから本当に自分の教育に対する思いを確かな形で具現化していかねばならないと思うようになった。
 確かに少し歳は取ったが、まだまだ十分に若い。〈序章〉の段階で身に着けたものを、これからしっかりと形にしていこうと思う。いろいろな屈折や挫折といった厳しさに直面することもあるだろう。それはそれでいい。もう一度、深夜零時のまなざしで、自分の手で、自分の体からにじんでくる汗を大切にし、ぼくの教育の世界を作っていこうと強く思っている。

 第44代内閣総理大臣、すなわち戦後すぐの首相・幣原喜重郎のお孫さんから、「これでモノを書いてください」とモンブランの万年筆をいただいた。30年も前のことだ。そうかこの人のお祖父さんがあのマッカーサーとやりあったのかと自分よりずいぶん年上のその人を見つめた。貴族の血を引く彼は、ぼくの右手を両手で包み込むと、ぼくをじっと見つめて静かに肯いた。
 その万年筆でぼくは今、明日の自分を書き始めるのである。

No.171 夢の途中 日曜日の夜(58)

 新しい年になり、もう4回目の日曜日である。新年を迎えるにあたり、ぼくはいくつかの約束事をした。大晦日のテムズの花火大会を見ながら、New Year’s Dayのウィーンフィルのコンサートを聴きながら、ぼくは新年への思いに姿勢を整えた。
 幼いころから毎年恒例としている書初めでは、今年は「求諸己」と書いた。「諸(これ)を己(おのれ)に求めよ」と読む。「すべての責は自らに求めよ」との意を込めた。
 書初めをするたびにぼくは、いつも父を思う。正月2日の朝、父は庭の樹々や草花から集めてきた露で墨を磨った。父の前に正座して座ったぼくも、背筋を伸ばして父に倣(なら)った。そういった清新さは今のぼくの風景にはないが、墨を磨りながら秘かにぼくは心の中で、かつての父との風景の中に自分の身を置くのだった。
 今のぼくの歳には父は、時たまいろいろな団体に呼ばれて講演をすることはあったが、庭で心を込めて花を育て、美しく咲いた花を母に贈り、喜ぶ母の姿を静かに見守る毎日だった。母が逝くと、庭は荒れた。兄や姉はそれを温かく見守った。荒れた庭はしかし、父の代わりに涙を流し、すすり泣いていたからである。

  息子がプレゼントしてくれたFrank Sinatraの “no one cares”とうアルバムを今、聴いている。gigで彼は、自分の作品以外に他のミュージシャンの作品を1、2曲挟んで歌ったりしているが、最近はよくSinatraの曲を取り上げている。New Statesmanというリベラルな週刊の雑誌に彼が書いたSinatraについてのエッセイは話題になった。
 その息子が電話をかけてきて、「どうしたらこの世の中から戦争を無くし、みんなが平和で幸せに暮らせるようになると思いますか」と訊いた。34歳の息子は、英国の新聞Guardian紙の戦争に関する特集記事のチームの一員として連載執筆もしたが、昨今の、日本も含めた世界の状況に憤っているのだった。
 「教育だね。数十年はかかるだろうが、時間がかかったとしても、もう一度やり直すことだと思う。お金を中心とした、数字で世の価値観を支配する社会を変えることだと思う。政治家がすぐ唱えるような道徳教育のようなものではなく、もっと単純で強靭なまなざしを育てることだ。簡単に言えば、美しい花を美しいと感じ、大切な人を確かに抱きしめることのできる、そういった知性を育てなければいけないと思う」

 大学生になってもぼくは、母が編んでくれたセーターを着ていた。母はカーディガンもベストも、ぼくが幼いころから大人になるまで着た毛糸服の全てを巧みに編んでくれた。幼いころは、ぼくの好きな動物も、そして胸のあたりにはぼくの名前も編み込んであった。
 母は優しかった。ぼくは一度も母から叱られた記憶がない。
 恵まれた家庭の3姉妹の末っ子として生まれ、豊かな愛情のもとに育った母は、穏やかで優しい微笑みをいつもぼくに向けてくれた。そして何より幸いだったのは、母の口から他の人の悪口の類いを聞くことがなかったことだ。他の人に対する妬みやひがみなど全く持たない素直な人だった。それは父にしてもそうだった。父もまた、絶対に他の人の悪口を言わなかった。それは、二人の知性だった。
 ぼくが大学生として一人で生活を始めるとき母は、「世の中にはいろいろな人がいるから気を付けるのですよ」とぼくに言った。ぼくははっとして母を見た。「みんないい人だよ」というぼくに、「そうね、そう、みんないい人だよね」と母は恥ずかしそうに応えた。それは、なぜか、はっきりとした思い出である。
 母は優しく、強い人だったのだと思う。そして何より、優れた知性があったのだ。母は自分が子どもの頃の幸せな思い出を、夢を繰り返しぼくに聞かせてくれた。母の両親はぼくに、「君の父親は立派な人だ。お父さんのような人間になりなさい」と何度も話してくれた。
 寡黙で怖く、厳しさを漂わせていた父も、大きな優しさにあふれていた。

 愛情は繋いでいくことができるように思う。
 けれどもまた、その連鎖は新しく始めることだってできるのだ。それはおそらく、その人の知性によって生まれる。豊かな知性によって生み出される。
 Sinatraの曲を聴きながらぼくは、自分の知性の貧しさを恥じている。ぼくの愛する教え子たちへの思いにしても、まだまだ未熟だと感じている。ぼくの愛する人たちへの心にしてもその貧しさを恥じ、けれどももう一度始めようと思っている。
 来週の日曜日で1月も終わる。日曜日の夜はいつも、重く苦しい様々な思いの中で、多くの人たちの愛によって支えられた思い出とともに、たとえばワインと、たとえばウイスキーと、あるいはジャズやクラシックなどの音楽も加えて、明日を信じようとする時間である。

No.170 夢の途中 夢の途中(57)

 このコラムに〈夢の途中〉と副題を付けてからもう、随分と時が流れた。割と気に入っていたこの言葉を、ぼくは今、繰り返し反芻している。
 この〈夢〉とは何だろう、〈途中〉とは何だろう、と。
 教育に打ち込み、文学という世界に精神を遊ばせてきたぼくにとって、〈夢〉とは何だろう、何だったのだろうか。
 いつかこのコラムで「変数Xの孤独」(No.120)という文章を書いた。人はそれぞれ自分の、自分だけの人生を送っているように思ったりするが、しかしそれは哀しく、寂しい誤解であり、人の人生とは、予め設けられている関数の一変数として投げ込まれた数字にすぎないのではないか。多少の違いはあるにせよ、結局は定められた計算式の中を転びまわる数字なのであり、孤独なものなのだ、と。
 いつ始まったのかをさえ思い出すことのできない人生というプロセスは、いつか終わるにちがいないという〈やや確かな死〉というイベントに向かっているようなのだが、つまりは今はその〈途中〉であるということなのだ。
 こうでありたいとか、このようになりたいとか、このようにしたいとか、そういったものを〈夢〉と呼ぶならば、では具体的な事柄を、と思い浮かべてみるや否や、それらは曖昧なものとして瞬時に打ち消されてしまうのだ。いずれも、納得いくものではない。
 ぼくの〈夢〉とは何だったというのだ。

*

 ぼくは今、立ち止まってしまった。
 疾走を続けていたぼくは今、右足の一歩を前に運ぶことができずに佇んでいる。役目を終えた左足も、動き出さぬことに決して不平や泣き言を言わずに沈黙している。
 目に浮かぶのは何年も前にパリのロダン美術館で見た、そして激しく心動かされた「the walking man」というブロンズだ。トルソーに接続された両脚。太い骨格に張り付いたたくましい筋肉は歩き続けなければならないヒトという動物の運命を感じさせ、ぼくはその哀しさにその場に立ち尽くし、泣いたのだ。
 ぼくはどこへ向かって歩いてきたのだろうか。
 そしてまた、どうしてあんなにも激しく走り続けてきたのか。
 Classic fMのピアノ演奏を聴きながら、知人にもらったBallantine’s 30years を飲む。ストレートで何杯か飲んでいるのだが、そう簡単には酔わせてくれない。貧弱なる精神がぼくへの問いを畳み掛けてくる。
 走り続けてきたぼくの周りの風景は、少しは確かに変わった。
 日本から飛び出したぼくは、自ら英国を選んだわけではない。
 どこでもよかった。初めに相談に乗ってもらった教授には、アフリカでもどこでもいい、未開な国の、生活するに困るようなところでもいいから、とにかく日本から出てじっくり自分というものを見つめてみたい、と子どものようなことを言ったのだった。
 当時、ぼくは、激しく走っていた。前のめりになって走っていたぼくは、このままでは上半身についていくことのできない、支えきれない下半身によって倒れてしまうと感じていたのだ。拙い論文を書きまくり、研究大会では胸を張って稚拙な発表を繰り返しながらぼくは、自分の未熟さを素直に感じていたのだった。それは恐怖だった。きっとこのままでは、ぼくはダメになる、と。
 英国で暮らすようになったぼくの風景はしかし、国が違っただけであまり変わらなかった。
 同じ歩幅でぼくは、またしても疾走する。
 ぼくにとって未知であった英国もまた、ぼくを未知のものとして大切に受け入れてくれたが、そして一見それは、新しい風景に見えなくもなかったが、次第にぼくはそれらが錯覚によるものであることに気づくようになる。
 風景は自らが作っていくものであって、そこに存在するものではない。
 あるときは、ぼくは老若男女を問わず、多くの人たちの悩みや苦しみを聞き、まっすぐにそれらに全力で向き合い、励まし、支えた。おそらく、そうにちがいない。自己満足に酔い、それをエネルギーとしていた。と同時に気づいていたのだ。ぼくにはそのような、他者を支える力などないのだと。
 〈夢の途中〉、初めてこのことばを用いたときぼくは(No.110)、「夢を見続けることのできる人間でなければならない」と書いた。

*

 今、庭に狐の気配がある。
 彼は、あるいは彼女は、深い夜の闇の中に灯る明かりの中で、一人のやや年老いた男が暖炉の前のソファに深く身を任せ、〈変数〉に過ぎない存在に気付きながらもなお愚かにも、見苦しくも、情けなくも、自らの語った〈夢〉にこだわり、それを見つめようとし、あるいは、〈ことば〉を信じるがゆえにことばの世界から思いにかなうものを探そうとし、見つけることができずに悶々とし、孤独感に押しつぶされそうな感情を振り払い、なお〈途中〉であることの喜びを感じようとしているさまを、じっと見つめているのだろう、か。狐よ、ぼくはまだ。

No.169 秋の日に 夢の途中(56)

 大学でのMA(大学院修士課程)の講義を終えたぼくは、いつもより早く帰宅する。まだ8時前だ。
 食事を終えると書斎にこもる。Classic FMを流しながら、今日日本から届いたばかりの詩集を読む。詩を書く仲間の出した詩集だ。
 「ぽろんと/空から芯棒が落ちてきた」(「黒いことり」田中裕子)うん、いい表現だ。この落ちてきた「芯棒」はどうなったのかな、とくだらぬことを考える。
 考えながらふと、今日の午後、メールでやり取りした池下君を思い出す。今年の春に大学を退職し名誉教授になった彼は、5月の日本出張の際にわざわざ新幹線に乗って会いに来てくれた。久しぶりだった。
 ぼくよりずっと薄かった彼の髪はその時、なぜかふさふさとしており、つい、「それ、カツラだろッ」と訊いたら返事がなかった。
 ぼくは数日前、頭を丸めた。

*

 日が短くなった。ぼくがベッドから抜け出す5時過ぎはまだ暗い。夏時間の頃はすでに明るかったのだが。暗くなると、小鳥のさえずりが戻ってきた。ひげを剃りながら、どうしてだろうと思う。ひげを剃りながらまた、鏡に映っているお坊さんは誰だろうと思う。まだまだ、髪のなくなった頭に目は慣れてくれない。

*

 金曜日の深夜、久しぶりに次男が戻ってきた。背が190cm近くはある彼は、ぼくが横になって本を読んでいるベッドの空きスペースに横たわると、抱きつくような形で話し始めた。34歳の男である。右腕はぼくの胸の上にのせられている。
 日本は大丈夫だろうか。いわゆる戦争法案といわれているものが成立したようだけれど。
 ジャーナリストの彼は、日本のニュースについても詳しい。
大学教員の長男もしきりに電話をかけてきては心配している。長男は、先ごろ行なわれた労働党の党首選びで、コービンという、より左翼の候補者を応援するためにサポートメンバーとなった。彼のパートナーの祖国、スイスの総選挙では、右側が多数派となった。

*

 そういえば、日本では戦争法案に反対する大学生の活動が話題になった。大学生が、政治的な活動を行なうなんて久しぶりのことだ。
 かつて、詩人の辻井喬と東京・本郷で、ワインを飲みながらじっくり語り合ったことがある。彼の本名は堤清二で、西武デパートなどを経営する西武セゾングループの総帥だった。父親が大臣を務めていた頃、東大生だった若き日の彼は反体制の学生運動にのめり込む。ところが、父親が大臣であることが分かり、不本意にも体制側のスパイと疑われ、追放される。しかしながら、その後も彼は、いわゆる学生運動に対するシンパ sympathizerであった。60年安保闘争の国会前での機動隊と学生との衝突で東大生・樺美智子が死ぬ。その深夜辻井は、国会前に赴き、この夜のことは絶対に忘れないと誓うのだった。

*

 ぼくが沖縄国際大学に招かれ講演をしたのは、その大学に米軍のヘリコプターが落ちた直後だった。
 米軍普天間基地に近接している大学は、確かに危険だった。世界でもっとも危険な基地とその設置を行なった自民党さえも認めるほどだ。その基地を辺野古に移そうという政府に、沖縄県民が反対している。
 政府は、「反対すると普天間をそのままにしておくぞ」という。この論理の気持ち悪さに、あるいはあまりの稚拙さに悪寒さえ覚える。これは恫喝だ。
 危険な基地を早く撤去しなければならないのは当たり前で、国の責任である。移転というと錯覚を覚えるが、覚えさせられるが、そして当然「その代わり」の要求ができそうに思えるが、そんなことは無い。移転ではなくて、新しい基地建設なのである。日本を守るためという理屈のための沖縄への犠牲の強要なのである。たとえば、基地は全部、首相の地元である山口県に集中させたらどうだろう、と思ったりもする。

*

 つい飲み始めたウイスキーが何杯になったかもわからなくなった。まあ、たまにはいいさ、という都合のいい言い訳がしっかりと身を守る。
 いろいろな主義や主張がある中で、できれば弱い者に対する思いやりや優しさがどの立場の者たちにもあるといいなあと思う。自分の幸せのために他人を虐げたり苦しめたりする社会はごめんだ。
 あ、あれは、あの気配は狐だな。庭の芝の上に立ち、今夜もまたぼくをじっと見つめているようだ。

No.168 “We are not animals.” 夢の途中(55)

 ぼくは一度だけ、ドーバー海峡Strait of Doverをホバークラフトhovercraftでフランス北部の港町カレーCalaisへ渡ったことがある。まだ、チャネル・トンネルthe Channel Tunnel が開通する前である。
 飛行機ではなく海を渡ってみたいと思ったぼくはしかし、船酔いしやすく、船に乗っている時間が一番短い、つまり早く目的地に着くホバークラフトに乗ることにした。これが間違いだった。動き出すと海面から空中に浮かんで進むので揺れないのだが、動き出す前の港にとまっている間にぼくは、ひどく酔ってしまったのだ。ホバークラフトは軽く、ぷかぷかと大きく揺れるのだった。もう二度と船には乗りたくないとぼくはふらふらした頭で誓った。

*

 そのドーバー海峡を挟んだ英仏間で今、ぼくたちと同じ〈人間〉が、数多くの弱く力の無い者たちが、まるで獣のように扱われている。彼らはエチオピアEthiopiaやエリトリアEritrea、スーダンSudan、アフガニスタンAfghanistanなどから戦乱を逃れてきた人たちである。不法移民と呼ばれる。
 カレーの町の中心部から数キロメートルしか離れていないところに難民たちを収容するキャンプがある。訪れたOwen Jonesは、高い有刺鉄線で囲われ、汚臭の漂うその地を‘Jungle’と書く (NewStatesman 14-20 August 2015) 。
 およそ3000人がいると思われるそこには30足らずの簡易トイレと粗末なシャワーがほんのわずかあるだけである。ボランティアとして働く英国人医師は、コレラcholeraやはしかmeaslesの感染が広がるのは時間の問題だと指摘する。その他の皮膚病等の伝染も広がっている。無論、その他のあらゆる病気に悩まされつつある。
 彼らはそこで何をしようとしているのか。彼らはドーバー海峡を越えて、チャネル・トンネルを抜けて、英国へ逃れたいのだ。英国へ行けば救われると信じている。隙をうかがっては、英国へ向かおうとするトラックや列車、あるいはフェリーにこっそり潜り込んで海を渡りたいと願う。つまり、 ‘the Jungle is a transit camp, not a permanent settlement’ というわけである。
 現地のポスターや落書きにはこう、ある。
 ‘The grass is greener where there no sides’
 ‘NO BORDER – RESIST! REBEL! REVOLT!’
 そして、こうも書かれている。
 ‘I’m human like you’
 ‘Help!’
 けれどもまた、英国に行けば必ず救われると誰もが信じているわけではない。英国に亡命しようとして拒否され、本国に送り返された者たちもいる。それでもなお、祖国を捨ててこのキャンプに逃れ、でき得れば英国に受け入れてほしいと願っている。
 ‘Our life is dangerous; we are not safe in Afghanistan, that’s why we leave Afghanistan. We come here to make the good life.’
 このようにいう難民の彼の母はまだ生きているが、彼の兄も伯父もタリバンTalibanによって殺された。戦地から逃れ、トラックに乗ったり、歩いたりしてようやくこのキャンプにたどり着いた彼は、続けて言う。
 ‘In England, they give you a home, they give you a doctor, they give you the food money.’
 週に36.95ポンドしかもらえないよと告げられると驚き、しかしなお、キャンプについて次のように言うのだ。
 ‘They’re not supporting the refugees here. We need a home, we need school, we need the good life.’
 そして、言う。
 ‘We are not animals. The Jungle is not safe.’

*

 英国へ潜り込もうとした者の中には死者も出ている。
 英国は、残念ながら彼らを歓迎してはいない。英国は、彼らが思うような夢を彼らに与えようとはしていない。
 英国の外相は彼らについて “marauding”と述べ、首相は “swarm of people”と呼び、英国独立党 Ukipの党首は、入国をさせないよう軍隊を配備せよと主張した。
 けれども彼らは野蛮人でもなければ、盗賊でもないのだ。

*

 ぼくたちは何をしているのだろう。地震や津波で被災した人たちに涙しなかった者はおそらくいまい。誰にだって突然襲い掛かるかもしれない自然の災害は、富める者にも名誉や地位ある者にも等しく、悲惨で苦しい状況を強いる。
 けれども彼ら難民は、愚かな人間同士の、あるいは国や宗教などといったものが引き起こした戦争等の被害者ではないか。
 国なんてどうでもいいじゃないか。同じ人間として、苦しむ者がいれば抱きしめようではないか。飢える者がいれば自らの食べ物を分け与えようではないか。病める者がいれば医者や薬を届けよう。ぼくだって、君たちだって、明日同じ運命に遭遇するかもしれないのだから。
彼らもまた、ぼくたちと同じ人間なのだ。

No.167 からまつに からまつのかぜ 夢の途中(54)


 日本列島の火山活動が活発になっており、長野と群馬にまたがる浅間山もまた、噴火を繰り返しているという。
 ある年の夏、ぼくは軽井沢の万平ホテルに滞在し、軽井沢近辺を歩き回った。浅間山の麓である。
 その頃のぼくは毎日のように、立原道造や中原中也などの詩に曲をつけ、ギターを弾きながら歌ったり、萩原朔太郎の詩が完成するまでの推敲過程を丹念に追ったり、ボードレールの詩を朗読したりしていた。あるいはまた、詩人たちの詩から連想される抽象的な絵をスケッチブックに描きなぐることもしばしばだった。
 万平ホテルの重厚な部屋は若かったぼくには贅沢だったが、背伸びをしていたぼくには心地よかった。ウイスキーの味が少し、わかり始めた頃でもあった。
 追分まで足を伸ばした日は、堀辰雄や立原道造と同じ空気を吸っているような気持ちになり、涙が滲んだのだった。
 そして星野では、北原白秋の落葉松の詩を諳んじながら歩いた。

からまつの林を過ぎて、
からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。
たびゆくはさびしかりけり。

からまつの林を出でて、
からまつの林に入りぬ。
からまつの林に入りて、
また細く道はつづけり。

からまつの林の奥も
わが通る道はありけり。
霧雨のかかる道なり。
山風のかよふ道なり。

からまつの林の道は
われのみか、ひともかよひぬ。
細々と通ふ道なり。
さびさびといそぐ道なり。

からまつの林を過ぎて、
ゆゑしらず歩みひそめつ。
からまつはさびしかりけり、
からまつとささやきにけり。

からまつの林を出でて、
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
浅間嶺にけぶり立つ見つ。
からまつのまたそのうへに。

からまつの林の雨は
さびしけどいよよしづけし。
かんこ鳥鳴けるのみなる。
からまつの濡るるのみなる。

世の中よ、あはれなりけり。
常なけどうれしかりけり。
山川に山がはの音、
からまつにからまつのかぜ。

 「これらは声に出して歌うべききわのものにあらず」と白秋は注をつけたが、ぼくはかまわず、ゆっくり歩きながら口遊さんだ。白秋が危惧したに違いない五七調の語数音律に酔うことなくぼくはそのとき、この詩の中に潜む白秋という詩人の自らを凝視するまなざしを確かにとらえることができたと思った。ゆえに、第三連でぼくは一度立ち止まり、その続きを、四連に進むことに逡巡したのだ。けれども詩には後半、全身を震わす光が差すのである。今、ここに書き写しながらぼくは、その光に身を浸している。「からまつにからまつのかぜ」。


 日本の文部科学省は国立大学から文系学部を排除するよう通達を出したと聞く。世の中に直接益とならないものは必要ないというのだ。愚かなことだ。かつて、このコラムでも書いたが(No.126)、ぼくたちが歩くのに必要な道幅はわずか1.5メートルもあれば十分だ。けれどももし、この道が1.5メートルの道幅しかなく両側が断崖絶壁であったなら、ぼくたちは足がすくみ、のんびりと歩くことなどできないだろう。今踏みしめている道が踏みしめない大地とつながっていてはじめて、ぼくたちは安心して歩くことができるのである。たとえば人を愛そうとするとき、物理や数学だけでは愛せまい。

No.166 沈んでいく人たち 夢の途中(53)

  目の前に愛するわが子の細く小さな手が伸びて、「助けて」と叫んでいる。指先は細かく震えている。その歪み、引きつった顔は今にも海面下に隠れようとしている。母親もまた、沈み行く船から身を乗り出して、わが子の手をつかもうとするが、叶わない。
重なる叫び声や悲鳴を聞きながら、神はそれを見捨てるというのか。


 国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)は19日、サハラ砂漠以南のアフリカ諸国や中東のシリアなどからの難民や移民を乗せ、北アフリカから欧州へ向かっていた密航船が地中海で転覆し、約700人が行方不明になっていると報じた。現地時間同日午前までに救助されたのはわずか数十名であるという。
 地中海では今月に入って、中東やアフリカからヨーロッパを目指す難民や移民を乗せた船の転覆が相次ぎ、国際移住機関(IOM)によれば今年の犠牲者の数はおよそ3万人に上るおそれがあるという。
 彼らは紛争・貧困を逃れ、安全な生活を求めて欧州を目指す。粗末な船やゴムボートにすし詰めで乗って、北アフリカに近いイタリア南部海域へと向かう。


 BBCが報じるニュースの映像は、さながら地獄絵である。晩い夕食をとりながら、全身が震える。口に含んだ食べ物が喉から落下していかない。
 これは自然の災害ではない。地震や津波によるものではない。経済的に強い者たちや暴力的な者たちが弱者を追い詰め、追い詰められた人たちが海中深く沈められていくのである。
 もしも自分の愛する者が目の前で海中へと沈んでいくとしたら、悲しみや怒りや、そういった言葉ですら表すことのできない思いに、ただただ立ち尽くすしかないだろう。
 たとえば火災にあった高層ビルの窓から火の手を逃れようと飛び降りる人たちがいるが、その人たちは飛び降りることで救われるとは思ってはいない。飛び降りずにはいられない恐怖感がそこにあるからだ。
 難民たちを襲う恐怖感とは何だ。


 ぼくの研究所では、日本の文部科学省のグローバル人材育成プロジェクトに参画して、日本の大学生に対する教育に取り組んでいるが、この「グローバル人材」なるものについて、たとえば文部科学省や大学という教育機関はどのように定義しているのだろうか。あるいは日本の人たちは、よく言われる「国際人」といったものをどのような人たちであると考えているのだろうか。
 さらにいえば、日本という国は本当に、国を国際化しようとしているのだろうか。そうすることが大切なことであると思っているのだろうか。必要なことであると思っているのだろうか。
 ぼくにはそのようには思えない。
 今や国際語となった英語が使え、国際ビジネスで勝者となることが日本という国や日本人によってイメージされた国際化や国際人であるように思えるのだ。
 たとえば、日本大使館のスタッフは国際人なのか。欧米に進出している日本人学校の教員や日本企業の駐在員たちは、特派員として駐在する日本のメディアの記者たちは、はたして国際人なのか。
 彼らはむしろ、日本から一歩も外国に出たことがない者たちよりもずっと、国際人というカテゴリーから遠い者たちなのかもしれない。


 まずは、これらの難民を救うことだ。食べ物や飲み物がなくて死んでいく人たちに食料や水を、どのような困難があろうとも届けようとすることだ。
 この惨状に涙することだ。体を震わせて怒ることだ。ぼくたち人間はなんということをやっているんだと叫ぶことだ。
 積極的平和主義とは武器を持って戦地に駆けつけることではなく、水とパンを抱えて駆けつけ、苦しむ人たちを抱きしめようとすることではないか。戦いに背を向け、背を火炎放射器で焼かれようとも、向き合う子どもたちに微笑を浮かべようとする強さではないか。
 〈沈んでいく人たち〉に確かなロープを差し伸べようとすることではないのか。
 主義や主張、宗教や思想などどうだっていい。間違いなく間違った方法で搾取されたお金という化け物を弱者のための水とパンに換えて、どんな戦地にでも届けよう。そうすることが唯一、ぼくたちが人間としての誇りを守るためにみんなでできる集団的自衛権の発動といえるだろう。
 〈沈んでいく人たち〉は何も、地中海にのみいるのではない。身の周りにもまた、さまざまな恐怖感から逃れようとして海に放り出された人たちが、今にも沈んでいこうとしている。それらからぼくたちは目を逸らしてはいけない。もう一度、船に乗せてあげようと手を伸ばし、抱き上げようとしなければ。

No.165 父と息子とその妻と 夢の途中(52)

 4歳になる琴美(ことみ)の手を引いて家を出る。ぼく(相田大・あいだだい)が娘を幼稚園に送るのは、たまのことだ。「気をつけてね」という妻・裕美(ひろみ)の、やれやれといった気持ちが少しだけ混じった声を背中に聞きながら、ぼくたちは歩き出す。これから洗濯や掃除などなど、きっと忙しく働くんだろうなあと思いながら、心の中で(ありがとう)とつぶやく。
 ぼくの気持ちが弾んでいるときは、ところどころ二人で一緒にスキップなんかしながら、あるいは琴美が幼稚園で習ったばかりの歌を一緒に歌いながら、ぼくたちはゆっくりと進む。この「一緒」がうれしい。
 けれども今日は、なんとなく気持ちが弾まない。保育園でぼくが受け持っている2歳の女の子の顔が浮かぶ。ここ3日ほど、表情がさえないのだ。お母さんが迎えに来るのも遅れがちだ。そして、お母さんの顔には激しい疲れが感じられる。いわゆる母子家庭のその子はしかし、いつもは誰よりも明るいのだ。今日はお母さんと少し話をしてみよう。
 「パパ、どうしたの? おなか、いたいの?」
 琴美が心配そうに訊ねる。
 「ううん、大丈夫だよ。パパは元気、元気ッ」
 「コトミのパパは、ゲンキッ、ゲンキッ」


 征一(せいいち)は少しずつ吹き出てくる汗を感じながら、息子の大のことを考えていた。日課のジョギングの最中である。70歳になったが、無駄な脂肪がまったくない筋肉質の体が自慢だ。いや、正直に言えば、社長職を長男に譲り、会長職に退いた今でも、まだまだ自分が支えなければ、といった緊張感が常にある。40歳になった大と長男との間にもう一人息子(次男)がいる。大の下には娘もいる。それぞれ大人として立派に仕事に打ち込んでいるが、子どもたちの頑張る姿を見ながら、内臓の深いところにかすかな痺れにも似た感覚を覚えるのだ。
 征一はようやく今、自分が〈親〉というものになった気がしている。若いときはがむしゃらに働いた。働いていないと不安だった。大切なものが突然消えてしまうかもしれないといった恐怖心にも似た不安感があった。幸い、妻も妻の両親も征一を信頼してくれた。子どもと接する時間はあまりなかったが、妻が余りあるほどに子どもたちを抱きしめてくれた。ありがたかった。
 征一が子どもたちのことを強く抱きしめたいと思うようになったときは、すでに子どもたちのあごにはひげが生えていた。話しかけても「ああ、ウン」といった返事しか返ってこなくなり、征一は取り残されたような寂しさを感じた。
 大が大学を卒業する年に、海外の空気を吸わせてみようと思ったのは、いわば征一の青春時代の憧れだった。自分も外国に行ってみたかった、というそういった思いではなく、異なった空気を思いっきり吸い込ませてやりたいという思いである。
 だから、実は外国でなくてもよかったのだ。何でもいい、今の環境とは異なった世界で呼吸をさせ、そこでもがかせ、自分が経験できなかったものとの出会いをさせたい、そう思ったのだ。
 しばらくしてロンドンに留学した大に会ったとき、大は「将来は父さんの仕事を手伝いたい」と征一に笑顔で言った。
 「そんなことを考える必要はまったくない。お前に仕事を手伝わせるつもりはない。お前は自分の道を探せ」
 征一は即座に、厳しい表情でそう言った。大の顔は凍りついた。
 数年が流れた。
 ある夜、大が教育者の道に進みたいと考えていると聞いた征一はその瞬間、会社の重役たちが並ぶ宴席の場で、立ち上がって、「うおーッ、おれの子どもが先生になるぞーッ」と叫んだ。全身に喜びが満ちていた。
 日本に戻った大は、臆せず夢を語ることのできる青年になっていた。そして40歳になった今、自分の納得できる保育、幼児教育の世界を創りたいと再びもがき始めた。


 裕美は最近の夫の変化が時におそろしくもある。こんなにも優しい男の人がいるのだろうかと思っていた夫が、一人でじっと考え込んでいると、ときにおそろしいほどの形相になっているのだ。こんなことではいけないんだ、どうしてみんな子どもたちのことをもっと考えようとしないんだ、夫はしきりに口にするようになった。眠っているとき、全身に汗をびっしょりかいていたりもする。まるで明日、戦場に行く兵士のような厳しさなのだ。
 しかし、その厳しい姿の奥深くに、大きく成長した教育への愛情が優しい表情とともにあるのだということも、裕美にはわかっていた。


 教育は、子どもの幸せのためにある。それを考えるのはもちろんまず、親である。そして先生だ。子どもたちが初めて出会う、親ではない大人の存在は、子どもたちを宇宙飛行士のようにまったく新しい世界へと誘(いざな)う。
 相田大も裕美も、そして征一も今、じっと明日を見つめている。

No.164 泣き声 夢の途中(51)

 朝、いつもの時間にバスに乗る。名前も知らない顔見知りの人たちがいつものようにバス停に集まり、いつものようにバスの同じ席に腰掛ける。
 逞しい体格をした黒人のお父さんがいる。〈お父さん〉というのは、いつも小さな子どもを連れているからである。4、5歳であろうか。男の子である。
 彼はいつも、背伸びをしてオイスター(定期券)を機械にかざす。機嫌のいい朝には、運転手に‘Good Morning!’と笑顔で挨拶する。
 けれども、ご機嫌斜めの朝は大変だ。泣き声がバス中に響き渡る。ぼくと目が合った〈お父さん〉は、(いやはや、困ったよ)といった顔で苦笑いをする。(うん、うん)とぼくは、笑顔を返す。
 子どもの笑顔も好きだが、泣き声も悪くない、とぼくは思う。いやむしろ、泣き声は好きだ。(もっと泣け)と声援を送りたくなったりもする。子どもは全身で、何かを訴えようとしている。それは多分に身勝手で、甘えなのだが、それでいいじゃないかと思う。身勝手さや甘えが次第に、〈社会〉というものによって、それを許されないものとして突きつけられてくるのだ。それまでは全身で泣くがいい。
 周りの乗客は誰も迷惑そうにはしていない。ほっとする。


 日本出張中に、ホテルのテレビで「クローズ・アップ現代」という番組を視る。保育所や幼稚園を取り巻く問題について特集していた。
 住まいの近くに保育所や幼稚園ができるのを嫌う人たちが増えており、そのため共稼ぎの人たちを支える保育所等の設置が難しいというのだ。小さな子どもたちの歓声や泣き声がうるさいというのである。
 ようやく開園することになった幼稚園の、園庭はあるのだが、庭で遊ばせると苦情が出るので建物の中から外に出すことができなくなっているという実情が、新聞などのメディアでもたびたび報じられている。
 老人社会となった今、余生を静かに過ごしたいという思いもわからない訳ではないが、なんとなく寂しい。
 ぼくたちが子どもだった頃の大人たちは、もっと大きかったように思うのだ。もっと、厳しくも優しいまなざしで、ぼくたちのやんちゃ振りを見守ってくれていたように思う。
 ぼくたちは確かに、日本という国が右肩上がりに成長を遂げていく恩恵にどっぷりとつかって大人になり、他の人間よりも少しでもいい暮らしができるようにと利己的な競争に明け暮れた。
 それは結構、大変な競争社会ではあった。ゆえに疲れた老人たちは、いや老人に限らず中年連中も、身に付いた利己的な考え方を支えに、「静かにしてくれ」と言いたいのだろうか。


 日本に旅した長男の家族が、日本国内を旅する中で、なんともいえない居心地の悪さを感じたという。長男の息子がまだベビーカーが必要な時の話である。
 旅行中だからと折りたたみの小さなベビーカーにしたにもかかわらず、しかも折りたたんでバスに乗ったにもかかわらず、他の乗客から迷惑そうな、嫌な目で見られ、ある中年のご婦人からは「ちょっとは考えてもらえないものかしら」と舌打ちされたというのだ。長男のスイス人の妻は、顔を真っ赤にしながら震えたという。
 ぼくや彼らが住むロンドンのバスは全て、ベビーカーに限らず、障害者用の車椅子のままでも乗り込むことができるようになっている。
 乗り込むときには、滑らかに乗れるように、スライド式のスロープが出てくる仕組みである。バスの中にはベビーカーや車椅子用のたっぷりとした空間がとってあり、乗客の誰もがそれらの空間を快く譲り、手伝ったりもする。
 東京では2020年にオリンピックとともにパラリンピックも開催されるが、流行語ともなった〈おもてなし〉の精神は、ファーストフードの店員のマニュアル化された表面的な接客ことばのように、心の伴わないものではないかと心配する。


 英国に留学したことがきっかけとなって、〈教育〉という世界に魅せられ、英国の幼児教育(保育士)の資格を取った相田大(あいだ・だい)は、日本に帰国すると日本の資格も取得して今、東京の保育所で働いている。
 早朝から夜晩くまで、ゼロ歳児からの小さな子どもたちの教育・保育に取り組む彼は、40歳になった今も、まるで青年のように目を輝かせながら、教育・保育のあるべき姿について語る。
 「こんな社会でいいんでしょうか。どうして子どもたちを、もっともっとあたたかく見守ってやろうとしないんでしょうか。行政のさまざまな法規制等も、ぼくには本当に子どもたちのことを考えてのことには思えないんです」と毎日のようにメールで訴えてくる彼は、しかし諦めてはいない。(この稿、続く)

No.163 括る。 夢の途中(50)

 Islamic State (Isis) がアメリカ人のジャーナリストを馘首という方法で公開処刑した。残虐極まりない彼らの行為に 、国際世論は驚愕し、憤った。
 しばらくして、イギリス人が同じく処刑された。人々は深い悲しみとともに、得体の知れない畏怖心に震えた。
 人類はもはや、他のいかなる動物と比べても獰猛で、醜く危険な生き物となってしまったのである。
 だが、見るに堪えない殺され方をしている人たちはこの人たちだけではない。毎日のように数多くの者たちが死んでいく。
 たとえば、〈戦争〉の〈被害者〉や〈戦死者〉が〈○○名〉という形で新聞等のメディアで報じられるが、このような数字を読んだ読者はいったい、何を思い浮かべることができるだろうか。
 理不尽に殺されていった者たちの苦痛に歪んだ顔や、もぎ取られた腕から吹き出す血、つい数分前まで語り合っていた戦友の首をなくした胴体、それらの一つひとつをどれだけ想像することができるだろうか。
 〈戦争〉ということばで器用に整理されたものは、紛れもなく〈殺し合い〉なのだ。人が殺し、人に殺されるといった〈殺し合い〉なのだ。この〈人〉というものには、一人ひとり名前があり、顔がある。
 殺されるだけでなく、自分もまた、自分が引いた引き金によって、敵の兵士を殺す。その男には、自分がそうであるように、愛する妻や恋人、子どもや両親、数多くの友人といった、そういうかけがえのない人たちがいるかもしれない。
 一人ひとりが自分でなければ生きられない人生を生きている。
 しかしながら、〈殺し合い〉が〈戦争〉ということばで整理され、一人ひとりの生と死が見えなくなってしまう〈戦死者〉などと括(くく)られてしまうともはや、当事者以外の者たちには実感を伴わない表面的なニュースになってしまうのだ。
 飢餓で続々と死んでいくソマリアの子どもたちもまた、ニュースの中の死者である。


 ある教育評論家が、〈モンスター・ペアレント〉なることばを生み出した。学校や教育委員会にむちゃくちゃな要求を突きつけてくる保護者のことをいうようだ。小学校や中学校だけでなく、いまや高校や大学にも出没するという。テレビドラマ化もされ、現場の教員や校長にぼくも、直接いくつかの事例を聞いた。
 恥ずかしいことに、ぼくも少しこのことばに踊らされた。けしからん親たちだ、と憤ったのだ。
 だが、ぼくは今、このことばを否定する。この種のことばが嫌いになったのだ。
 親たちの、学校や教員に対する要求や文句には確かに、とんでもないものが数多くあるが、親とはそういうものなのだ。自分の子どものこととなると、論理や常識、あるいはエチケットやプロトコールなどというものはかなぐり捨てて、ぜがひでも守ろうとするものなのだ。親ばかでない親は親ではないと云ってもいい。
 さまざまな親がいるのであるが、それをたった一つのことばである〈モンスター・ペアレント〉で括ってしまうと、一人ひとりの親の、つまりは子どもの置かれている状況が見えなくなってしまう。教師や学校、教育委員会が、あの親は〈モンスター〉だから、などと一つのカテゴリーに放り込んでしまったら、子どもの苦しみや困惑、苛立ちや絶望等にたどり着くことができなくなってしまうだろう。
 迎合せよと云っているのではない。間違っていることにははっきりとそのことを指摘し、あくまで知的に、自信を持って、粘り強く向き合っていかなければならない。現場はそんなに甘いものではない、と叱られそうだが、けれどもそうすることが教師の仕事ではないか。一人で向き合うのが難しければ、二人ででも、三人ででも、五人ででも、十人ででも、心を込めて、子どもを親ともども抱きしめたい。
 ぼくたちは、安易に〈括る〉ことで自分の視界を狭め、視力を鈍らせ、思考力を低下させてしまうのである。


 ロンドンに長い間住み、たまに日本に戻ってみると、すばらしく便利な日本に驚嘆する。清潔で、豊かで。しかしながら、なんと表現したらよいのか、英国と比べてというだけでなく、他の国と比べても、なんともいえない独特の空気を感じてしまう。
 それはおそらく、均一化した空気だ。いろいろなものが混ざっていない、単一の、たとえば海で泳ぐのとは違った、プールのようなところに投げ込まれたような、そういったものだ。いろいろな未知のものが無数に存在するような海ではなく、しっかりと囲われて、清潔に管理されているプールのような、そういった空間である。それはおそらく、世界では極めて稀で、日本は特異な国になっているように思う。
 そういった空気を支えるものの一つに、この〈括る〉といったまなざしがあるように思う。あらゆるものを類型化してしまうこのまなざしは、時に、お互いの呼吸を息苦しくさせてはいないかと心配しているのである。

No.162 呼吸 夢の途中(49)

 〈呼吸〉について考えている。
 ある朝のことだ。電車の窓から外を眺めていたぼくは、深くため息をついた。そのため息にぼくは、あきれた。いや、そのようなため息をついたぼくにあきれ、自分自身を軽蔑したのだ。
 未熟者め!
 そして、しばらくしてぼくは、不思議なことに気付いたのだった。
 いわゆる〈息〉は「吸って、吐く」ということなのだが、そのことを〈吐吸〉とはいわない。広辞苑は〈呼吸〉について、「生物が外界から酸素を取り入れ、二酸化炭素を外界に放出する現象」と説明する。この「取り入れ(吸気)」「放出する(呼気)」現象は確かにそうなのだが、この二つの現象は等しく並び立つものではない。
 「吸う」、すなわち「取り入れる」行為はほぼ無意識に行われるが、「吐く」、すなわち「放出する」行為は時に、意識的なものだ。失望したり、心配したり、あるいは感心したりしたときにつく〈ため息〉などは多分に意識的だ。
 この意識的な「吐く」という行為をなぜ、〈呼〉というのだろう。
 〈呼〉は〈乎〉に依ると考えられ、白川静『字通』はこれを象形として、「板上に遊舌をつけた鳴子板の形」と説明する。「もと神事に用いた」という。つまり、神に振り向いてほしいときの所作ということであろう。〈呼〉が単に「放出する」といった意味ではなく、なにものかに働きかけようとする意であることがわかるが、ではどうして、「吸って、吐く」という無意識に行われていると思える行為の一方がそのような結構重い意味を持っているのか。
 ぼくたちは無意識に吸い込み、意識的に吐き出している。であるとすると、〈死ぬ〉ということは、吸い込むことはできても吐き出すことができない状態ということではないか。


 シャボン玉が好きで、夏休みの夕暮れ時に、縁側に腰掛けて、何度も何度もぼくは、ストローを口にした。半ズボンをはいたぼくのたよりなく細い脚を、うまくとばなかったシャボン玉のはじけた石鹸水が濡らした。
 今度こそ、今度こそきれいにとぼくは、心を込めて、静かに、優しく、石鹸水に息を吹き込むのだった。
 そういえば、小沢昭一が晩年、「シャボン玉とんだ、屋根までとんだ、……」と口ずさむとき、彼はいつも涙を浮かべていた。
 ぼくたちには、西日を浴びながら、優しい心を、丁寧に、何度も何度も吹き込もうとした少年のころの風景があり、だからこそ、大人になった今、その風景に何度も叱られ続けている。


 なにものかに、何らかのことを働きかけようとするには、エネルギーが要る。力が必要だ。
 はたらきかけようとするものに振り向いてほしいから、そのものに高く、高くとんでほしいから、そのものに幸せというものを感じてほしいから、そのものを優しさで包み込んでしまいたいから、自分の息で満たしたいから、と少しばかりわがままで、しかし間違いなく一心に、体の中にあるものを注ぎ込もうとする。
 そのためには、力が要る。
 腕力や、経済力や、名誉や、そういったものではなく、シャボン玉を膨らませようとする少年の、あの真剣な、たまらなく優しい、そういった力が必要なのだ。


 けれども、シャボン玉は必ずはじけて、消えてしまう。どんなに丁寧に、心を込めてうみ出したものも、必ずこわれてしまう。「うまれてすぐに、こわれて消えた、……」というものだってあるのだ。
 少年の日、庭の植物をくり返しスケッチしたぼくは、シャボン玉もまた、飽きずにとばした。こわれても、こわれてもぼくは、何度もストローを口にくわえた。
 おそらく、そうなのだと思う。
 ぼくたちは吸い込むことで生きているのではないのだ。生きるということは、なにものかに働きかけようとして、自分の体内の大切なものを、注ぎ込もうとすることなのだ。
 一心にくり返し、注ぎ込まなければならない。しかも丁寧に、優しく、心を込めて吹き込むのだ。さもないと、それはすぐにこわれてしまう。


 相変わらず、ため息をついている。何かを考えているわけでもないのにため息をつくことだってある。どうしようもないほど、未熟である。なあに、生きている証拠だよ、と独り言ちてみる。しかしながら、吐く息について少し責任を持たなければならないなあ、とも思う。
 シャボン玉はうまくとんだものもしばらくするとこわれてしまうが、くり返し生み出し、とばそうとする少年の心はいつまでたってもこわれたりはしない。

No.161 劣化する言語と教育 夢の途中(48)

 東京都議会における女性蔑視とも人格否定ともいえる議員の野次が日本国内外で問題となっている。ぼくの住む英国のメディアでも取り上げられた。
 震災の復興に関する品格を疑うような発言も大臣の口から漏れた。最後はカネで解決できるという、被災した人たちに対する思いの感じられない奢った本音を垣間見させるものであった。
 このような発言を拾おうとすれば苦もなくいくつも取り上げることができるであろう。それほど、ことばは今、劣化している。
 特に政治家の言動についてはその知性のなさに唖然とするほどであり、汚臭さえ感じるのだ。
 東京都の議員の野次を大きく取り上げるならば、政治家のブログやツイッターの書き込みもまた読むといい。そこで繰り広げられているすさまじい誹謗中傷、罵詈雑言の数々は、中高校生がいじめに用いることば遣いや発想と寸部も違(たが)わない。
 そういった政治家や役人たちが教育行政を担い、いじめ問題や教育改革について方向性や方法を決めていく。

*


 ほんとうにどうなっていくのだろうと思う。
 ことばやその表現方法について極めて問題がある大阪市の市長がまた、新たな方策を打ち出した。
 校内暴力などの問題行動を起こす小中学校の児童・生徒を学校に登校させず、専用の施設で個別に教育していくというのである。いわゆる隔離教育である。
 確かに、校内暴力や非行、著しい授業妨害等、教育現場の苦悩は他の社会の者には想像できないほど厳しい。真面目に学ぼうとする生徒たちにとって、理不尽な苦痛に耐える毎日は決して健全な知性を生み出す場とはならない。教師もまた、自らの心をさえ破壊されかねない日常は、教育に志した崇高な思いを粉々に打ち砕かれていく。
 しかしこれは、武器を持って制圧しようとする戦争の論理ではないか。正義のためなら人殺しも認められるといった論理ではないか。教育は、学校というところはそういった論理が跋扈してもよいのか。
 「真面目にやろうとしている生徒がバカをみてはならない」というこの市長のことばは、あるいは支持を集めるのかもしれない。それがぼくにはとても怖ろしいことに思えるのだ。みんなで「そうだ、そうだ」と問題児といわれる子どもたちを締め出そうというエネルギーが向かう先に、確かな社会を構築しようとする優しさはあるのだろうか。
 ぼくは問題児といわれる子どもたちと数多く向き合ってきた。明らかに法を犯している子どもたちもいた。それはこの英国社会でも同じだ。グループで大人を殴りつけている見知らぬ若者たちを大声で怒鳴りつけ、パトカーがやってきたりもした。そういったとき、大人たちは若者たちをすぐ隔離しようとするのだ。「あいつらは放っておけばいいんだよ。下手に関わると大怪我をするかもしれないし、間違えば命だって狙われるよ」と忠告するのはポリスであり、教育委員会の役人であり、常識ある大人たちである。彼らはいつもそういった子どもたちを隔離し、見捨てようとする。
 この大阪市の隔離教育がどのような教育効果を生むというのだろうか。問題児がいなくなった教室では、いい中学や高校、いい大学に進学して、自分の幸せだけを考えようとする者たちの利己的な大人のまなざしが育成されていく。
 正月返上で塾の特訓講習会に参加した小学生がテレビのレポーターの質問に応えて、「将来偉くなって、今遊んでいるやつらをこき使ってやる」と言い、その姿をニヤニヤしながらうれしそうに見守る母親の姿が思い出される。この親子は明らかに問題児ではないか。
 隔離された子どもたちはどうだろう。もし自分がそういった特別な施設に閉じ込められたらどうだろう。〈明日〉を思うことができるだろうか。〈未来〉を見つめようとするだろうか。そこにあるのは大人たちによって烙印された〈絶望〉ではないか。
 どうして問題児といわれるようになったのだろうか。そしてまた、その問題児たちはなぜ、そう見られながらも、邪魔者扱いされながらも、級友たちのいる学校に来るのか。大人は、社会はもっと、自らを責めるべきではないか。産まれた時から問題児だったという子どもは一人としていまい。間違いなく、ぼくたち大人が問題児といわれる子どもたちを生み出しているのだ。その責任の取り方は隔離することではないだろう。
 一クラスの児童・生徒の数を半減させ、教員の数を倍増させ、一人ひとりと向き合うきめ細かい教育を幼稚園・保育所、小学校のときから徹底させればいい。親に対する教育も、その環境調査も必要だ。未熟な親をプロの親に教育していく必要がある。それらにかかる費用は社会みんなで負担する。税金は教育と社会保障にもっともっと当てなければならない。
 まずは、メディアの注目を集めるためだけのとんでもないことば遣いや教育破壊をしようとする政治家たちを一掃しなければならない。教育は、彼らの政治的野心のための玩具ではないのだ。
 メディアや御用学者たちも大いに反省すべきだと思う。教育学者と自認する者たちは今こそ立ち上がり、市庁舎前でデモでもしてみたらどうだろう。少し、自らの筋肉も使ってみるのだ。

*


 道徳の教科化やこのような隔離教育ではいつまでたっても幸せな社会は生まれない。病む者たちが突きつける悲痛な叫びと正面から向き合う豊かさこそが求められている、そう思うのだ。

No.160 朝の風景と 夢の途中(47)


 眠っているのか目覚めているのか分からぬような浅い眠りで朝を迎えたぼくは、熱いシャワーを浴びてもなお、疲労感を覚えていた。庭では、小鳥たちが囀(さえず)る樹々の中をもう、栗鼠たちが飛び回っている。
 バス停でバスを待っていると、あるご婦人がやってきた。今日はついてないな、と思う。 このご婦人とは数日前に同じバスに乗っていた。あるバス停を通り過ぎたところでそのご婦人が運転手のところに行き、「どうしてあのバス停を通過したの。自分はあのバス停で降りたかったのに」と抗議した。確かにその通過したバス停で降ろしてもらえると、電車の駅に行くには都合がいい。けれども本来、そのバスが停車すべきバス停ではない。
 「このバスはあのバス停には停まらないんです」という運転手に、「でも、停めてくれる運転手だってたくさんいるわ」とご婦人。「そういうことをすると危険なんですよ」と応える運転手に捨て台詞を吐いてあきらめたご婦人は、じっとその様子を見ていたぼくに八つ当たりした、̏ Thanks for your help! ̋
 電車に乗って、Mobile phoneでニュースをチェックしたり、日本事務局へメールを送ったりする。ぼくはかつて、つい最近まで、このMobile phoneのようなツールが嫌いだった。なんだか軽薄で、大切な時間を浪費しているような気がしていたのだ。いや、〈今〉というものに迎合しているような後ろめたさを感じていたのだ。けれども今や、ついつい、急ぐ必要もない情報を確認していたりする自分にはっとすることが増えてきた。
 電車を乗り換えるとぼくは、鞄の中から小さな単行本を取り出した。ずっと前に日本に出張したとき買っておいたのだが、その後この作品はずいぶんと有名になり、だから何となく読まずに放って置いたのだった。今朝はMobile phoneの風景を変えようと思い、手近にあったこの本を鞄に投げ入れたのだ。
 三浦しをんの『舟を編む』。
 最初の50頁は瞬く間に読んだ。ああ、いい小説だな、と本を閉じて思う。ちょうどいい、今回はこれにしよう。
 日本に向かう飛行機の中で読もうと思うのだ。最近は重松清の本ばかり機内では読んでいたが、今回はこれを読むことにする。短い作品だし、軽妙な文章だから、機内で読むにはちょうどいい。それまでは読まずにとっておこう。そうしないと一晩で読んでしまいそうで、そうなると機内でいろいろなことを考え込んでしまったりするかもしれないし、この間のように日本に到着するまでずっとコンピュータ相手に仕事をしてしまうかもしれない。
 それにしても、この小説の主人公はたまらなくいい。馬締光也、「まじめみつや」と読む。つまり、真面目なのだ。ある出版社の辞書編集部に勤務する青年である。
 朴訥な青年が辞書編集という極めて地味な作業に打ち込んでいく。周りに現れる者たちがそれぞれきちんと役割を演じていて、いわば漫画サザエさんの世界のような健全さである。
 本を閉じたぼくは電車の乗客たちを、相手に気持ち悪く思われない程度に観察する。早朝の電車である。眠り足りなかったのか、大きな口を開けて眠り込んでいる人、Guardianを読む人、Financial Timesを読む人、ファイルを開いてボールペンで何かを書き込んでいる人、ヘッドフォンをつけて音楽を聴いている人、Mobile phoneとにらめっこしている人。みんな、それぞれの表情で一日の始まりを迎えている。
 窓から外を眺める。あ、あんなところに猫がいる。怖ろしく高いところの建設用のクレーン機が動いている。誰かがもう働いているのだ。
 あ、ぼくの心を押しつぶしそうだった朝の重さは、いつの間にか消え失せている。


 日本から電話がかかる。ハリウッド映画でデビューし、今、日本に帰国中のMからである。近々、東京の舞台で芝居をするので観てほしいという。芝居の初日が、ぼくの今回の日本出張の日本到着のあくる日の夜だという。
 「どうだ、日本の芝居は?」
 「今のところ、うまくいっています、まだ稽古の段階ですから。ただ、本番が近づいてきたので、みんな少しいらだってきてはいますが」
 「当たり前だよな、いいものをつくろうとしたらぶつかりあって、苦しんで苦しんで、いっぱい背伸びしてやらないとな」
 「はい」
 若く弾む彼の声を聞いていると、若いということはやはりいいなあと素直に思う。前を向いているのだ、今、Mは。前だけを、前だけを見据えて、明日を信じて。
では、ぼくはどうだ。
 もう全速力で走ることはできない。息苦しくなり、転んでしまうかもしれない。
 けれども、前を見つめていたい。すぐ前の景色ではなく、ずっと向こうの、はるかかなたにあるに違いないものを見つめようと目を凝らしたい。
 後ろを振り向いてため息をつき、今までのものを守ることにのみ心も筋肉も使うのではなく、明日のほうに向かって前のめりになり、みっともなくとも走ろうとしたい。
 ぼくは〈せんせい〉であり、先生は明日を信じる人間でなければならないのだから。

No.159 桜 夢の途中(46)

眠っているのか目覚めているのか分からぬような浅い眠りで朝を迎えたぼくは、熱いシャワーを浴びてもなお、疲労感を覚えていた。庭では、小鳥たちが囀(さえず)る樹々の中をもう、栗鼠たちが飛び回っている。
バス停でバスを待っていると、あるご婦人がやってきた。今日はついてないな、と思う。このご婦人とは数日前に同じバスに乗っていた。あるバス停を通り過ぎたところでそのご婦人が運転手のところに行き、「どうしてあのバス停を通過したの。自分はあのバス停で降りたかったのに」と抗議した。確かにその通過したバス停で降ろしてもらえると、電車の駅に行くには都合がいい。けれども本来、そのバスが停車すべきバス停ではない。「このバスはあのバス停には停まらないんです」という運転手に、「でも、停めてくれる運転手だってたくさんいるわ」とご婦人。「そういうことをすると危険なんですよ」と応える運転手に捨て台詞を吐いてあきらめたご婦人は、じっとその様子を見ていたぼくに八つ当たりした、 "Thanks for your help! "
電車に乗って、Mobile phoneでニュースをチェックしたり、日本事務局へメールを送ったりする。ぼくはかつて、つい最近まで、このMobile phoneのようなツールが嫌いだった。なんだか軽薄で、大切な時間を浪費しているような気がしていたのだ。いや、〈今〉というものに迎合しているような後ろめたさを感じていたのだ。けれども今や、ついつい、急ぐ必要もない情報を確認していたりする自分にはっとすることが増えてきた。
電車を乗り換えるとぼくは、鞄の中から小さな単行本を取り出した。ずっと前に日本に出張したとき買っておいたのだが、その後この作品はずいぶんと有名になり、だから何となく読まずに放って置いたのだった。今朝はMobile phoneの風景を変えようと思い、手近にあったこの本を鞄に投げ入れたのだ。
三浦しをんの『舟を編む』。
最初の50頁は瞬く間に読んだ。ああ、いい小説だな、と本を閉じて思う。ちょうどいい、今回はこれにしよう。
日本に向かう飛行機の中で読もうと思うのだ。最近は重松清の本ばかり機内では読んでいたが、今回はこれを読むことにする。短い作品だし、軽妙な文章だから、機内で読むにはちょうどいい。それまでは読まずにとっておこう。そうしないと一晩で読んでしまいそうで、そうなると機内でいろいろなことを考え込んでしまったりするかもしれないし、この間のように日本に到着するまでずっとコンピュータ相手に仕事をしてしまうかもしれない。
それにしても、この小説の主人公はたまらなくいい。馬締光也、「まじめみつや」と読む。つまり、真面目なのだ。ある出版社の辞書編集部に勤務する青年である。
朴訥な青年が辞書編集という極めて地味な作業に打ち込んでいく。周りに現れる者たちがそれぞれきちんと役割を演じていて、いわば漫画サザエさんの世界のような健全さである。
本を閉じたぼくは電車の乗客たちを、相手に気持ち悪く思われない程度に観察する。早朝の電車である。眠り足りなかったのか、大きな口を開けて眠り込んでいる人、Guardianを読む人、Financial Timesを読む人、ファイルを開いてボールペンで何かを書き込んでいる人、ヘッドフォンをつけて音楽を聴いている人、Mobile phoneとにらめっこしている人。みんな、それぞれの表情で一日の始まりを迎えている。
窓から外を眺める。あ、あんなところに猫がいる。怖ろしく高いところの建設用のクレーン機が動いている。誰かがもう働いているのだ。
あ、ぼくの心を押しつぶしそうだった朝の重さは、いつの間にか消え失せている。


日本から電話がかかる。ハリウッド映画でデビューし、今、日本に帰国中のMからである。近々、東京の舞台で芝居をするので観てほしいという。芝居の初日が、ぼくの今回の日本出張の日本到着のあくる日の夜だという。
「どうだ、日本の芝居は?」
「今のところ、うまくいっています、まだ稽古の段階ですから。ただ、本番が近づいてきたので、みんな少しいらだってきてはいますが」
「当たり前だよな、いいものをつくろうとしたらぶつかりあって、苦しんで苦しんで、いっぱい背伸びしてやらないとな」
「はい」
若く弾む彼の声を聞いていると、若いということはやはりいいなあと素直に思う。前を向いているのだ、今、Mは。前だけを、前だけを見据えて、明日を信じて。
では、ぼくはどうだ。
もう全速力で走ることはできない。息苦しくなり、転んでしまうかもしれない。
けれども、前を見つめていたい。すぐ前の景色ではなく、ずっと向こうの、はるかかなたにあるに違いないものを見つめようと目を凝らしたい。
後ろを振り向いてため息をつき、今までのものを守ることにのみ心も筋肉も使うのではなく、明日のほうに向かって前のめりになり、みっともなくとも走ろうとしたい。
ぼくは〈せんせい〉であり、先生は明日を信じる人間でなければならないのだから。

No.158 砂時計 夢の途中(45)

 英国の大学で英語・英文学を教えている長男の、6歳になる息子が飛んだり跳ねたりしながら抱き付いてきた。「ジージ、スペシャルだよ、すごいんだよ、ヴェリー、スペシャルなんだよ」飛び跳ねながら、彼は繰り返し叫んだ。彼がぼくにくれるクリスマス・プレゼントがすごいんだ、というのである。
 彼の母親の、つまり長男のパートナーの祖国スイスの習慣ではプレゼントはクリスマス・イヴに開けるのだというので、彼が幾重にも幾重にも包装してくれたプレゼントを開ける。その包装の丁寧さだけで、ぼくの目頭が緩む。
 それは小さな砂時計だった。彼の通うロンドン・ハムステッドのプレップ・スクール(小学校)で催されたチャリティー・バザーの会場で砂時計を見つけた時、ジージにはこれをプレゼントするのだと目を輝かせて決め、自分の小遣いをはたいてそれを買ったのだという。その日から、早くクリスマスの日が来ないかと騒いでいたのだと長男がうれしそうに話してくれた。
 砂はきっかり3分で下に落ちた。ぼくは繰り返し、砂を落とした。落ちていく砂を見つめながら、時の重さを感じた。


 師走に入ってから体調を崩していたぼくは、クリスマス・イヴの日から新年を迎えてもしばらくは、起きているのが苦しく、ベッドに横になっては起き、起きてはすぐ横になるといった体たらくだった。一年の疲れが出たのだろう。
 ベッドに横になり、ベッドサイドのテーブルに砂時計を置く。横になったまま、砂が落ちていくのをじっと見つめる。
 時がはっきりとした形で過ぎてゆく。


 2013年が逝った。時は、産まれたかと思えば、瞬時に死ぬ。同じ時も季節も再び巡り来ることは決してない。
 2014年は、研究所が産まれて満25年を迎える記念すべき年である。ついこの前20周年を祝ったかと思えば、といった感慨を覚える。
 教え子の母親から届いた新年のあいさつの長い手紙文に、「先生、一年がどんどん早く過ぎるようになりますよ」と書いてあったが、本当にそう感じる。
 ただ、早く過ぎ去る一年が、軽やかに過ぎていくわけではない。ぼくはこの一年も毎日、さまざまなことを考えた。一日たりとも、何も考えずになめらかに、あるいは軽やかに過ごした日はなかっただろう。


 ぼくは時に、日本という国が教育改革の名のもとに向かおうとしている方向に怒った。
 道徳の教科化、教科書のタブレット化、教科書検定の強化、教育委員会制度の改定、英語教育の取り扱い、グローバル人材育成プロジェクトの目的や方法、大学入学試験改革のあり方、等々、多くの危惧を感じた。日本の教育学者たちは今、何をしているのだろうといらだちさえ覚えた。何とかミクスなる流れの中で、彼らもまた、自らの生活を守ることに終始し、ふやけた思考への後ろめたささえも持たぬまま学者然として生きているのだろう。
 ぼくは時に、メディアの狡猾さと退廃に嘔吐した。
現代社会における最大の権力者はメディアといって間違いない。ゆえに、権力者たる政治家たちはメディアを牛耳ろうとし、あるいはメディアにすり寄ろうともする。しかしながらそのことによってむしろ、世界中のメディアは堕落し、あるいは自滅しようとしている。ジャーナリズムなど、とっくに消えてしまっているのかもしれない。メディアは単に、商品たる情報を売っているのだ。
 英国の政治・文化誌に編集者として勤め、自らも様々な執筆をしている次男は、メディアの将来に少なからず不安を感じている。英国のトップのオピニオン誌であり、リベラルの代表的存在である彼の出版社においても、さまざまな政治的、価値観上の葛藤があるようである。
 日本のメディアはどうだろう。数多くの人たちとその点について語り合った。海外生活を送る人や国際的な仕事に従事する人たちであるが、日本の新聞や雑誌、テレビ等の特殊性については誰もが口をそろえる。鎖国状態であると。
 日本はいつの間にか、鎖国状態に入っている。何を馬鹿なと言われるかもしれないが、少なくとも国民の意識は間違いなく、日本と外国といった区切り目をより大きく太い線で括(くく)ってしまったようだ。
 日本国内に流れるニュース等の報道のほとんどは国内ニュースであり、わずかに流れる国際ニュースといえば、日本と中国、日本と韓国、といった対日本の国際ニュースにほぼ限定される。
 グローバルな人材を育成しようというが、グローバルな人材とはどのような者のことをいうのかについては語られない。せいぜい英語が話せる人間のことだという回答しか得られない。
 おそらく、日本という国は今、もっとも大きな危機を迎えている。残念なことに、大人たちがそのことに気づいていない。気づこうとしていない。子どもたちの未来について考えようとする知性が足りないからだ。日本に戻った際にテレビ等で流れる番組のほとんどは、中学生や高校生向けの、いわば国民のレベルを馬鹿にしたようなものばかりではないか。


砂時計の砂が刻む時は、今の時の移ろいであるが、下に落ちてたまった砂は過去であり、上にまだ残っている砂は未来である。 

No.157 「よい子」は、よい子か。 夢の途中(44)


 政権が代わり、教育改革がかなりのスピードで進もうとしている。子どもたちの未来を見据えたものというよりは、日本という国の将来を優先させた改革といった印象が強い。

*


 「道徳」が教科となる。今までと何が違うかといえば、国語や算数と同じように評価がなされるということだ。
 つまり、「道徳のできる子」と、「できない子」が生まれるのだ。「道徳」でいい評価を得るには、「よい子の作文」が書けなければならない。「よい子の意見」を発表することも大切だ。
 「みんな仲良く、喧嘩なんかしてはいけない」とか、「どの国とも仲良くし、戦争などはこの世からなくしていかなければならない」とか、「国を愛し、国のためには個人的なわがままなど言ってはならない」とか、言えて、書ける子どもにならなければならない。
 「喧嘩をしてはいけないと教えられ、戦争をしてはいけないと学んだぼくたちの国に、どうして戦争をしたり、人を殺すことのできる兵器といったものがあるのだろう」とか、「一体何という会社が人を殺す兵器を作って儲けているのだろう」とか、「人を傷つけることば遣いをしてはいけないと教えられたのに、市長さんのツイッターに登場する汚いことばはどうして許されるのだろう」とか、「大変な額の収入を得ている人がいるかと思えば、朝から晩まで必死に働いても貧しさに苦しむ人たちがいるのはどうしてだろう」とか、「戦争をしている時は女の人の人格を奪っても許されるんだと言うような政治家がどうして許されるのだろう」とか、そういったことを書くと減点されてしまうのだろう。
 「いじめなんか絶対にしてはいけない」と書く優等生が先生の目の届かないところで陰湿ないじめをしていたとしても「道徳」の成績は一番であったり、優等生ではないおっちょこちょいが「ぼくはつい万引きをしてしまった」などと正直に書くと、これはもう大変なことになってしまうだろう。
 表面をよい子として取り繕うことはそんなに難しいことではない、ということは、大人である先生や親たちがよく知っていることだ。先生や親たちこそが、そうやって世の中をうまい具合に泳いでいるではないか。教科化を提言した偉い学者たちや政治家たちが自分の姿を鏡に映してみればわかるはずだ。
 そこには何とも気持ちの悪い屈折が生じる。そういうふうに育った子どもたちが、青年や大人になって何をしようとするのか。そう思うとぼくは、まさに慄然とするのだ。
 本当に、そういう世の中を作ってもよいのか!

*


 紙の教科書の代わりに、タブレット型コンピュータを子どもたちに配付するそうだ。ぼくもタブレットを使っているが、従来の教科書より優れているなどとは全く思わない。
 従来の教科者には紙とインクのにおいがある。新学期になり、新しい教科書を手にした時の、あの気持ちの引き締まる清新な思いがなくなっていくのだろうか。
 タブレットにすることで、映像や音声等を鮮やかに味わうことができ、検索によって知識を広げることができるというのだが、そういったものは、担当する先生が示してやればよい。みんな前を向かせて、先生が映像を映したり、音声を聞かせたりしてやればいい。調べ物は、図書館に行って調べるようにすればよい。その図書館にコンピュータを設置しておくのはいいだろう。
 教室で手元ばかりを見ながら学習する子どもたちにとって、先生とはいったいどのような存在になってしまうのだろう。顔と顔を見合せながら、相手の表情などから、ああ疲れているなぁとか、おッ、こんなことに興味を持っているのか、などと感じあってこそ、教室ではないか。そしてまた、最も豊かな学びの姿ではないか。
 こういったことを発想する教育行政を担当する者たちの貧弱な教育観を、どうして世の教育学者たちは問題としないのか。
学校は、教室は、教育は死ぬことになる。

*


 5、6年生に必修として導入された「英語活動」が「教科」になる。そして、3、4年生に「活動」としての英語の学習が必修として位置づけられる。
 早期外国語教育については、何度もこのコラムで書いてきた。
 「教科」化されること自体には反対ではない。中途半端な英語教育の導入は教育現場に混乱をもたらし、子どもたちに困惑をもたらした。「教科」化されることで、本格的に取り組むのはいいことだろう。
 だが、どのような形が「本格的な取り組み」といえるのか。5、6年生の「教科」化が報じられた時、「中学英語の前倒し」という言葉が新聞に躍った。
 最初からそのつもりだったのである。早くから詰め込むことによって、英語のできる子を作ろうというわけだ。
 理系を強くしなければならないからと、近い将来、中学の数学も今の小学校に「前倒し」されることになるだろう。6・3・3制から4・4・4制にしようという提言は、つまりはそういうことだ。
 奇妙な言葉だが、「エリート」を養成して、国の力を強くしていこうというのである。

*


 教科書検定もより厳しくなりそうだ。教育改革が、確かに子どもたちの未来を豊かに、幸せにするというのならいい。しかし、絶対安全と言ってきた原子力発電に裏切られたように、ぼくたちは大変な暗闇へと今、走り始めているのではないだろうか。

No. 156 少年の憂鬱 夢の途中(43)


  新学期が始まり、新しい教室と新しい級友と、そして新しい担任の先生が発表された。そしてさらに、新しい校長先生もそれに加わった。校長先生は今までとても有名な会社で働いていたらしい。たくさんの外国にも行って、国際ビジネスのサイセンタン(最先端)で活躍した人で、久美子ちゃんや弘ちゃんのお母さんたちは校長先生のことを<エリート>と呼んでいる。校長先生は今までの校長先生に比べると随分、若い。お母さんたちは<カッコイイ>という言葉さえ遣って、校長先生にキタイ(期待)しているらしい。
  ぼくは真新しい教科書のインクの匂いを嗅ぎながら、また新しい一年が始まるんだなあと、自分の今年の目標をこっそり日記に書いた。
  「たくさん勉強して、立派な人間になろう。国語や算数などの成績のことだけでなく、人のことを思いやることのできる、優しい人間になろう」
  「人のことを思いやることのできる、優しい人間」というのは、二日前に学校の図書館で借りた『良い子になるための本』に書いてあった言葉だ。この本を借りる時も、どうしてかわからないけれどぼくは、胸がドキドキして、頬が赤くなっているのが感じられ、恥ずかしかった。だからぼくは、日記にはこっそり書いた。1、2年生の頃は恥ずかしいとは思わなかったけれど、3年生になったぼくはなぜか、こういった目標を持つことやこういった本を借りることはこっそり、他の人に見つからないようにしなければならないような気がしている。
  もちろん、本当に優しいお母さんも大きな大きなお父さんも、お兄さんもお姉さんも家族のみんなは、「そうだよ。えらいね」と褒めてくれるに違いない。
  けれども、他の人たちは、特にクラスの友だちからは何となく、馬鹿にされるというか、笑われそうで、だからこっそり、ぼくはぼくの目標を隠した。
  4月、ぼくは新学期が好きだ。お正月にも似た、新しい空気が好きだ。ぼくだけでなくきっと、たかお君も美鈴ちゃんもみんな、「よーし、今年はがんばるぞ」って思っているに違いない。

*


  6月になって、もう暑くなった。今年の夏も暑いんだろうなあって、大人のような口ぶりでぼくたちは小さなため息をついてみせた。
  そのころ先生たちはあちこちで、大きなため息をついていた。
  ある日、ぼくたちは全員、体育館に集められた。全校集会だ。先生たちはなんだか、とても怖い顔をしている。校長先生が話し始めた。いつものように<カッコイイ>。
  「先生のコジンテキナジジョウ(個人的な事情)で、みんなと『さよなら』しないといけなくなりました」。
<コジンテキナジジョウ>って、なんだ? 隣の久美子ちゃんの顔を見たら、久美子ちゃんもこちらを見て、首を傾げていた。
  上級生の中には泣いている人もいる。でも校長先生は、時々笑ったりしているじゃないか。
  全校集会の後ぼくは、無精ひげの目立つ担任の中村先生に訊いた。「コジンテキナジジョウ、ってどういう意味ですか。校長先生、何を言おうとされたんですか。さよならする、って、校長先生、辞めちゃうんですか」
  中村先生は「先生にもよくわからないんだ」と一言言って、怒ったような顔をした。
  中村先生にもよくわからないことがぼくたち3年生に判るはずないよ、とぼくは心の中で思った。
  しばらくして、お母さんたちの集まりがあった。学校から帰ってきたお母さんは、「校長先生お辞めになるそうね。でも、心配しなくてもいいの。新しい校長先生がすぐいらっしゃるわ。中村先生はいい先生だしね」
  あくる日ぼくは、クラスのみんなからお母さんたちが随分怒っていたと聞いた。<ミガッテ(身勝手)だ>とPTAの人たちが言っていたそうだ。
  何が<コジンテキジジョウ>で、何が<ミガッテ>なのかがぼくにはよくわからないが、何となく寂しいというか、ぼくの目標が何となく意味がないような気がするというか、〈エリート〉って何だろうって思ったり、<立派な人間>ってどういう人なのだろうと思ったりして、頭が混乱して疲れてきた。
  始まったばかりの新学期は、<新しい>という雰囲気が失せて、上級生のまねをして先生に怒られる者や、少し弱さを感じさせる者へのいじめが流行り始めた。先生に注意されると反抗し、「先生、いつ辞めるの?」って、気持ちの悪い言葉を投げつける者もいるようになった。
  校長先生が言った<コジンテキジジョウ>の意味も新聞に書いてあったり、教えてくれとは言っていないのに、友だちが親に聞いたということが耳に入るようになった。お仕事をしていただくお金が少なかったということや、校長先生がしたいことができなかったということなどが<コジンテキジジョウ>だったようだ。
  でも、校長先生、教えてほしいことがぼくにはあります。
  校長先生はたった3か月しか<学校>にはいませんでした。少しずつでも先生がしたいということができるようにしていくことはできなかったのですか。校長先生が校長先生になってしたいと思ったことは、ぼくたちの未来について役に立つことですよね。3か月で校長先生はあきらめたのですか。あきらめられた学校でぼくたちはこれから、何を学んでいくのですか。

No. 155 酒と 夢の途中(42)

我慢できないほどに乱れているよなあ、と独り言ち(ひとりごち)ながらぼくは、さっきからウヰスキーをロックで飲んでいる。日本の政治家たちの言葉遣いがどうしようもなく下品で、幼稚で、暴力的で、憤っているのだ。与党の国会議員が、画面に映った野党の女性党首に向かって、「ババア、引っ込め」とツイッターで書き込んだという。この議員、即刻、公職から追放すべきだろう。
ウヰスキーはロンドンのGower Streetにあるウヰスキー専門店で買ってきた日本製の「the Malt」(ニッカ)である。わざわざ英国で日本のウヰスキーを飲むなんてと馬鹿にされそうだが、深夜、深い闇の中で時に、「山崎」「余市」や「響」などの日本のウヰスキーを飲みたくなることがあるのだ。
カチカチに固まってしまった脳を強い酒でほぐしていく。いや、脳の働きを停止させ、脳の支配できない自分と語り合いたくなるのだ。何もかも破壊してしまい、ちっぽけな煩わしさを蹴とばして、手足を伸ばし、「およぐひと」(注)になって、漂うのだ。
それにしてもぼくは、今までどれだけの酒(アルコール)を飲んできたことか。(注)萩原朔太郎「月に吠える」所収

5月、日本に出張したある夜、東京のホテルのバーでイタリア人の大学教授と二人で飲んでいた。ぼくがウヰスキーを頼むと彼もそれに倣(なら)った。彼はことごとくぼくの真似をするのだ。
食事の時もビール、日本酒とかなり飲んだぼくたちはしかし、くだらぬジョークでふざけあいながら、もっと飲もうとバーに席を移したのだった。
珍しく混んでいたが、夜が更けていくにつれて、広い空間に客は3組だけになった。ぼくたち以外はカップルが1組と、ご婦人の二人連れである。
そろそろ出ようかと彼に云ったその時、ソファ席に座っていたぼくたちの目の前を一人の男が横切り、バーのカウンターに腰かけた。あ、と声を上げたぼくに教授が訊いた。「知り合いですか」「うん、よく似ているんだけれどね、違うような気もするし、……」
こちらに背を向けて腰かけて一人で飲んでいる彼は、しかしよく似ていた。やややせた感じではあるのだが。
バーの支配人に、彼の名前は、と訊いたが、もちろんぼくとの関係を知らない人間のことを教えてくれるはずはない。「少し近づかれると、向こうが鏡になっていますから、後ろから顔を確かめることができますよ」と教えてくれた支配人にうなずくと、ぼくはその男に近づいて行った。
おいッ、とぼくが声をかけると、あッ、先生ッ、と驚いたまなざしを、あたたかいまなざしをKはぼくに向けた。
Kは日本の皇室の血につながる男で、ゆえに皇太子とはよく似ている。皇太子がオックスフォード大学留学のころ、彼もまた別の大学の大学院に留学していた。その時、突然ぼくに挨拶に来た彼と意気投合し、ぼくたちはロンドンの街をよく飲み歩いた。
彼はすぐに思い出を語り始めた。
ある夜、酔ったぼくは、「ああ、疲れたぞ、もうぼくはここでしばらく横になる」と、ロンドンの路上の真ん中に大の字になった。驚いた彼は、「先生ッ、危ないですよ、轢かれちゃいますよ」とぼくを抱き起こし、ブラック・キャブでぼくの家まで送ってくれた。家に着くと、「もう少し飲むか」ということになり、Kはぼくの洋酒棚にギリシャのメタクサというブランデーを見つけて飲み始めた。ぼくが大切にとっておいたボトルを開封し、うまい、うまいと飲んだ。帰る時はボトルごと持って帰ったのだ。
いやあ、あれはうまかったですねえ、といきなり話し始めた彼は、瞬時にぼくをあの頃に引き戻した。日本語のわからないイタリア人教授はしかしながら、親しい友人との再会を喜ぶぼくをあたたかく見つめていた。

ウルグアイに住む友人Mが、たまたま東京に来ていて、会いたいとメールを送って来た。ぼくの離日の前夜である。パッキングなど帰英の準備が全くできておらず、困ったなと思いながら、けれども大好きな友人であり、ぼくも是非とも会いたかったので、Mにぼくのホテルに来てもらうことにして、近くの居酒屋で飲んだ。
ぼくは彼の顔を見るだけでたまらなくなる。大げさでもなく、涙が出そうになるのだ。Mはぼくにとって兄貴のような存在なのだ。
仕事をリタイアした後、ダイエットに精を出していた彼は、もう止めたのだと、昔に近い太り気味の、まるでやくざのようなやや怖い雰囲気を漂わせていた。25年も前からの付き合いで、よく飲んだ。彼はかつてロンドンに住んでいて、夕方になると電話をかけてきて、「どう?」と訊く。ピカデリー・サーカスのそばのホテルの地下のバーで、毎日のように飲んだ。いつもシーバスの水割りだった。お互い、5杯も6杯も飲んでから、ちょっと何か食べようかと食事に向かう。日本食の居酒屋だったり、焼肉屋だったり、食事にしようかとホテルのバーを出たのに、また別のバーに行ったりもした。ホステスのいるクラブでも、彼女たちを寄せ付けずいつも二人でいるので、二人は特別の関係ではないかと勘ぐられたことさえある。
東京で久しぶりに飲んだ酒はしかし、少しさみしい酒だった。ぼくの健康や仕事など、いろいろと心配してくれるMにぼくは、全力疾走を続ける苛立たしさからか、疲れからなのか、一つ一つ口答えをしたのだ。Mはあからさまに不愉快な顔になった。
前はこうじゃなかったじゃないか、と彼は云った。悔しいよ、悲しいよ、さみしいよ、と。ぼくもまた、無性にさみしかった。

No. 154 静かな時間 夢の途中(41)

 朝、鳥のさえずりで目覚める。さらに耳を澄ませば、栗鼠たちが庭の樹々を伝い、芝の上を走り回る音さえ聞こえてくる。
 夜が深まると、Urban Fox(狐)が足を忍ばせて窓際に忍び寄る気配が感じられる。わざとしまい込まずにつるしたままの、季節外れの南部鉄の風鈴が鳴る。テーブルの上で汗をかくグラスの中の氷がかすかな音を立てて琥珀色したウイスキーに沈む。ぼくが立てるのは本のページをめくる音のみで、いや時折、姿勢を変えるときに軋むソファの、革特有のうめきが混じる。さらにいえば、深い闇の中から聞こえるかゆいような音があるような、ないような。静かな時が流れている。

 マスメディアが伝える関西のある市の首長のことばは極めて刺激的で、ゆえにどうやら大衆の心を惹きつけるようだ。彼ばかりではない。中央政界の政治家たちは競ってテレビのコマーシャルのような短く刺激的な言葉を一般大衆に投げつける。大衆は投げつけられた言葉に酔うのだ。一見それらの言葉には、力があるかのように感じられる。この言葉の下にいるならば自分の平和が守られるような、その上何か新しいものと出会えるような、そういったときめきを覚えるのだ。
 そういえば、かつてそういった言葉の力をうまく操った首相もいた。戦争への抵抗感もややもすると、彼のような者たちの言葉の巧みさに、そう、まるで過去を忘れ去ることに秀でたプレイボーイやプレイガールのようにスマートに薄れていくのかもしれない。

 日本という国の知的だといわれる者たちが今、おかしい。
 神戸大学や同志社大学などの学生たちが、関西のテーマパークで周囲に迷惑をかけるいたずらを繰り返した。とても最高学府の、しかもある程度の知的水準を誇る大学の学生の行為とは思えぬ幼稚さだ。それらが発覚すると、新聞などのメディアの前で、学長たちが並んで頭を下げて謝罪した。教育の徹底を図りたいという。
 むろん、嘘だ。大学生の私的時間の行動をどのように指導、教育しようというのだろう。やる気もなく、その方法も思いつかないが、とにかくここでは謝っておいた方が無難だろうという方便である。
 メディアにしても、これで一件落着と処理して終わる。
 大学生は大人である。多くは選挙権もあるし、お酒だって合法的に飲める。結婚して子どもを作ることだってできる。その大学生が、私的な時間にしでかした不祥事をどうして大学が謝罪しなければならないのだ。大学とはそういった、学生の私的生活についても責任をもった教育機関なのか。
 むしろ大学としては怒ればいいのだ。「卑しくも本学の学生という立場でありながら、このような愚かな行為を行うとは許せない。知的能力が劣ると思われ、本学の学生として認めることはできないので、退学処分に処す」と言えばよい。そのように進言する教授はいないのか。教授会や理事会は何をしているのか。
 いや、待て。日本の大学はもはや、そのようなところではないのかもしれない。
 「学生はお客様ですから」「学生が来ないと、大学はやっていけないので」といった言葉を数多くの教授たちが恥ずかしげもなく言うようになった。ニヤニヤしながら言うところをみると多少は気にしているのかもしれないが。
 なるほど少子化で、大学間で学生の奪い合いが起きている。学生募集のための説明会では保護者のための席も用意され、入学後も保護者会が開かれる。ある母親がそういった会で発言する、「うちの○○ちゃんは気が弱いので、あまりきつい言葉で指導しないでください」と。「承知いたしました。気をつけますので、どうぞご安心ください」と大学が応える。
 「……というような方もいらっしゃいます」と大学の職員が学生のことを「方」と表現する。おかしいんじゃないの、と指摘すると、「保護者の方の中には、だれのお金であなたたちは生活できると思ってるの、と噛みついてくる方もいらっしゃるんです」とのこと。
 ぼくなら言う、「あなたが納めた学費ではあなたの息子の教育にかかるコストは賄えないんだ。国からの助成金があって、何とかやっていける。それは税金というお金で、あなたの息子とは全く関係のない人たちが払ってくれたお金だ。その中には、あなたの息子より年下の、つまり、中卒や高卒の若者が納めた税金も含まれている。勘違いしてもらっては困る。そういった人たちに支えられて、あなたの息子は学ぶ場が与えられているんだ。何のためだと思うか。もっとこの世の中をより良い世界にするためで、つまり、みんなが幸せに暮らしていけるための学習をしてもらいたいからなんだ。あなたの息子の幸せのためだけに、この学びがあると思ったら大間違いだぞ」と。
 このくらいのことは、大学としてははっきり言うべきなのだ。ある時、大学で講演をした際、この話をした。この話の途中から、学生たちは全員顔をあげ、真剣に話を聞き始めた。講演を終えた後、その大学の教授が学生に言った、「私も前々から図師先生がおっしゃったことを言いたかったんだ」と。では、どうして言ってやらなかったのだろう。

 地球温暖化と異常気象、内乱、飢餓、等々、ぼくたちの住む地球は今、はっきりとしたうめき声をあげている。ぼくたち人間が選択した、作りだした現象である。
 静かな、静かな時間の中で、じっくりと考えなければならない。

No. 153 待つ 夢の途中(40)

 そろそろ帰ろうと言って我が家に遊びに来ていたイギリス人の青年が、ポケットから携帯電話を出した。いわゆるスマート・フォンというやつだ。近くのバス停にバスが何時何分に来るかを調べるのだという。それを使えば、たとえバスが遅れていようがバス停でバスを待つ必要がないらしい。
 便利なものだ。雨の降る日や寒い日にバス停でバスを待つのはつらい。この機能を使えばもう、そのつらさから逃れることができる。
 そういえば他にも似たような便利さが身の回りに数多く出現してきている。E-mailを使えば、すぐに通信文を送ることができるし、相手からの返信も何日も待つ必要がない。特に海外に住んでいるぼくたちにとっては実に助かる。ロンドンに昨年現れた日本食(日本料理とか和食という代りに海外ではこういう呼び方をする)のレストランは、テーブル上に映し出されたタッチ式のコンピュータの画面のようなもので注文も会計もできる。退屈したらゲームで遊ぶことだってできる。ウエイトレスの方が来てくれるのを待つ必要がない。Bootsという大手チェーンの薬屋さんも、同じく大手のWHSmithという本や文房具を売るお店も最近、会計は自分でさっさと機械を使って済ませることができるので並ぶ必要がない。いやこういったことはずいぶん昔からあった。今や電子レンジを使えば、手作りの料理よりもうまいものが数分でできてしまう。何十年も前に生まれたあのボンカレーやククレカレーなるインスタント食品もすぐに食べることができる。待つ必要などないのだ。
 けれども、と思う。ぼくたちはかつて、バスを待ちながら何をしていただろうか。同じようにバスを待つ人を眺め、あの人はどんな仕事をしているのだろうとか、たぶん大学生だな、何を専攻しているのかなとか、あの人、今日は険しい顔をしているけれども何かあったのかなとか、可愛い娘だな、洋服のセンスもかなりいいなあ、フランス人かな、とかいろいろ想像したりする。あるいは、周りには目が行かず、じっと仕事の案件について考える。あの人へのプレゼントは何にしようかと楽しい思考に遊ぶことだってある。
 愛する人と待ち合わせをして、わずか数分をとても長い時間に感じながら待つこともあるだろう。愛する人が来るか来ないかわからないのに、何時間も喫茶店(今はカフェというらしい)で待つこともあるだろう。
 かつて食事は、その準備、料理が少しずつ進んでいくのをにおいや音で感じながら待つのが当たり前だった。
 お店では店員さんと会話を交わす。少し面倒でも、それが<買う・売る>ということだった。
 そういったことは余計な時間であり、わずらわしく、無駄な行為であり、余計なことや無駄なことはできる限りなくしてしまうのがいいのではないか、となってきたのだろう。
 待ち合わせの時間より早く行って恋人を待つ人や遅れたことを心から詫びる人。30分以上も待ったのに、ぼくも今来たところだからとあたたかい嘘をつく人。携帯電話があればもう、こういった様々な心の風景は消えたり少なくなったりしていくだろう。無駄な時間はなくなり、余計なことをする必要はなくなっていくのだ。
 でも、と思う。本当にそういった余計なことや無駄をなくしていけば、ぼくたちはもっともっと幸せになれるのだろうか。
 人形浄瑠璃なんて客があんまり入らないんだから価値がない、吉本新喜劇を参考にすべきだなどと発言する関西の元気な市長の言葉、大学に文学部のような社会に役に立ちそうもない学部は必要ない、理系の学部だけでいい、と発言するTV向けの評論家。
 おそらく日本の人口の4分の1に達した65歳以上の高齢者たちはこういった論理では抹殺されていくのだろう。
 このコラムでもかつて書いたが、ぼくたちが歩行に要する道幅はせいぜい150センチだ。けれどももし、その150センチの道幅の両端が断崖絶壁になっていたら、ぼくたちは心安らかに歩行することができるだろうか。足が震えて立ち尽くすのではないか。踏みしめる大地が踏みしめることのない遥かなる大地につながっていて初めて、ぼくたちは歩くことができる。
 機械化が進み、いろいろと便利になっていくことは結構なことだ。しかしその便利さが、自らの機械化を強要し、結局は息苦しい生活を強いることになりはしないか。
 もっと待とうではないか。
 いつやってくるのか分からないバスをいろいろなことを考えながら待つことにしてみないか。
 料理が出来上がるまでのあいだ、包丁がまな板をたたく音や醤油が焦げるにおいを楽しみながら、おなかがグウと音をあげるのをなだめながら、待ってみようではないか。
 いじめられている子どもが、じっと父親の目を見つめ返し、自分のことばで苦しみや切なさをとつとつと話し始める、その時を待ちたい。
 時にいらだちに待つことをやめたくなるとしても、もう少し待ってみよう。待つということはきっと、信じようとすることなのだ。雨が降るまで雨乞いをすれば、必ず雨粒は落ちてくる。
 小賢しい便利さに捨ててしまってはならないものをぼくたちは抱きしめて離さない知性を持ちたい。待たなければ見えないものがあるのだ。感じられないことがあるのだ。

No. 152 静かな呼吸と想像力を 学校の憂鬱 夢の途中(39)

 英国では最近、15歳の少女と30歳の男性の恋の逃避行がテレビのニュースや新聞の紙面をにぎわした。男性は少女の学校の数学教師であり、彼には妻子がいる。
 CCTV(監視カメラ)がいたるところに設置されている英国をはじめとしたヨーロッパでは、建物の中にじっと息を殺して隠れていない限り姿を消すことは難しい。フランスへ向かった二人は、逃げる車の中での表情もカーフェリーの中での様子も、そしてフランスの田舎町を手をつないで歩く姿もすべて、テレビの画面に映し出された。
 二人の写真が大写しでテレビ画面に繰り返し映された。少女の両親が涙の記者会見を行う。少女の家が映され、少女の通っていた学校が映され、少女の同級生がマイクの前で語った。
 しばらくして二人の逃避行は終わった。少女は「保護」され、教師は「逮捕」された。教師は裁判にかけられ、刑が決まる。二人の「これから」もしばらくは報じられることになるのだろう。
 ひどいなあ、と思う。
 確かにこの数学教師は浅はかであり、裁かれなければならない。15歳は現法下では恋の相手とするには若すぎた。妻子への配慮も欠いた。拘置された冷たい部屋で彼は今、何を思うだろう。
 少女はどうだろう。「保護」された彼女は、「はっと我に返る」のだろうか。「被害者」として、あたたかい愛情の数々に囲まれて、「立ち直る」のだろうか。
 それにしても、ひどいなあ、とぼくは思うのだ。
 正義面をしたメディアに対してぼくは、激しい憤りを覚える。この二人は、メディアにとって格好の餌食となった。確かにいかにもゴシップであり、覗き趣味を満たす。彼らはこの事件を商品化して、面白おかしく報道した。「これから」の少女のことなど全く考えようともせず、また、教師が科せられるであろう刑の重さの何十倍もの罰をためらいなくメディアが科した。
 少女と教師の顔写真は事件の早期解決のために必要だったというが、警察が把握していれば教師の写真を公開する必要もなかったのではないか、今回の件は。
 ぼくが憤るのは、メディアが先走って行う裁きについてである。彼らにそういった裁きを行う権限など全くないにもかかわらず、彼らはそれを声高に行う。他人の不幸を、将来の困惑を、商売の材料にして売るのだ。彼らは事件とは直接関係のない様々なニュースも含め流すことによって、今回の事件を商品化する。かつて知人の新聞記者が自ら言っていたが、新聞・ニュースは新聞社という営利企業が販売する商品なのだ。その商品であるニュースを売らんがために、面白さや刺激性といった合成着色料や人工甘味料を用いて加工する。事件や出来事を「おいしそうに売る」ために、彼らは何だってやるのだ。
卑しい、と思う。そこには知性や品位といったものが感じられない。

 しばらく前のことであるが、日本の小学校において、払う力はあるのに給食費を払わない親がいて「けしからん」という報道が盛んになされた。テレビのワイドショーでは大変な時間を割いてこの件を特集し、コメンテーターの評論家たちは怒りの言葉を吐いてみせた。確かにひどい親がいるものだとぼくも思う。
 しかし、である。一つのクラスの中には、払えるのに払わない親の子どもとともに、本当に給食費を払うことのできない子どもだっているのだ。その子どもはいったいどのような思いでその教室にいることになるのだろう。
 ある少年がいる。その少年の親は朝早くから夜晩くまで必死で真面目に働いている。父も母も善良で誠実であり、その少年を心から大切にし、愛している。にもかかわらず貧しく、給食費が払えないのだ。
 そういった少年がどこかの学校のある教室に一人でもいたら、とぼくはそう想像するだけでたまらない気持になる。その一人の少年の心を守るためならぼくは、払えるのに払えない親のことは見逃してもいいとさえ思う。たとえそういった親の子が10人いてもぼくたちは、一人の少年の心を守ろうとしなければならないと思うのだ。

 関西の売れてきたコメディアンの母親が生活保護費をもらっていたこともメディアの袋だたきにあった。法的には問題ないにもかかわらず、メディアという正義がコメディアンを叩きのめした。コメンテーターたちがにやにやしながらサディスティックに攻撃する。政治家の中には自分は大衆の味方だというがごとくコメディアンいじめの先頭に立とうとするいやらしい者まで現れた。もっと問題にしなければならない巨悪が、すました顔をして、世の中の搾取をしているではないか。

 いつからか、大声で叫びちらすヒステリックな社会となった。攻撃や非難が日常化し、内容の軽さを覆い隠すような刺激的な言葉が、政治の世界でも、教育の世界でも、日常生活においてももてはやされる。それとともに、我々の想像力は失われていった。 
ぼくたちはもっと静かに呼吸しなければならない。もっと静かに見つめ、静かに考え、見えるものが触れている見えないものの存在に思いを巡らす想像力という知性を持とうとしなければならない。

No. 151 学校の憂鬱 夢の途中(38)

 早く高校生になりたいと思っていたぼくは、高校生になると、早く大学生になりたいと願った。大学生になったぼくは、漠然と求めていたものが瞬く間に消えていくのを感じ、立ち尽くした。

 小学生の頃は、〈学ぶ〉ということが新鮮だった。先生たちも学校も素晴らしく大きかった。
 城跡に立った校舎は木造で古く、雑巾がけをする床にはところどころ穴も開いていた。廊下はとてつもなく長く、つい走りたくなる。夏の蝉時雨がよく似合っていた。
 男の先生はタバコ臭かった。それが大人の男の人のにおいだと思っていた。つまり、小学生の頃から身体の大きかったぼくでも、先生の懐(ふところ)に何度も抱かれたのだ。理科の実験の時間は先生も目を輝かせていたし、恵まれない国の人たちの話をする先生は本当に悲しそうだった。逆上がりのできない子どもが責められることはなかったし、勉強のできない子が運動会で活躍すると先生は心から褒めた。
 ある女の先生は、確か砂土原先生といったと思うが、右手の指をいつも真っ赤に汚していた。ぼくたちが提出した作文や日記に、赤いインクのペンでたくさんの書き込みをして返してくれた。いつも必死で忙しそうで、家に帰った後もたぶん、睡眠時間を削って働いていたのだろう。ワープロもコンピュータもない頃の話で、ガリ版を使った鉄筆でできた指のペンだこにインクが染みていた。ぼくはその先生の涙を一度だけ見たことがある。ある時ぼくたちは、先生に赤いペンのセットをプレゼントした。その時、先生は嬉しそうな、けれども少しさみしそうな顔をしたのだ。さみしそうに感じたのはぼくだけだったのかもしれない。けれどもぼくはその時、なんだかよくわからない戸惑いを覚えた。ぼくもまた、涙が浮かんだのだった。
 みんなみんな、すごいなあ、と思っていた。先生って、すごいなあと思っていた。 
 だからぼくは、「将来の夢」という課題の作文に、「かきかた鉛筆」で、筆圧強く、「先生になりたい」と書いた。

 中学校でも高校でもぼくは、先生に恵まれた。出会った先生のすべてに、大切にしてもらった。すべての先生が懸命に教育に打ち込んでいた。
 けれどもぼくは次第に、学校の勉強に興味を失っていった。中学校や高校で学ぶ勉強の内容よりも、さまざまな書物を読んで学ぶ内容のほうに深さや広さ、あるいは高さを感じ始めていたのだ。おそらくぼくは同じ世代の者たちより、かなりの本を読んでいたのではないか、その頃。
 おそらく先生たちもまた、多くの矛盾を感じながら、教育という仕事に従事していたのではないか。何となく教えている内容の価値が、たとえば受験のため以外にはないような、そういった諦観が漂っていたように思うのだ。

 小学校における留年制度や高校における飛び級制度が話題になっている。
 ぼくはこういった発想に強い違和感を覚える。
 小学校は中学校のために、中学校の勉強は高校進学のために、高校の教育は大学受験のためにあるのではない。
 小学生でなければ見えないものがある。中学生でなければ感じられないものがある。高校生でなければ持てない価値観がある。それぞれの学齢でしか学べないものがある。それぞれの時にこそ学ぶべきものを教育しなければならないのではないかと思うのだ。
 それはいったいどのようなものだと問われれば、それをこそ先生は、教育学者は、教育行政を担当する者は徹底的に考え、研究しなければならない。そこに初めて、豊かな教育が出現する。子どもたちは、学ぶ豊かさを実感し、明日の可能性を信じるだろう。

 大津市で起きた中学2年生の男子生徒の飛び降り自殺が問題となっている。自殺の練習をさせられていたなどのいじめが原因とみられる。
 もしも、もしもぼくの子どもがこのような理由で死を選ばざるをえないところまで追い込まれたとするなら、ぼくは絶対に学校には行かせない。
 今、中学校で学んでいることは命をかけてまで学ばねばならないことでは絶対にない。
 教育を受けさせる義務があろうが無かろうが、ぼくは学校には行かせない。
 そして、このようないじめ行為を「いじめ」の名で曖昧には済ませない。明らかに犯罪行為であり、それを許した学校には業務上過失致死という罪が課されるべきである。隠ぺいしようとした学校や教育委員会にはもはや、機能不全としか言えない憤りを覚える。
 失った命は戻ってはこない。
 学校は、明日のためにあるのだ。今日の豊かな学習によって、明日をより豊かで幸せな世界に変えるために学ぼうとするところである。
 大人たちは狂ってはいないか。
 いじめを繰り返した子どもたちのみならず、学校の教師たちも教育委員会の委員たちも、そして今の教育システムに安穏とするすべての大人たちは今、裁かれなければならない。