濫觴 | Institute of International Education in London

濫觴(らんしょう)

 この言葉の意味は、「物事の始まり。物事の起こり。起源」といったものである。
 「濫」は「あふれる」、「觴」は「杯(さかずき)」の意。揚子江のような大河でも、その源は杯(觴)にあふれるほどの、つまりはささやかな水であるという意。
 「孔子曰ハク、昔者、江ハ岷山ヨリ出ヅ。ソノ始メテ出ヅルヤ、ソノ源ハ以テ觴ニ濫ルル可シ。」(『荀子・子道』)が出典。

 この NEWSLETTER [濫觴]は、英国国際教育研究所で学ぶ皆さんへのささやかな、けれども真摯なメッセージとなって、教育や学問の世界での新しい宇宙を創造しようとする皆さんの磁場となるように創刊されたものです。
 既成の価値観に踊らされる事なく、一杯の水を、清く澄んだ水を、皆さんとともに、照れることなく、汲み続けていこうと思っています。

(図師照幸)



No. 148 梅の花、咲く。 新年・断章

梅の花、咲く。 新年・断章

 暖冬のロンドンから、氷点下の成田に着く。機内から眺めた富士が白く化粧し、美しい。
 空港に迎えに来た東京のスタッフが寒さに震えている。前日にかなりの雪が降ったらしい。
 新年の雪、いいじゃないか、と少年のように心が弾む。
 ホテルに到着してつけたテレビのニュースが大雪に苦しむ人たちの顔を映す。
 そうか、そうだな、と未熟さを恥じる。震災の被害者への思いやりを欠いていた。

 ホテルの庭を散歩する。凍った小道に足を滑らせそうになる。大気もまた、凍っている。
 あ、梅が咲いている。
 つぼみだが、梅だ。
 ン、いつだったかな、前に見たのは。
 いや、同じ花と二度と出会うことはない。
 利休の云う「一期一会」である。
 〈現在〉という時は、瞬時に〈過去〉となる。とどまることはない。

 新年ということばの響きが好きだ。
 昨年や去年はすでに死に、同じ季節が巡り来ることはない。
 時は常に生まれ、次の瞬間には死んでゆく。
 〈未来〉はあるようで実はなく、あるのは〈過去〉だけである。
 ゆえに〈今〉は、まさに戦慄を覚えさせる儚い時であり、ぼくたちはしかし、あたかも〈今〉を生きているような錯覚の中にいる。

 ぼくは今、〈生きている〉と書いた。
 けれども、〈生きている〉ということばが表すアスペクトは何とも頼りない。
 時の流れの中のいつ、それが始まり、いつ終わるのかがはっきりしないのだから。
 周辺に様々な生が誕生し、あるいは朽ちていったとしても、少なくとも自分のそれは分からない。
 かつてこのコラムでぼくは、「変数xの孤独」という小文を書いた。ぼくたちの〈生〉はあらかじめ設定された関数の変数として放り込まれた、極めて孤独なものであり、ゆえに時の流れという座標軸に抗うことも何らかの傷をつけて痕跡を残すこともできないのだ。

 今年もぼくとぼくの仲間たちは、教育というものの可能性を信じて懸命に、真摯に取り組み、闘おうとするだろう。
 ぼくたちは、〈ヒト〉という哺乳動物が〈人間〉という社会的存在となった時、その社会性を支える豊かさと残酷さとをしっかりと見据える力の必要性を訴えようとする。
 それを仮に〈知性〉と名付けるならば、その知性は静かに澄んで、確かなあたたかさに満ちていなければならない。
 例えば、学校とは何か、と問い続けよう。
 学力低下の元凶とされた「ゆとり教育」の健全な方向性が稚拙な現実主義に押しつぶされたが、百ます計算や学校内における塾教育などの愚かで幼い、教育まがいの手法の跋扈は必ずや近い将来、大きな社会問題を引き起こすだろう。
 学校というところは訓練の場ではない。今の社会や大人にとって都合のいい人間を生産する工場ではない。
 今の社会の持っている病や問題点をしっかりと見つめ、より良い、もっと幸せな社会を作ろうとする力を持った者たちを育むところである。

 日本語教育や英語教育といった外国語教育もまた、もっと豊かで幸せな世界を作ろうとする行為である。
 世界を作る、というのは自分のまなざしを豊かであたたかいものに変えていこうということである。
 外国語としての日本語を学ぶ外国人が、日本語や日本文化の学習を通して発見した日本的なまなざしが、どの国の人にとっても価値ある普遍性をもったものであった時、その学習者の〈生〉を豊かに変えていく。
 この日本語教育、世界中で数多くの日本語教師たちが必死で格闘している。その努力の成果は少しずつだが上がりつつある。
 しかしながら、残念なことに日本国の政府の取り組みは、その独立行政法人の活動も含めて、極めて表面的であり、役人のための、機関のためのそれを越えない。この点はしっかりと知っておく必要がある。昨今の日本という国のあらゆる点における縮む姿は内なる崩壊であり、必然なのだ。
 早期外国語教育としての小学校英語(児童英語)教育も、それ自体は良いことであり、その充実が望まれるが、すでに問題が吹き出ているように、外国語教育の目的の欠如や貧しさ、教員養成に関するその中途半端なシステムはまさに、今の日本という国の問題点のサンプルとして厳しく検証する必要があろう。

 時間の流れを区切り、年を改めて〈新年〉と呼び、もう一度始めようとする先人の知恵は素晴らしい。
 新しい梅の花が、今、咲いたのである。

(2012.01.27)

No. 147 少年の秘密 夢の途中(35)

少年の秘密 夢の途中(35)

 少年が通っていた小学校は石垣に囲まれたお城の跡にあった。
 半世紀も前の話である。
 通学路は、登校時のその道と下校時のそれが同じ道であるとはとても思われないほど、帰りの道は遠かった。けれどもそれは理屈で言えばおかしい。小学校は、つまりお城は高台にあり、登校する際はまさに登っていくのであり、下校時は下るのである。だから、下校するときのほうがずっと楽だったはずなのだ。
 登っていかなければ学校というところはないのだと思い込んでいた少年は、初めて平地にある他の学校を訪れたとき、空気のよどみを感じた。凛としたものが感じられなかったのである。
 下校する少年は疲れていた。何度も何度も途中でランドセルを投げ出しては休憩した。途中にはお寺やお屋敷が続いた。それは休憩というよりも、ところところで座り込み、本を広げたり地面に落書きをしたりの、いわば遊びながらの下校路であった。
 高学年になると、道はいくぶん短くなった。途中、文房具屋や駄菓子屋に立ち寄ることもあったが、どうしたわけかそこにいる厳しい雰囲気のおばあさんたちが苦手で、またそこで売っているもののクウォリティがいかにもいい加減な感じがして、嬉々として屯(たむろ)する同級生ほどには魅力を感じなかった。

 登校する少年の右手に、すなわち下校する少年の左手に、お寺や墓地を通り過ぎた辺りに竹林があるのに少年が気付いたのは、もう少年が6年生になっていたころかもしれない。
 少年はその日も疲れていた。学校では良い子の典型みたいな存在で、いつもリーダーであった少年は、けれどもなんとなく疲れていた。家に帰ればいつもたっぷりと時間をかけて母が作ってくれるおいしい夕食と優しい笑顔とが、そして父の大きな、どんな時でも守ってくれるに違いないたくましい愛情とが少年を包み込む。
 だからその日も、その竹林に差し掛かったとき、立ち止まる必要などまったくなかったに違いない。早く帰り、抱きしめんばかりに少年を迎えてくれる母の顔を見ればよかったはずなのだ。
 けれども少年はそのとき、どうしても立ち止まらなければならないような、<立ち止まりなさい>という声を聞いたのだ。その声は、少年が年老いた今もまだ、時折聞こえてくる。たとえば、駅のプラットホームで電車を待っているとき、反対方向の電車が滑り込んでくると、その電車に乗せようとする強い力を感じてしまうことがある。もしもそのとき、その声に素直に従えば、きっと違った世界に入っていける、そういう思いがするのだった。それはいつか、いつの日か訪れるのかもしれないが。
 竹林の前で立ち止まった少年は、道を外れ、がけをよじ登り、踏みしめる草木が音を立てないように恐る恐る奥へと進んだ。そして周りが全て青い竹で囲まれ、ほかに何も見えなくなったそのとき、少年は慄然と立ち尽くすのだ。
 その震えはどのくらい続いたのだろう。少年は天空を突き刺すように伸びる竹に身構え、怖れ、震えた。
 しばらくして少年は、地面に座り込んでいる自分に気付く。音が聞こえる。虫の羽音のような音が微かに、けれども確かに聞こえる。
 震えは、ない。消えた。
 ゆっくり立ち上がった少年は靴を脱いだ。靴下を脱ぐ。上着を脱ぎ、シャツを脱ぐ。ズボンを脱ぎ、下着を脱ぐ。身につけていた一切のものを静かに脱いだ少年は、その細い体をつま先で支え、両手を頭の上に伸ばし、手の指のすべてに力を入れて伸ばし、目を閉じた。
 少年は竹になり、天を突き刺し、少年の繊毛のような神経を地面に這わせ、深く深く潜っていく。
 そして、少年はもう一度震えるのだ。
 少年の秘密はその後ずっと、今に至るまで封印される。

 中学生になった少年はある日、街の書店でボードレールに出会う。『悪の華』という詩集である。
 またしばらくして少年は、次の詩と出会うことになる。それは少年を激しく貫く。いわば、少年がいまだに抗い続ける生の、つかみようのない、見えない、その一瞬の影との対峙であった。

 光る地面に竹が生え、
 青竹が生え、
 地下には竹の根が生え、
 根がしだいにほそらみ、
 根の先より繊毛が生え、
 かすかにけぶる繊毛が生え、
 かすかにふるえ。

 かたき地面に竹が生え、
 地上にするどく竹が生え、
 まつしぐらに竹が生え、
 凍れる節節りんりんと、
 青空のもとに竹が生え、
 竹、竹、竹が生え。
        ―― 萩原朔太郎「竹」





No. 146 なぜ、学ぶのか。 夢の途中(34)

なぜ、学ぶのか。 夢の途中(34)

 ぼくはずっと〈教えて〉きた。
 ぼくはずっと〈せんせい〉だった。
 ぼくの生きている時間のほとんどは、<教える>ことに、〈せんせい〉と呼ばれることに費やされた。
 それ以外のことはしたことがなく、それ以外の存在であったことはない。
 けれども、数十年も教えながら、ぼくにはわからないことが多すぎる。それはどんどん増えていくのだ。
 〈教える〉ということは何であるのか。それを考え、考え込み、疲れて眠る夢の中でもまた、考えるのだ。
 その答えを見つけようとすることは、ぼくの〈生きる〉ということの意味を探そうという行為に等しい。

 気がつくと、目の前には〈学ぶ〉者がいる。
 いや、この〈学ぶ〉者がいなければぼくは、〈教える〉ことはできない。ぼくに向き合うそれらの者たちがいなければ、ぼくは〈せんせい〉ではない。
 ならば、この者たちの〈学ぶ〉ということについて考えれば、その意味について整理すれば、ぼくの生の意味を定義できるのではないか。

 なぜ、〈学ぶ〉のか。
 研究所のさまざまな教育課程に入学する者たちについて考える。ある者は、日本や英米の大学や大学院を卒業するとすぐに入学してくる。ある者は、さまざまな種類の会社での就業経験を持つ。またある者は、入学する直前まで学校の先生であった。20代の若者もいれば、50代や60代の者もいる。
 学ぶことで彼らは、知識や技術を、あるいはさまざまな思考の座標軸を、新しいまなざしを得ようとする。
 では、それらは彼らにとってどのような意味を持つのだろうか。
 性別や年齢、それまでの社会体験や経験、そういったものに関係なく、人には、今の自分を見つめようとする、そういう時がある日、訪れる。
 その時、つまり今の自分を見つめようとするその時、その時間と向き合うには少しだけ勇気が要る。まっすぐに自分を見つめるためにはそうしようとする意志の力が必要だ。
 しかしながら、いや、だからこそ、人は自分の今をそのまま見つめることを恐れる。怖いのだ。自分が見つめなければならないと思う自分の今は、本来自分が自分に課している、期待する自分の姿とは、少しであったとしてもずれがあるのだ。そのずれと向き合うことは辛く、怖く、逃げたい。だが、いくら恐れて逃げようとしても、その思いから完全に逃げ切ることはできない。追いかけるのが、自分自身であるからだ。
 このような学生生活を送っていてもよいのか。ぼくが友人として付き合っている連中は、本当にぼくにとって大切な友人といえるだろうか。会社の愚痴ばかりを言いながら過ごす私の人生って何なのか。妻として過ごす私の人生は決して恵まれていないわけではないが、毎日夕刻になるとつく溜め息はなんだろう。
 いやいや、そもそもぼくはいつの日からか、何かに打ち込み、努力しようとする人間ではなくなってはいないか。言い訳ばかりをいつもポケットに忍ばせている人間になってしまってはいないか。私が本当におなかの底から笑ったのはいつだっただろうか。ぼくが本物の涙を流したのはいつだっただろう。
 そういった思いは毎日少しずつ、静かに沈殿し、溜まっていく。いつかその溜まったものと向き合わなければと思いながら、巧みにごまかし、逃げ続けてきたのだ。
 けれども、自分を信じようとする自分がそれを許さない。
 私は変わりたいと思うのだ。ぼくはもう逃げたくないと思うのだ。
 そして、学ぼうとする。変わるために学ぼうとするのである。
 それは無意識なものであるかもしれない。けれども、学ぼうという思いは、つまりは、変わろうとすることなのだ。
 そして変わるために学ぼうとすることは、学べば変わることができると信じていることになる。自分は学ぶことで成長できると信じていることになる。
 明日を信じようとしていることになる。
 学ぼうとしたその時、すでに一歩前に足を踏み出しているのである。このことはとても素晴らしいことではないか。
 ゆえに学校は、明日を信じようとする者たちが集うところなのだ。
 このことはあらゆる学校に当てはまるはずだ。小学校の児童も、中学校や高校の生徒たちも、大学などの学生も、すべて明日を信じようとする者たちであり、その者たちが集うところを学校と呼ぶのだ。
 持っていた夢や理想を捨てさせ、現実を教え、現実に適合する人材を生産しようとするところではけっしてない。現実というものがあるとすれば、そしてその現実におかしなところがあれば、それを変えようとする精神を育むところが学校である。すべての人間が平和で幸せに生きていこうと願っている。そのことを確かなものにするために、必要な知性や心を育てていくところである。
 学ぶとは、そういうことだ。そして、教えるとは、その学ぼうとする者たちに寄り添う行為である。

(2011.10.16)

No. 145 少年の憂鬱 夢の途中(33)

少年の憂鬱 夢の途中(33)

 「ナイフ」(重松清)を読んでいたぼくは、気が付くと降りるべき駅を乗り過ごしていた。しかも何駅も過ぎていたのだった。やむなく降りた駅のプラットホームの椅子に腰掛けて、文庫本を握り締めながら、戻る電車を待つ。
 切ない小説である。穏やかで平凡な日常を突如襲う絶望的なゲーム、中学生の息子に対する陰湿な<いじめ>。父親として闘おうと手にした小さなナイフ。貧弱で臆病な父親の、息子を守ろうとする闘いはひどく惨めで見苦しい。しかしそれは、父親自身の<生>との闘いでもあった。
 父と子の同志ともいうべき絆に心が震えるが、とはいえ、この子どもたちの世界の息苦しさは、一体どうしたというのだろうか。

 ぼくには幼稚園の園児のころから小・中・高・大にいたる学生時代に、いじめられたという思い出もいじめたという記憶もまったくない。
 子ども同士のけんかはあった。小学生のころは、どこかでだれかがけんかをしていると、友だちが「図師君、けんかをしてるよ、来てくれない?」と呼びに来た。駆けつけたぼくが「やめろよ」と睨みつけると、けんかは終わった。体が大きくて、威圧感のあったぼくは、一度も殴り合いなどしたことはなかったが、強かった。
 中学生のころはバレーボール部のキャプテンをしており、部員の一人の、まなざしが暗く歪み、乱暴な男を軽く投げ飛ばして諌めたことがある。彼はいわゆる番長だったらしく、見ていた他の部員によってこの話には尾ひれがつくことになる。
 いじめたり、いじめられたりしたことはなかったが、それでもぼくは、早く高校や大学に進級したかった。
 少しでも論理性のある世界に住みたかったのだ。幼稚な者たちの怖ろしいほど稚拙な、論理ともいえない論理に付き合いたくはなかったのだ。
 もっとも、高校にも大学にも似たような幼さが感じられた。しかしながら、それらを無視した自分の生活が、ある程度は保障された。

 けんかは対等なぶつかり合いであるとぼくは思うが、いじめはそうではない。
 集団で無視をしたり、教科書や持ち物を水浸しにしたり、「死ね」というようなことばを差出人のない手紙で繰り返し送りつけたり、さらに今はインターネット上で誹謗中傷、攻撃する。
 そのような行為がゲームとして行なわれているのだという。ゲームとはいえ、いじめに耐え切れず自死を選ぶ子どももいる。
 そして、そのようないじめにあう者だけでなく、いじめをみてみぬ振りをせざるをえない消極的な加害者も、あるいは積極的加害者もみな、消すことのできない傷を負うことになる。
 戦争における悲惨さは、殺されるということだけでなく、人を殺したといった経験や記憶を背負わせることにもある。
 級友を追い込み苦しめた記憶は、追い込んだ者のその後の人生に暗く歪んだ影響を及ぼすであろう。

 しかし、どうもおかしい。
 子どもたちは他の人間を陰湿にいじめたり苦しめたりする存在として生まれてくるのではない。また、親をはじめとした周りの大人たちも、子どものすくすくとした成長と幸せに生きていくことを心から願うのである。
 小学1年生になるとき、子どもも親たちも果てしない未来に胸膨らませている。そこには希望がある。
 けれども、しばらくすると、子どもたちのまなざしも親の言葉遣いも大きく変わっていく。
 周りの者たちに負けない、競争のための学習が始まり、数字で評価することのできるわかりやすい学力だけが大切になり、上を見ることにのみ必死になる。足下を静かに優しく見つめようとする柔らかさは瞬く間に消えていくのだ。
 「一所懸命勉強して立派な大人になるんだよ」と言った大人たちの指す「立派な大人」とは、まずは高所得の職業に就くことのできる人間のことであり、級友たちへの思いやりや優しさよりもその者たちを踏みつけてでも上に行こうとするさもしい強さを持った人間であることにまもなく子どもたちは気付くのだ。
 そういったことを、親も先生も、大人たちみんなで教え込むのだ。
 「悪意と策略と暴力とののしりと虚勢と苛立ちと退屈」(「ナイフ」)に微笑む大人たち、彼らはなぜ、理不尽な、不条理な圧力に佇む子どもたちを抱きしめようとはしないのか。
 そんなにも大人たちの住む世界は淀み、希望や信頼の失われた世界なのか。
 子どもの世界もなかなか残酷だよと言うが、子どもの世界を残酷なものに変えたのは大人たちではないか。
 子どもたちはいつの間にか、大人の残酷さと冷酷さと悪意を学ぶのだ。
 子どもたちの歪んだまなざしは、親よ、あなたのまなざしである。子どもたちの悪意と策略の知性は、教師よ、あなたが教えた知性である。子どもたちの憂鬱は、世の大人たちよ、あなたたちの汚臭のするため息と絶望が産み出したものなのだ。

(2011.08.26)

No. 144 「哀しみ」のコミュニケーション 夢の途中(32)

「哀しみ」のコミュニケーション 夢の途中(32)

 ぼくたちには<うれしい>とか、<かなしい>とか、<たのしい>とかの感情がある。
 たとえば〈うれしい〉は、広辞苑によれば、「はればれと喜ばしい。こころよく楽しい」と説明される。辞書による説明はこの程度が限界なのだろうが、あまりに無味である。
 ではお前はどのように説明するのかと訊かれると、少し考え込んでしまう。
 くたくたに疲れて満員電車に乗り込んだとき、腰掛けていた小学生の少年が恥ずかしそうに席を譲ってくれたときの、そのときの気持ち。
 ずっと前から想い続けていた人に何も言えずにただ時が過ぎ、離ればなれになってしまったひと月後に手紙が届き、私もあなたのことが好きでしたという文字を見つけた、そのときの気持ち。いやこれは<切ない>というべきかな。
 救急車で運ばれ、死を見つめたベッドに、「ぼくはぼくの人生をあなたとシェアしたいのです。だから、ずっと元気でいてほしい」という手紙を息子からもらった、そのときの気持ち。これも、切ないなあ。
 教え子がアフリカでの教師経験の後、たくましくなって、大きくなって、夢を持って、帰ってきたときの、一緒に酒を酌み交わすときの、そのときの気持ち。うん、これはうれしい。教え子の成長に出会うときのうれしさ、喜びは、数え切れないぐらいある。
 <かなしい>はどうだろう。「自分の力ではとても及ばないと感じる切なさをいう語。悲哀にも愛憐にも感情の切ないことをいう。①泣きたくなるほどつらい。心がいたんでたえられない。いたましい。②身にしみていとしい。かわいくてたまらない」(広辞苑)ということだが、①の思いはどんなときに浮かんでくるのだろうか。
 幼いときからの親友が急逝し、いくら時間が経ってもその遺影の前に立つ勇気が出ない、そのときの気持ち。うーん、これは<苦しい>、かな。
 雲海を眺めながら、ぼくは結局一人だなあ、とつぶやくとき、そのときの気持ち。
 既成の権威になびいていく、愛すべき仲間の姿を見た、そのときの気持ち。
 東アフリカの食糧危機で、やせた駱駝(らくだ)とともに歩く幼い子どもの胸の浮いた骨を見る、ただBBCのニュースの画面で見るだけの、そのときの気持ち。Death Noteと書かれたノートに毎日書き込まれて行く夥(おびただ)しい子どもたちの名前、その名前をテレビの画面で見る、そのときの気持ち。
 まだ残っていたはずのウイスキーが、留守にやってきた息子によって飲まれて無くなっていた、そのときの気持ち。
 えッ、もう卒業するのか、もっとここに残っていてくれよと、巣立つ者たちに証書を手渡す、そのときの気持ち。これは、<さびしい>かな。
 なかなかむずかしい。
 こういった心の有様を表すことばは、一人ひとり、それぞれの思いで、それぞれの「心の辞書」に収まっている。
 それぞれの思いで、と書いたが、そのそれぞれは、それぞれがそれぞれ、それまでに経験したことや学んだことによって作られる。一人ひとり自分の感情を持っている。自分のことばを持っているのである。
 だから、ぼくの<哀しみ>は、ぼく以外の人間の<哀しみ>とは違うのだ。彼の<哀しみ>は彼のものであり、彼女の<苦しみ>は彼女のものである。
 ぼくはこのことに慄然とする。
 ならば、ぼくには愛する者の心の揺れやときめきが、わからないということではないのか。
 わからないのだ。
 ぼくたちは自分以外の人間の心を全(まった)きかたちで識ることはできない。
 君の気持ちはよくわかる、などと打つ相槌(あいづち)は、少しわかるような気がするというほどのことで、しかしながらそれは大したことなのである。
 数多くの経験をした者、たくさんの本を読んだ者、勉強をした者、いろいろと思い悩み、考えた者、そういった者の<哀しみ>と、そういった経験や学習の歴史を持たない者の<哀しみ>とではおそらく、量ってみれば重さが違うに違いない。
 一編の詩に動悸を覚え、一枚の絵に射精し、奏でられるヴァイオリンの音に涙を流し、乱暴な男の靴によって踏みつけられた名もない雑草の付けた花に微笑む、そういった人間の<哀しみ>はおそらく、毎日ハンバーガーによって胃袋を満たし、酔う為だけの酒を飲み、ほどほどの友情で時間をつぶし、ほどほどに笑い、叫び、時に泣いてもみせる人間の<哀しみ>とは、もはや別のカテゴリーに収められるほど異なった、そういうことばなのではないか。
 どちらの<哀しみ>が高尚であるとか、下劣であるとかといっているのでは決してない。もともと<哀しみ>には実は、辞書が定義するような、平たい意味はないのだから。
 ただ、ぼくたちは、自分以外の者と繋がろうとするとき、自分の体内に蓄えたものによって、果たして確かに、コミュニケートすることができるだろうかと、一瞬でもよいからたじろいでみなければならない。

(2011.07.07)



No. 143 雨の声 夢の途中(31)

雨の声 夢の途中(31)

 着陸態勢に入っていた飛行機が突然、高度を上げた。俯(うつむ)いていたのを無理やり仰向けにされたように。機長からのアナウンスが流れる、「視界不良のため着陸ができません。しばらく旋回して、もう一度やってみます」
 激しい風雨のため、もしかしたら着陸できずに羽田に戻ることになるかもしれません、という空港でのアナウンスを聞きながらぼくは、羽田から飛んだのだった。どうしても行きたかった。
 幸い2度目の試みが成功して、飛行機は宮崎空港に着陸した。

 ターン・テーブルからスーツケースを取り、振り向くと、義姉と姪が迎えに来てくれていた。兄は車の中で待っているという。ハンドルを握る兄に、仕事を休ませて申し訳ないと云いながら、車に乗り込む。いや、と一言、寡黙だが、相変わらずの優しさに心打たれる。
 「直接行きたいんだろ」と兄が訊く。
 「うん、そうしてくれるかな。でも、すごい雨だね」
 「ああ。しばらくはこのままだろ。ゆっくりできないのか。泊まっていけばいいのに」
 「うん、仕事があってね。どうしても今日のうちに、福岡に入らないといけないんだ、残念だけど。夜の便だから、時間は少しある」
 花屋に立ち寄り、花を買う。
 酒屋に立ち寄り、酒を買う。
 何も云わないのに、ぼくが望むところに兄は車を走らせた。父と母の眠る墓へ参るときは、ぼくはいつもそうしていたからだ。

 父や母とゆっくり話がしたい、とぼくはロンドンを発つときから思っていた。少なくとも年に3回は日本に出張するぼくは、いつもそう願いながら、仕事に感(かま)けて足が遠のいていた。航空券の手配をしながら、断念したこともある。
 しかし今回は、どうしても会いたいと思った。墓の前でゆっくり話したかった。

 激しい雨が降り続く。傘を差していても、ぼくの体はびしょ濡れで、兄が準備した線香の火もたたきつける雨に降参した。
 墓をきれいに掃除しようとして東京で買って持ってきていたゴム手袋も棒の付いた硬いスポンジも、たわしも、結局何にも役に立たなかった。苦笑しながら、けれどもいつものように一升瓶の栓を抜くと、墓のてっぺんからそれをかけた。左手で傘を差し、右手で一升瓶を持つのは大変だった。手が滑って、墓に落とすとビンが割れて大変なことになる、と少し緊張した。
 一升瓶の半分ほどをかけると、栓をした。残りは近くに眠る中学時代の恩師の墓にかけるのだ。ぼくの父を敬慕した彼は、父の墓のすぐそばに自分の墓を立てていた。そして父と同じく、こよなく酒を愛した人だった。
 いつもなら辺り一面に漂う酒の匂いは、強い雨によって掻き消された。漂う酒の匂いをかぎ、少しその酒を口に含みながらぼくは、父に問い、母に語り掛けるつもりだった。
 尊敬する教育者としての父に教えを請いたいという思いがあった。何十年も必死に打ち込んできたはずの教育の、そのすべてについてぼくは、もう一度考え直さねばならないような、そういった思いの中にいる。
 こんなにも優しい人がいるのかと思わせる母にぼくは、まずは、ぼくからは優しくすることが何一つできなかったことを詫びたいと思っていた。そしてまた、ぼくのさまざまな愚かさや醜さを一つ一つ話そうと思ってきた。きっと母は、静かにそれを聴いてくれるだろう。悲しそうな表情や寂しそうな表情を浮かべた後で、それらの思いを全て飲み込むように少しうなづいて、それからきっと優しく微笑むだろう。何も云わない、励まそうともしない、しかし優しいまなざしでじっと微笑むだろう。
 いや、ただ語りかけるためだけに、教えを請うためだけに、ここに来ようと思ったのではなかった。
 ぼくがここに来た本当の目的は、墓に眠る父と母に、ある挨拶をしようと思っていたのだ。
 けれども、激しい雨は、そのぼくを許さなかった。激しい雨に、まだまだ、という声を聞いた。

 墓参りを済ませたぼくは他の兄や姉、その子どもたちや孫たちといった大勢で食事をする。兄姉は歳をとり、けれども仕事を引退した今のほうが活き活きとしていて元気だ。今も一緒に暮らしているかのように、ぼくに話しかける。他愛のないことばかりで、特別なことは何もない。その心地よさに感謝する。
 しかしぼくは、この人たちにも挨拶をしようとしてやってきたのだった。

 会食の後、兄の家に祀(まつ)られた父と母の位牌と遺影に手を合わせる。
 空港に向かうため家を出ようとする直前、部屋から庭を眺めていると、今日一日付き合ってくれた兄がやってきて、庭の手入れをもっとちゃんとしなければいけないんだけどね、とつぶやく。二人でしばらく黙ったまま並んで庭を眺める。揺らいで見えていた庭の池の水が、ぼくの頬を伝って落ちる。

(2011.06.15)

No. 142 ずっと神はそこにいた 夢の途中(30)

ずっと神はそこにいた 夢の途中(30)

 あの日から不思議な感覚に襲われている。けれども実は、ずっと前からその感覚はぼくを包み込んでいたのであり、あの日の衝撃がそれを確かなものにしただけなのかもしれない。
 おびただしい生命が圧倒的な、有無を言わせぬ力で呑み込まれていった。その映像はテレビのスイッチを切ることで一旦消すことはできるが、閉じたまぶたをこじ開けて、許すことなく侵入してくるのだ。
 「3・11」は地震であり、津波であり、原発であったが、もっと異質の、得体の知れない恐怖をぼくに感じさせている。

 シンガー・ソング・ライターの長渕剛が今回の震災について書いたという散文詩「復興」を読む。彼は、「自然が憎い」「海が憎い」「地球よ 貴様が狂っている」と書く。詩作品というよりも肉声そのものであり、叫びであるが、確かにあの映像はまず、どのような発声も許さぬ完璧な沈黙を、次いで深い悲しみを、そして激しい怒りを抱かせた。
 なぜあの人たちがあのような形で死ななければならなかったのか、という怒りである。もし、神というものがいるとするならば、なぜあのような仕打ちを彼らにするのかといった怒りである。
 ぼくはかつてローマ教皇の住む宮殿・ヴァチカン Vaticanを訪れたとき、激しい怒りを覚えた。このとてつもない絢爛豪華さは何だ、このひとかけらで飢えや病気に苦しむ子供たちのいったいどれだけの者たちが救えるだろう、とその建物の豪華さや陳列されている宝石等を見て思ったのだ。神に最も近いとされる者に、それは見えていないのかと憤ったのだ。
 日常の生活においても、善良なる生活者が虐げられ、搾取する者が支配する。神は何を見ているのか、とぼくは怒り続けた。神など存在しない、その神に祈るなど愚かなことだ、偽善であり、気持ちの悪い戯れだ、そう思っていたのだ。
 だが、ぼくは今、それらの怒りとは異なった不思議なものと向き合っている。

 ぼくの前に今、神がいる。
 神はずっと前からそこにいた。微笑むことも、怒ることも、嘆くことも、許すことも、創ることも、壊すことも、神は一切何もしないで、ただじっとそこにいた。
 ヒトはその沈黙に耐え切れずに、動き始める。立ち、座り、歩き、走り、泳ぎ、飛び、転び、起き、笑い、泣き、悲しみ、憂い、喜び、憎み、励まし、だまし、裏切り、信じ、そうやってヒトは、<生きる>ということを<定義>しようとし始めた。
 ヒトは群れることでその<定義>を正当化しようとしていく。数多くの同調者がいればそれは正義であり、少数の者を異端視する。 
 <生きる>とは<定義>されて初めて意味を持ち、ヒトは<生命>さえも<定義>していこうとする。もともとヒトにとっては、<生命>の意味を<定義>することと、たとえば<走る>ということを<定義>することとに大きな違いはなかったのだろう。
 そしてヒトは、<神>を創る。<神>が万物を創造したのではなく、ヒトが<神>を産んだのである。どうしても<神>が必要だったのである。なぜなら、いろいろな<定義>にはところどころに矛盾が生じ、わからないことが出てきたからである。
 むろん、<神>を<定義>しようとするそのことこそが不遜であり、あるいは滑稽であった。
 いや、つまりは、もともとその他の一つ一つの<定義>にもなにも意味がなかったのだ。あるとすれば、<戯れ>としてのそれであり、<諦め>としてのそれであった。
 優れた者と劣った者、美しいものと醜いもの、富める者と貧しい者、大きなものと小さいもの、前に進むことと後ろにさがること、痛みと快感、呑み込むことと吐き出すこと、などなど、それらはすべて他愛もない<戯れ>が産み出す<諦め>にすぎない。
 にもかかわらず、愉快なことにヒトは、その意味を持たぬものを大切にあがめ、囚われ、時に泣き、笑うのだ。

 ぼくたちは、あらかじめ設定された<関数>に投げ込まれる<変数>にすぎない。すべての生き物はその<関数>の設定に従って<解答>へと導かれる。にもかかわらず、<自分>という存在については異なった存在であるかのような錯覚に陥る。
 <自分>の周りの<他なる存在>はすべて、<変数>の一つに過ぎないのだが、<自分>だけは異なった存在であるかのように思いたいのだ。
 ならば、その<自分>をどう<定義>することができるのだろうか。

 神はずっと前からそこにいた。
 幼い子を、母を、年老いた女を、たくましい父を、理知的な教師を、赤銅色に肌を焼いた漁師を、妊婦を、犬を、そういったすべての愛すべきものたちを一瞬にして海が呑み込んでいこうとするとき、神はそれでも、静かに、そこにいた。
 少なくとも、そこにいたのは、ヒトという生き物が刹那の快楽のために勝手に創り上げた神ではなく、ぼくたちがもっと謙虚に、あるいは素直に向き合わねば、見えてはこない神が、そこにはいたのである。
 ぼくは今、その神を前にして震えている。

(May 19th, 2011)


No. 141 特別な料理 夢の途中(29)

特別な料理 夢の途中(29)

 目覚めたぼくは、今どこにいるのだろうと不安になる。あたりを見回して、ようやく日本に行く飛行機の中なのだ、と気付く。
 最近、こういうことが増えた。何をするにも緊張感が失せてしまっている。そのためか、よく忘れ物をする。泊まったホテルにはたびたび物を置き忘れ、あとで送ってもらうこともしばしばである。忘れたことも忘れてしまって、数ヵ月後に同じホテルにチェックインした際に、「お預かりしておりました」とその忘れた物が差し出されることもある。
 緊張感が失せている、と今ぼくは書いたが、それは心がそれらの物事にしっかり向き合っていないということで、つまりは感動とは程遠い日常がぼくを包み込んでいるということだ。
 刺激のない毎日というのではない。さまざまな人たちと会い、語り合い、お酒を飲み、食事をする。それらの人たちの中には社会的に有名な人たちも数多くいる。周りの人たちが振り向くようなそういう人たちと一緒にいても、少しも緊張したりはしない。
 ぼくが求めているものと少しだけずれが生じているのかもしれない。

 では、ぼくが求めているものとはなんだろう。
 たとえば、正月だ。もうすぐ正月がやってくるという年末、ぼくは興奮した。まったく新しい一年が始まる、と少年のぼくは緊張したのだ。
 たとえば、新学期だ。新しい教科書の匂い、同級生の顔が新鮮で、新しい先生の鼻の動きまでじっと見つめた。
 いや、新しいものだけではない。
 深夜、自衛隊の問題や環境破壊について父親と討論する高校生のころのぼくは、なんだかうんと背伸びをしているようで、しかもそれを父親が認めてくれているようで、うれしかった。
 母親の手作りのマヨネーズや餃子や、あるいはあんみつはぼくをそのたびに歓喜させた。母親が編んでくれたセーターやカーディガンはたまらなく暖かかった。
 将来の夢を語る兄の静かな言葉に感動した。「そんなこと言ったって」と繰り返す子どものぼくに、三歳上の兄は怒ることもなく静かに繰り返し自分の思いを語った。
 近くの川に向かって石を投げ続けたぼくは、投げた石が大きな岩にぶつかって割れるとき、泣きそうな顔でそれを見つめた。
 どの思い出も全て、ぼくには特別なのだ。

 ぼくは特別な、なにものかがほしい。
 たとえばぼくのために心をこめて作られた特別の料理。それはおそらくたくさんの時間を要するであろう。ぼくはそれが出来上がるのを空腹を我慢して待たなければならない。贅沢である必要はまったくない。見かけが悪くったってかまわない。ミシュランの星のついたレストランでは絶対に食べることのできない特別の料理が食べたい。
 たとえば、とびきりの授業がしたい。徹底的に準備をして、学生の動きを完璧なほどに予測し、計算しつくした、特別の授業がしたい。
 たとえば、旅だ。行き当たりばったりの無計画な旅がしたい。ホテルなど予約しないで、多少困ったりする旅である。心奪われる風景に出会ったら何日もそこに逗留する、そういった特別な旅である。
 たとえば、特別な人に会いたい。

 ぼくたちは朝起きて、食べて、働いて、時に少し遊んで、夜になると眠る。歩いたり、走ったり、笑ったり、悲しくなったり、そういうことを繰り返しながらぼくたちは、次第に同じ朝を迎えるようになる。同じ道を歩き、同じ乗り物に乗って、同じ駅で降りて、同じことにため息をつき、同じことに喜び、同じことに少しだけ怒ったりする。
 愛するとはこういうことだとずっと昔からみんなが信じている形に肯きながら、同じ高揚や諦めを経験する。
 繰り返される日常の中で人間が選択して歩いていこうとする先には不思議な定型が待っている。慣れるということはおそらく安心できるもので、自分がどこにいるかさえ時に忘れてしまったりするほどだ。
 けれどもぼくは、地下鉄に貼られた詩人の詩に出会うとき、幼子が必死に母親の乳房に吸い付き、母親の命さえも吸い取ってしまおうとするのを見るとき、ホームレスの少年が街角に座り込みはるかな天空を鋭いまなざしで睨みつけるのに出くわしたとき、嫉妬するのだ。
 惰性に流された眠りは、ぼくをむしろ眠らせぬように向こう岸に引き戻そうとする。日常が鬱陶しいのではない。日常に不必要に微笑もうとする自分がたまらなく哀しいのだ。

 特別な料理が食べたい。ぼくのためだけに心をこめて作られた料理が食べたい。それはごくごく普通の皿に盛られた、ごくごく普通の名前を持ったものでなければならない。普通でないものがしばらくするとだらしなく変化し、いわゆる普通になるのは耐え難い。普通が時とともに魅力的に変化していくのでなければならない。特別な普通、普通の特別がぼくは今、恋しいのだ。(2011.03.10)

(March 11th, 2011)


No. 140 新しい年、助走。 夢の途中(28)

新しい年、助走。 夢の途中(28)

 年が改まった4日にぼくは書き初めをした。年の初めに墨を磨り、大きな筆で文字を書くのは子どものころからの習慣である。その年の抱負を文字にするのだが、今年は「育」と書いた。
 研究所は1989年に設立され、今年で丸22年が経った。瞬く間に時は過ぎたが、その間さまざまな方や機関の助力を得て、何とか今日まで活動を続けることができた。日本経済新聞や毎日新聞、英国の新聞や英国BBC放送などが取り上げてくれたり、英国の大臣がコンファレンスにおけるスピーチで研究所の活動を評価してくれたり、ヴァージン航空などを擁するヴァージングループ代表のリチャード・ブランソン卿がさまざまな形で支えてくれたりした。英国に駐在する日本大使や日本から戻ったばかりの英国大使等も温かく支えてくれた。
 とはいえ、いわば荒れ地を耕し、種を蒔き、水や肥料を与えるといった開拓民に類する労力は、ささやかなものではなかった。そして今、ようやく若芽が萌え出ようとしている。
 か弱く芽を出したそれらを見つめながらぼくは、その頼りない命を育てるためにこれから、どれだけ多くの時間と労力がいることだろうと武者震いする。
 深く、広く根を張る確かな樹木として育てたいと思うのだ。華やかな花を咲かせる必要はない。太い幹と豊かな緑葉を持つ樹木でありたい。芽を出した生命を丁寧に、心を込めて育てたいと思う。

 書き初めをしたあくる日、井上康生と飲んだ。シドニーオリンピックの柔道の100キロ超級で金メダルに輝いた彼はぼくとほぼ同じくらいの身長で、しかしぼくより20キロ以上も重い。
 飲みながらぼくは、彼に話した。
 「サッカーのカズという選手がいるが、彼はいわゆるスーパースターだったけれどもワールドカップの代表チームの選手選考に漏れる。もはや下り坂だったということだけれども、カズはそのショックから立ち直り、サッカーを続ける。たとえ2軍選手のような取り扱いをされても、彼は現役を続けようとする。
 彼は言う、ぼくはもはや若い選手のような華やかなプレイはできない、速く走れない、しかしぼくは、サッカーがもっとうまくなれる、ぼくの知らないぼくを見つけたい、と。
 プロ野球の投手に工藤という選手がいる。西武や巨人等を転々とし、優勝請負人といわれるほどの活躍をする。どうやら現役最年長であるらしい。彼もまたスーパースターであったが、来期は所属するチームがない。つまり、浪人中だ。けれども彼はあくまで現役にこだわる。
 ぼくはもうかつてのような速い球は投げられない。けれども、 ぼくは打者の心理を読むことができる、前よりもずっと。コントロールも磨くことができる。ぼくはまだまだ野球がうまくなれると信じている、と。
 この二人に共通する、そう、なんといったらよいか、信じるものに殉死さえいとわぬような熱い思いにぼくは心打たれた」
 ぼくは、康生に訊いた。
 「ところで、井上康生にとっての柔道はどんなものなのだろうか。カズや工藤の場合と違い、柔道は格闘技だ。一対一で闘う競技だから、同じ思いで打ち込むことはできないのではないか。
 中国のオリンピックの代表選手の選考のための予選で負けた時、その瞬間、畳の上でどんな思いだったか。
 世界の頂点に立った君は、これから何を目指そうというのか。
 まだまだ若い青年である君にとっての人生は、これからどういう形をとるのか」
 彼は何杯目かの芋焼酎のロックを飲みながら言った。
 「ぼくの、勝つための柔道は終わった。けれども、ぼくはまだまだ未熟です。オリンピックで金メダルを取った直後も、ぼくは父親から厳しく叱られたことがあります。調子に乗るな、お前はまだ未熟だ、と。ぼくはもっともっと、柔道を極めたい。柔道の<道>を極めて、そして後に続く者を育てたい。教育をしたいのです。
 そして、柔道を通して、世界の平和に貢献したいと思っています。ぼくは、それができると信じています」

 日本に一昨日、着いた。3週間の出張である。さっそく昨夜は女優の竹下景子や写真家の関口照生が歓迎の宴席を設けてくれた。近々ハリウッド映画でデビューする青年も一緒だ。それぞれが近況について語る。おいしいワインと洗練された料理をいただきながらぼくは、静かに深呼吸をする。新年を迎え、昨年のぼくと比べてみる。ぼくは変わったか、成長しているか。軽いジョークに興じながら、自分の笑い声がいつもよりも大きいことに気付く。そのことが、ホテルに戻るタクシーの中で妙に気になる。もう一度深く、息を吐く。
 ロンドンを発つ前の日、25歳の娘と話す。彼女の仕事上のストレスを聞いてやる。そうか、いろいろと大変だな、と思う。パパもスタッフに大変な苦労をかけているんだよ、それが辛くてね、と話すと、「パパはいい人だから、大丈夫だよ」と言ってくれる。こぼれそうな涙をごまかしながら、生意気言うな、と娘の額を人差し指で押す。
 新しい年である。
 もう一度、始めよう。ぼくという人間を探す旅の、夢の途中なのだ、まだ。まだまだ。(2011.01.27)

(January 28th, 2011)


No. 139 灰色・考 夢の途中(27)

灰色・考 夢の途中(27)

日本からやってきた大学教授と数時間の論争をした。せっかくの楽しいはずの会食の場を議論の場に変え、そしておそらく、疲れていたはずの彼をさらに疲れさせることになったのではと申し訳ない思いである。

 小沢(一郎・元民主党代表)の問題が発端だった。この件についてぼくは詳しくはないが、なぜ不起訴になった者があたかも犯罪者のように報道され続けるのか、とぼくは訊いた。
 それは現時点では黒ではなくても限りなく黒に近い灰色だからだ、と彼は言った。
 「では、だれが灰色だと決めているのですか。だいたい灰色の意味がぼくにはよくわからないのですが」
 「みんながそう思っているということですよ」
 「〈みんな〉というのは誰ですか」
 「ぼくの友だちもそう思っているし、……」
 「先生のお友だちが、〈みんな〉ということですか」
 「いや、社会のみんなが、メディアも」
 「ということは、テレビや新聞などが〈みんな〉ですか。ぼくはそのあたりがよくわからないんです。検察が何度も徹底的に調べた結果、起訴できなかったことを、でも怪しい、灰色だという裁き方は危険ではないでしょうか。ぼくはメディアを信用してはいないんです。起訴できなかったということは、裁判すらする必要はないということですから、有罪、無罪を論ずる以前のことです。その段階で、でも本当は黒ではないか、だから灰色だ、という考え方は随分乱暴な、論理ともいえないものに思えるのですが」
 「だから、裁判で白黒をつければいいのではないかということです」
 「でも、それはおかしい。起訴するに足る十分な証拠がないにもかかわらず、とにかく裁判してみましょう、というのは法治国家の基本的論理を揺らがすものであるとぼくは思います」
 「でも、いろいろとおかしな、怪しい点があるわけで、それを裁判で公にしてといった考え方です」
 「しかしながら、その怪しい点というのも誰が怪しいというのですか。〈みんな〉が言っている、思っているという、その〈みんな〉の正体がぼくにはどうも気になるんです」
 「では灰色ということはないというのですか」
 「犯罪に灰色はないと思います。白か黒かしかないのです」
 「でも、立証はできなくても悪いことをしている者はいるんじゃあないですか」
 「でも立証できないのに、どうして悪いことをしているといえるのですか」
 「法が裁かないから、法の網目をかいくぐって悪いことをしてもいいというのはおかしいと思いますが」
 「悪いことをしてもいいと言っているのではなくて、もしおっしゃるように法の網目をかいくぐって悪いことができる状況であれば、法を改定すべきことであって、法を超えて何者かが、つまりよくわからない存在である〈みんな〉が裁くという形はやはりぼくは間違っていると思いますし、危険だと思います」
 「危険だというのはどういう意味ですか」
 「たとえばメディアを押さえておけば、法を超えて、いかなる者も思想も悪とすることができるということです」
 「そのために裁判があるのです」
 「いや、その裁判が行われる、つまり起訴されること自体が実際は既に裁かれていることになりませんか。ぼくは小沢が悪いことをしているかどうかといったことは知りません。おそらくほとんどの人が実は知らない。メディアがこんな怪しいことがあるぞと報道したことで、怪しいと思っている。知ったつもりでいる。本当にそれが起訴するに足るものであるならば起訴されるだろうし、そうでなければ起訴されない。現時点で起訴されていないということは立証できないということです」
 「でも、法が絶対ではないから」
 「ぼくもそう思います。法は絶対ではない。しかし、ならば人を裁くのに何をもってするかということです。ぼくたちは灰色の意味を問う必要があります。さもないと、たとえば先生を社会的に抹殺しようとすればいとも簡単にできることになります。先生はどうも怪しい、疑わしいと喧伝するだけで社会的に裁かれてしまいます。あるいは、宗教も、さらには国と国の関係であっても。そういうことから戦争も度々起きたのではないでしょうか。日本の大新聞は戦争のときにはすべて、戦争を支持したのです。後になってその時は仕方なかったといっても、その報道によって多くの国民は動かされたのです。死んだのです。最近も繰り返される冤罪に見られるようにメディアというものにはそういった恐ろしさがあります。灰色という言葉の響きには人間の持っている情念的なものも含まれるようにぼくは思います。つまり、いやな奴は消し去ってしまおうという、論理を無視した恣意性です。メディアが操作するのです」
 曖昧なものは曖昧なものとして位置付けるのがいいだろう。曖昧なものを曖昧でないもののように取り扱い始めると、権力や財力などを持っている者が、その者にとって都合のよい身勝手な社会を形成することになる。すでに、そうなってはいまいか。

(December 1st, 2010)


No. 138 S氏からのメール 夢の途中(26)

S氏からのメール 夢の途中(26)


 「親友が永眠」というメールが届く。つい1週間前、日本出張からロンドンに戻るぼくを、成田空港まで見送ってくれたS氏からのメールである。

 「札幌に住む私の高校の親友が図師先生が帰英した翌日に永眠し、11月2日に福岡にて供養するというので、今日昼の便で福岡に来ており、空港から博多駅に来て、駅ビルの焼きそば屋で焼酎を飲みながら図師さんにメールしてます。メールしたくなりました。センチメンタルジジィですかね。寂しかですよ、そんな時図師先生に何かを伝えたいちゅうのは、何か不思議な思いがしてます。図師先生も無理するなよ、頼むよ、友は欠けたら駄目だよ。生きててなんぼとちゃうか?体に気をつけてよ。」(2010年11月1日受信。原文のまま)

 ぼくより2歳年上のS氏は福岡の出身で、彼の高校時代の親友が癌におかされ、危ないという話は以前から聞いていた。そうか、とうとう亡くなられたか、と思う。ぼくはその人に会ったことはないが、S氏と酒を酌み交わす時、S氏が彼を案じているのを繰り返し聞いた。「辛いよ、しんどいよ、参ったよ」と彼は何度も口にした。かけがえのない親友が逝く日が遠くないことを彼は恐れていた。
 S氏は情が厚く、まるで「フーテンの寅さん」のような男である。他人の世話ばかり焼きながら、気が付くとポツンと一人取り残されているような、そんな寂しさも漂わせている。
 親友の遺影を前にしてS氏は、顔をくしゃくしゃにして、あたりかまわず泣くんだろうなあ、と思う。明日のことなんかどうでもいいや、と親友への思いに浸ってしまうんだろうなあ、と思う。
 会いに行く前に彼は、酒を飲んでいる。一人で焼きそばを食べながら焼酎を飲む姿は、あまりに寂しいではないか。
 だって素面で会えるはずないじゃないか、とぼくがそこにいれば絡むことだろう。ぼくも親友が急逝した際、何年も遺影の前に立つことができなかった、そういう思い出がある。

 滞日中にぼくはS氏に電話をかけた。留守であったが、彼の一人娘の「さくら」(本名)と話すことができた。幼かったさくらは、早いものでもう高校3年生になったという。
 「さくらのお父さんはいつもさくらのことばかり考えているんだぞ。さくらに幸せになってもらいたいといつも言っているんだぞ。わかるか、さくら。お父さんを大切にしろよ」
 余計なお世話だとはわかっているが、ついいつもこういったことを云ってしまう。ぼくが云わないといけないような気がするのである。S氏は立派なんだぞ、と大きな声で云いたいのである。そんなことはきっと、十分にわかっていることなのだ、さくらにも。やはり、余計なことだ。

 S氏の奥さんがつい先日、癌の手術を受けた。日頃は奥さんに対して強がっていたS氏も、完全に参っていた。
 「冗談じゃないよ、俺じゃなくてあいつがこんな病気になるなんて、冗談じゃないよ、ほんとに」
 独り言のように彼は何度もそうつぶやいた。
 手術の状況や術後の経過について知らせてくれたS氏は、その成功に安堵し、「心配なんかしちゃあいなかったよ、ちっとも」と強がった。周りの者にはそのいじらしさが見え見えだった。

 心細やかな人間がささやかなことに喜んだり、悲しがったり、ため息をついたり、怒ったり、そういう息遣いがぼくには今、とてもいとおしい。
 生きるということの恐ろしい程の孤独感はどんなに思考を巡らせてみても、結局のところそこから逃げだす術は見つからない。ぼくたちの背負った寂しさは消そうとしても消し去ることのできないものであり、もがけばもがくほど手足の自由が奪われていく。
 ならば、ぼくたちはどういったものに笑おうか。どういったものに歓喜しようか。生きる喜びをどこに求めようか。
 それはおそらく、一人一人の掌(てのひら)の上にある。踏みしめるわずかばかりの大地にあり、息が届く距離に佇む人たちと共にある。
 愚かな名声や富を求めず、今自分が求めようとするものの価値を繰り返し繰り返し問い直しながら、ひたすら丁寧に、抱きしめようとしていかねばならない。
 S氏のメールはぼくに、彼の食べる焼きそばの香ばしい醤油のにおいや、アルコール臭の強い芋焼酎のにおいをさえ感じさせながら、体に気を付けてということばと共に、いいか、間違えるなよ、じっと見据えるんだぞ、じっとじっと大切なものを見据えながら生きて行くんだぞ、そのあたりに転がっている偽物に騙されてはならないぞと語りかけてくるのだ。

(November 2nd, 2010)


No. 137 それでいい 夢の途中(25)

それでいい 夢の途中(25)

夢から覚めたぼくは、ベッドに横たわったまま天井を見つめる。夢を反芻しながら、ふうと息を吐く。

 夢の中でぼくは、黙々と拭き掃除をしている。山深い田舎の小さな木造校舎の教室の床に四つん這いになったぼくは、硬くしぼった雑巾で行ったり来たりしながら拭いている。床も壁も木でできているその教室にはせいぜい20人が座れる椅子と机しかない。その椅子も机も全部木製で、相当使い込んだ古いものだ。その机もぼくは丁寧に雑巾で拭くのだ。机の表面には彫刻刀で彫ったと思われるさまざまないたずらが描かれ、消しゴムのカスがその溝にたまっている。折れた鉛筆の芯もある。
 早朝だ。まだ完全には陽は昇り切ってはいない。
 誰もいない。鳥が鳴いている。
 ぼくはきっとその学校の先生なのだ。
 ゴシゴシとぼくは、力を込めて拭き掃除をしている。腕の筋肉がよみがえったのか、机の汚れがみるみる落ちてゆく。子どもたちが登校する前に、すべての机を磨きあげておこう、ぼくはそう思っている。窓ガラスの木枠も、出入り口の木製のスライド式のドアも、バケツの水を何度も代えながら洗った雑巾できれいに磨き上げる。ひたすらぼくは拭き掃除をしている。
 ぼくは笑っている。楽しくてしようがない、そういった表情だ。
 気がつくと、父が立っている。いつものように威厳のある顔つきで、「それでいい」と一言つぶやく。母がいる。父の言葉に柔らかな笑顔で肯く。
 ぼくはポケットから柔らかいタオル地のハンカチを取り出して、額の汗をぬぐう。

 研究所に向かう電車の中でぼくは、夢について考えている。朝、目覚めたぼくの頬には伝う涙があり、ぼくは戸惑いを覚えたのだった。
 実際には一度も経験したことのないその風景はしかし、懐かしく、温かかった。
 父も母も教育者であり、幼い頃、ぼくの家には大勢の青年教師たちが毎日のようにやって来ていた。彼らは大酒を飲み、大きな声で歌を歌い、激しく教育論をたたかわせた。先生とはかくもすごい人たちなのかとぼくは、幼心に憧れを持った。
 ぼくは大人になり、教育一筋に30年以上を生きてきた。教育の世界にさまざまな表情があるのをぼくは知った。その中にはどうしてもどうしても受け入れることができないものもあった。
 教育にもいろいろあり、教師にもいろいろいるのだ。
 ぼくが今、「いろいろ」と書くのは、「こんなもの、教育なんかじゃない」、「こんなやつ、先生と呼ばれるべき人間じゃない」と、そういった怒りを覚えることが時にあったからである。
 自らの名誉や欲のために教育という世界を弄ぶ政治家や役人、その者たちにこびへつらう役人もどきや卑しい教育関係者たち、貧しい教育理念しか持たないにもかかわらず、メディアに注目されもてはやされることのみ大切にしようとする似非学者や教師たち、それらの教師たちをおなかの中で馬鹿にしながら商品化して儲けようとするメディアの連中、それらに面白いほど踊らされる愚かな母親たち、陰で愚痴を言うしかない情けない父親たち。 
 学ぶ立場の者たちにもいろいろいる。
 努力なんか一度だってしたこともないくせに、「努力なんかして何になるんだよ」と格好つける、気持ち悪い程腑抜けた少年少女たち。努力ということばの意味も知らないくせして、「懸命に努力したんだから認めてくれてもいいではないか」と甘える青年。「褒めてくれないとやる気が出ないじゃないか」と大きな勘違いをしている若者。「いろいろな生き方があるじゃないか」などと、生きてるとも言えない生活をしながら居直る者たち。個性ということばを盾にしながら、わがまま以外に何一つ個性らしきものを持っていない者たち。わずかばかりの知識を身につけただけで自分より知識のなさそうな者を必死で見つけて偉そうにふるまう愚か者。自分のものではない権威を身に纏おうと権威の傘の中に入ろうと走り回る小さき者。
 怠惰と諦めと狡猾さと裏切りと、そういったものに支配されている社会とその社会に翻弄される教育、ぼくはそういったものに少し疲れていた。
 教育とはどんな意味を持つのだろう。

 雑巾がけを終えたぼくは、しんと静まり返った教室の窓際の椅子に腰かけて、朝の冷気に姿勢を正す校庭を眺める。教育はきっと、こういう静けさの中で、一冊の書物や白いノートの一ページを開くことで、明日の幸せを見つめることで始まる、ささやかな行いであり、それ以上のものであってはならないのだ。

(September 30th, 2010)

No. 136 夏の終わりに 夢の途中(24)

夏の終わりに 夢の途中(24)

 夏はもう、逝ったようだ。空を見上げると上品な青がさわやかに、うっすらと刷毛で掃かれている。風が心地よい冷たさで、頬を撫でる。
 ああ、今年の夏もまた明らかに筋肉が瘠せた。たくましい青空に対峙することのできる筋肉はもう随分前に失せて、木陰で静かに、さまざまな書物の世界に遊ぶのがせいぜいである。
 けれども、明日を忘れたのではない。明日を忘れようとしているのではない。ぼくはまだ、夢の途中を歩いているのだから。
 休日の午後、庭の芝においた椅子に腰かけながらいろいろな想いに耽っていると、突然立ち上がってしまいそうな、そんな激しい思いに襲われることもあるのだ。
 足もとまで来ていた栗鼠が驚いて、傍らの樹木にかけのぼっていく。

 詩人の辻井喬が書いている。

   記憶が
   花になる人は幸福だ
   過ぎた時間が
   無数の犬になって
   俺を責める
   死者の枕辺に
   立ち騒ぐ波のよう  ―「犬」『不確かな朝』 

 詩人とは何と哀しい、哀れな姿を晒す生き物であることか。それはどうしようもない程の露出狂であり、ゆえに、隠れようとして、もっと深く、もっともっと深く、自らの奥へと分け入っていくしかないのだ。

   車にはねられた犬の死体を
   仲間の犬が喰っていた
   陽炎の立つ道で
   そいつの眼には
   街路樹の緑が綺麗で
   何だか俺を責めているようだった  ―同

 ことばを仕事にしているが、ことばへの不信というか、ことばの貧しさというか、そういったものが鼻につくことがたびたびで、世界中のことばをミュートしてしまいたくなることがある。わずかな力を、それがすべてででもあるかのように取り扱う、そういったふるまいが我慢ならないのだ。
 ことばなんてたかが知れているのだ。
 辻井は強かで、だから自分の生み出したことばに恐れおののく自分を表現できるが、ほとんどの人間は、たとえば、<愛している>と云えば、確かな何かがそこに生まれ、それで事足れりといったふうを装っている。
 うん、そうなのだ。最初は装っており、ほんの少し時間が経つと、その装いを捨て、いや忘れてしまい、そのことばが産み出した貧弱な<愛>の世界に浸ることができるようになる。
 たとえば、知的であると思われている学者や研究者たちの頭の中は、他の者に負けたくないとか、できるだけ多くの者に尊敬されたいとか、そのための肩書や権威といったものがほしいとか、そういった実にわかりやすい、おどおどした思いで満たされている。
 おそらく彼らはほどほどに知的であるのだろうから、自分の力が実は大したことはないということに気付いており、しかしながらそのことをできる限りカムフラージュしなければ恐ろしくて夜も眠れなくなってしまうのだ。
 知的であるかないかなんて実は大したことではないのである。

 ぼくがぼくであるかどうかなどどうでもいいことではないか。
 背を倒した椅子に横たわりながらぼくは、うつらうつらと微睡む。ん、何だかこの風景には既視感を覚える。
 堂々巡りをする思いの中でもがいている男がいて、どこかでその男を見たことがあるのだ。その男についてかなりのことを知りながら、どうしてもすべてを知ることができないもどかしさでいつも、まあ、いいさとあきらめてしまうのだが、いや、やめよう。その男の正体は最初からわかっているのであり、ゆえにいつまでたってもわからないのだから。
 ぼくがぼくであるとは何だろう。
 夏が死に、秋が生まれる。歩き続けなければならないぼくは、足下からぼくのからだの上によじ登ってきた栗鼠を驚かさないだけのわずかな優しさでもう少し、夏と秋のはざまの空気を吸うのである。

(August 20th, 2010)

No. 135 まだまだ 夢の途中(23)

まだまだ 夢の途中(23)

 恐ろしいほどの大酒飲みであったぼくは最近、もうそんなにたくさんの酒を飲みたいとは思わなくなった。
 かつてのぼくは、宴会のはしごの後、足を向けたバーでウイスキーのボトルを一本空にして、それから別の店へとさらに夜の街を彷徨い歩いた。
 来客があれば、ビールをたっぷり飲んだ後に、一升瓶二本の日本酒を相手と二人で一本ずつ飲み干した。客は間違いなく酔いつぶれた。
 近くに小さな焼鳥屋が開店したと聞き、仲間3人でその店のビールがなくなるまで飲み続け、店の亭主を驚かせた。
 休みの日は朝からワインを空け、昼と夜はそれぞれ別の酒を味わった。
 さすがに体の調子がおかしくなり、病院に行くと医者はこう言った。「どうせ酒を止めるなんてことはできないだろうから、もっと弱い酒を飲んだ方がいい」と。
 しかし、酔わなかった。飲むことはなんだか一種のスポーツみたいなもので、飲んでいたからよく覚えていない、などと言い訳をいうことは一度もなかった。
 けれども、どうやらアル中でもないようだ。ためしにひと月、一滴のアルコールも飲まないことに挑戦したら、苦もなくできた。
 けれども、今ぼくは、そのような、浴びるような酒の飲み方をしたいとは思わない。
 できれば、ゆったりと、静かに、夜の闇の音を聞きながら、味わいたいと思う。
 歳をとったせいだろうか。

 かつてのぼくには、ある種の怒りが巣食っていた。何に対してというより、すべてに対する怒りである。すべてに対する怒りとはつまり、自分に対する怒りという意味になる。
 ぼくはぼくの存在の意味がわからなかった。何のためにぼくがいるのかといったことではなく、ぼくとはどういった存在なのかがわからないということで、この「濫觴」にもたびたびそのことについて書いた。
 ぼくはどこから来て、どこに存在し、これからどこへ行くのかといったことがまったくわからないのだ。
 ぼくは神が創った、よくわからない装置や数式に放り込まれる一つの変数に他ならないと思うのだ。(「変数χの孤独」濫觴120)
 にもかかわらず、どうして安穏と生きることができようか。〈意識〉というものから逃れることができないまま〈生きる〉ということの苦悩は、実にわかりやすく単純で、残酷な一つの回答を突き付けてくる。逃れようと本当に思うのならば、その〈意識〉を抹殺すればよいのだ。
 目の前にそびえるピカソの絵画も、モディリアーニのスカルプチャーも、朔太郎の詩も、ショパンの旋律も、八百屋のおばさんのやや下品な笑い声も、サンドイッチ屋のかわいい女の子の澄ました顔も、わずかばかりの知識で胸を反らせる学者の愚かしさも、その頃のぼくにはすべて苦悩から逃れるための悲痛なうめき声に聞こえていたのだ。
 ぼくは耳をそば立てて、彼らのうめきを聞き続けた。それらを言葉に写し取り、一つずつまとまりをつけ、名前をつけて詩という形で放りだした。
 朔太郎は猫の泣き声を「おわあ」と、「おわああ」と、「おぎゃあ」と書いたが、朔太郎自身はもちろん、そうは聞いていない。
彼は怒りとともに猫にそのような鳴き声を与え、見捨てるのだ。表現は表現する者に、絶望感を与え、より深い孤独感を突き付ける。
 けれども詩人は書こうとする。谷川俊太郎が数年前、ロンドンにやってきたとき、「もうぼくは詩は書かない。書くものがなくなったから」と言ったが、書くものがなくなったのではなく、彼には詩が書けなくなっただけのことなのだ。彼は今、朝日新聞に毎月作品を載せているが、たしかにもはや詩とは言えない。耳を澄ませてもうめき声などまったく聞こえない。

 歳をとったせいだろうか。
 いや違うのだ。
 ぼくはもっと耳を澄まして聞きたいと思うのだ。逃れられないぼくの〈意識〉がとらえようとするものをもっと深く、もっと丁寧に、じっと見つめようと思うのだ。ぼくが愛する者をじっと見つめることでおそらく、ぼくはぼくを発見することができるだろう。
 ぼくの心臓や胃や腸、あるいは肺や肝臓が反応し、耳が、目がとらえようとするものを見つめ、聞くとき、ぼくは変数χの孤独の数式に抗うことができるのだ。
 ぼくはまだまだ、闘おうと思うのだ。

(July 9th, 2010)

No. 134 日本人の論理

日本人の論理

 日本の首相がまた変わった。毎年新しい首相が誕生する先進国は他にもあるのだろうか。外交は間違いなく希薄なものとなり、日本の国際的な発言力などなくなっていくだろう。
 ところで今回の首相や民主党の幹事長の辞任については、よくわからぬことばかりだ。
 まず沖縄の基地の問題だ。ぼくが米軍普天間基地に隣接する沖縄国際大学に招かれ、講演をしたのは、この大学に米軍ヘリが落ちた事故の直後で、学長室はプレハブだった。学部長の研究室からは基地の中が手に取るように見えた。こう近接していたのでは確かに危険だと、そう思った。
 その基地の移転を旧政権・自民党と米国との間で決められていた名護市辺野古ではなく、沖縄県外へ、できれば国外へ、という鳩山首相の思いは無残な形で挫折した。沖縄県以外のどこも引き受けようとはしなかったからだ。他の県への受け入れ要請が確かな手順で行なわれたかどうかは疑わしいが、発想としてはおかしくはないだろう。仮に日本と云う国の平和と安全が米軍の駐留によって保たれているとするなら、沖縄だけが過重にそれを負担しなければならない論理は成立しない。
 もしぼくなら、と子どもじみた仮定をしてみる。もしぼくなら、沖縄以外のすべての地方自治体の首長に対して、何月何日までにそれぞれの住民の意向をまとめさせ、報告させる。基地の受け入れをするかしないかである。
 おそらくどこも受け入れようとはしないだろう。であれば、日本国民は米軍を受け入れることを拒否するということであるから、政府は米国に対して米軍の完全撤退を命じればよい。
 そんなことをしたら日本の平和と安全はどうするのだともし言う輩がいたら、ではあなたのところで基地を引き受けなさいと言えばよい。自分の身を守るために他者を犠牲にする論理がまかり通ってはならない。
 そのために軍隊が必要であると思うのなら、憲法を変えて軍隊を持てばよい。軍隊を持つことに反対なら、軍隊をもたないで国を守る方法をみんなで考えるのだ。あるいは、軍隊をもたないがゆえに他国から攻められたときは、それに耐えることを選択するのだ。
 そんなに単純ではないよ、政治は、といういかにも政治等に通じているという者がしたり顔で言うならば、政治家を見なさい、そんなに優れた知性や論理的思考のできる者たちであると自信を持てるかと訊ねたい。
 単純でいいのだ。いや単純でなければならないのだ。単純であることを筋を通して守ろうとする勇気が必要なのだ。
 ところで、今回の鳩山首相の迷走は確かにみっともなかったのだが、元に戻っただけのことだ。しかし、沖縄の問題や米軍基地の問題、日本の平和と安全が米国の力によって守られていること、その歪み等、いろいろ隠れていたことや隠されていたこと、敢えてみようとしなかったことが表に出てきたことは大いに意味のあることではなかったか。
 新聞や雑誌、テレビ等のメディアは今回も事の本質から外れた周辺の面白おかしさだけを報じ、醜悪さを露呈した。
 鳩山首相がなんとか沖縄の負担の軽減をと志向したことこそ、もっと見つめる必要があった。
 米国のオバマ大統領は米国のために働いているのである。そのオバマに日本の首相が軽くあしらわれたということを愉快に報じるメディアの愚かしさこそが、気持ち悪いではないか。オバマが言ったチェンジは自分の国・米国のためであり、日本のチェンジなんか関係ないよという姿勢に多少なりとも不快感を持ってよい。
 さらに、小沢幹事長に関する報道もよくわからない。彼は検察の繰り返しの捜査、取調べの結果、不起訴になった。犯罪は有罪と無罪のどちらかなのではないか。不起訴と云うことは、裁判にかける必要がないとの判断が下されたということで、有罪、無罪を論ずる必要もないとされ、白と判断されたのだ。しかし、メディアは灰色として報道を続け、世論を操作する。
 冤罪について話題になった際、警察や検察の攻撃をしたメディアは、その人が逮捕された時にはいったいどのような報道をしたか。掌を返したように冤罪報道に走るメディアのいやらしさを忘れてはならない。
 小沢幹事長が実際はどうであるのかは分からない。しかし、黒でないと結論付けられたものを灰色としてメディアが裁くというのは恐ろしい社会を生み出すことにはならないか。
 勝手に、証拠もなく、ある人間を突然、恣意的に、時に特別の意図を持って、社会的に葬り去ることができるのだ。
 ぼくは鳩山氏にも小沢氏にも、民主にも自民にも与しないが、論理を軽んずる社会は恐怖である。情報を狡猾に操作し、販売しているメディアによって、国民は弄ばれているのではないか。

(June 11th, 2010)

No. 133 外国語を学ぶということⅢ イメージする力 夢の途中(22)

外国語を学ぶということⅢ イメージする力 夢の途中(22)

 St Paul’s School for Girlsというのは英国を代表する中等学校である。GCSEやAレベルの成績は常に全国のトップであり、生徒たちの多くはいわゆるオックス・ブリッジ(Oxford UniversityとCambridge Universityを合わせていう)に進学する。
 ある日、その学校の校長から電話がかかってきた。生徒たちへの日本語教育に取り組みたいので相談に乗ってほしい、というのである。かつて、プリンス(皇太子)が行くので有名なEton Collegeから依頼された時には多忙を理由に断るといった失態を演じた反省から、協力することにした。
 校長の部屋で質素なランチをいただきながらぼくは、なぜ子どもたちに日本語を教えようとするのかと訊いた。「この学校の子どもたちは英国だけでなく、世界のリーダーとして生きていきます。学科だけでなく芸術の面でも、あらゆる点で優れた成績を収めている彼女たちは、しかしながら自分の知識や能力といったものが極めて限られたものであるということを知らなければなりません。異質のものに触れるということは人間のまなざしを豊かにしていきます」

 日本の小学校の校長が大変な剣幕で英語教師を派遣する業者に電話をかけてきた。
 「これは一体どうなっているんだッ!」
 「えッ!」
 「なんで、黒人を派遣したんだッ!」
 「彼は英国人で、立派な教育を受けており、英語教員の資格も持っていますが……」
 「そんなことはどうでもいいから、すぐに白人に替えろッ!」

 国際人を養成するというのが謳い文句の幼稚園を経営する理事長が、自分の娘が滞在することになったロンドンのホームステイ先が気にくわないと紹介した機関にかみついた。
 「英国人の家にしてくれと頼んだだろッ!」
 「はい、英国人の家ですが……」
 「何言ってんだよッ、黒人じゃないかッ!」
 「でも、確かに英国人で、素晴らしい英語を話すファミリーですが、……」
 「黒人なのに、何言ってんだよッ! とにかく娘は白人の家に替えろッ!」

 教育者にしてこうなのだ。国際人養成や英語教育に熱心な教育機関にしてこのありさまなのだ。いち早く英語の教育に取り組んだ小学校の校長にとって、英語という外国語を教えるということはどんな意味があるのだろうか。子どもたちに何を学ばせたいのか。幼稚園の理事長が考える国際人とは何なのか。
 ぼくは講演や公開討論の場で繰り返し、この種の危惧を語ってきた。2011年の春から始まる外国語活動という名の英語教育は油断すると危ない。いつの間にか有名中学の入試科目になってしまい、子どもたちはひたすら単語を覚え、例文を暗唱する。先生がもっとコミュニカティブな英語をと叫んでも、母親が許さない。「何言ってるんですか、入試に必要なことから、まずはやってください。中学校の英語を前倒しでやってもらわないと高校入試が心配です」などと。
 いや、英語に限らない。国語も算数も理科も社会も、みんないったい何を目標としているのだろう。
 つまりは、なぜ教えるのか、なぜ学ぶのかについて、教育に携わる教師も、親も、教育行政に関わる者たちも、しっかりとした理念など持ち合わせていないのだ。
 不真面目だ。
 この不真面目さについてぼくたちは、もっと反省しなければならない。教師失格、親失格、役人失格、社会失格なのだ。

 異質のものを学ぶことによってぼくたちは、知識を超えた、今まで感じたことのない世界の存在をおぼろげながらも識ることになる。それはイメージする力である。
 ぼくたちが存在する世界はその自らの存在さえもわからないのだから、すべてを知ろうとしても知りつくすことはできない。それはもう悲しくなるほどにぼくたちは、何も知らない、わからないのである。考えることさえもうやめてしまおうと思ったりもするほどだ。
 けれどもなおぼくたちは、知りたいし、わかりたい。たとえば愛する人の喜びや悲しみを、できれば同じように感じたいと思うのだ。そのためには、知っているわずかなことを通してわかろうとする、イメージする力が必要だ。想像力が、とびきり上質の想像力こそが、ぼくたちに見知らぬ国で飢えや病気に苦しむ子どもたちの涙をたしかにわからせようとするのだ。
 外国語を学ばせようとするぼくたちはまず、そのことを忘れてはならない。

(May 11th, 2010)

No. 132 外国語を学ぶということⅡ イメージする力Ⅰ 夢の途中(21)

外国語を学ぶということⅡ イメージする力Ⅰ 夢の途中(21)

 日曜日にDVDを見た。15年前、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災の際の、地元の新聞社・神戸新聞の格闘のドキュメンタリー・ドラマである。
 死者6434名、行方不明者3名、負傷者43792名(重傷者10683名)等の未曾有の被害を出したこの災害の中で、神戸新聞の記者たちが彼らの使命である新聞発行のために闘う姿にぼくは、あふれる涙を押さえることができなかった。
 老いた父親が埋まる現場を離れて社説を書く男、泣きながら、震えながら、詫びながら、被害者にカメラを向けるカメラマン、血を流しながら、自分の家族の安否への心配を胸の奥深いところに呑みこみながら紙面編集に走る男。
 それらの者たちの、自分がしなければならないことは何なのか、自分の仕事とは何なのか、人間としての自分と仕事との関係をどう整理すればよいのか、と問う姿にぼくは、深く息を吐いた。
 自らを責めながら、罵りながら、疑いながら、呆然と立ち尽くし無力感にさいなまれながら、そういったものと渾身の力を振り絞って闘う姿は、ぼくを激しく打擲した。仕事というものの厳しさや尊さについて目の前に突き付けられた気がして、「ぼくは、ぼくたちは、まだ、仕事と呼べるほどのことは何もしていないではないか」と自分を責めた。
 ある記者が言う、「ぼくたちは何もわかっちゃいなかった。わかったふりをしていただけで、被害者の気持ちや思いは何にもわからずに、記事にして報道してきたんだ、今まで」

 わかる、というが、実は何にもわかってなどいない。
 ぼくたちはいつも、ほどほどの理解の中にいる。向き合う人物や現象のごく一部を把握することによって、すべてがわかったつもりでいるのである。
 この「濫觴」でも書いたことがあるが、ぼくが「わからない」と思い始めたのは、小学校を卒業し、中学校に入る前の春休みだった。小学校卒業式のあくる日、後頭部を強打し、意識のない状態で入院したぼくは、病院のベッドで「ぼくは一体何なんだ」と考え始める。
 いつからぼくはぼくであり、ぼくの命はどこから来たのだろう。今いるぼくの空間は、宇宙がどうのこうのといってみたところで、結局のところわからないということではないか。さらに驚くべきことには、ぼくは一度だって自分の顔を生で見たことがないのである。鏡に映る顔はいわばフィクションにすぎない。
 そしてぼくは、ぼくの目からしか世界を見ることができない。本当にぼくが死ぬことなんてあるのだろうか。だってもしぼくが死ねば、この世は終わりになってしまうではないか。
 幼いぼくはしかし、狂おしいほどにその「わからない」ということと格闘した。そして今もなお、ぼくには「わからない」のである。

 2011年の春から、日本の小学校の5,6年生の児童の英語の学習(年間35単位時間)が始まる。「外国語活動」の名の下に行われるのだが、「英語を原則」としている。
 学習指導要領によれば、「外国語を通じて、言語や文化について体験的に理解を深め、積極的にコミュニケーションを図ろうとする態度の育成を図り、外国語の音声や基本的な表現に慣れ親しませながら、コミュニケーション能力の素地を養う」というのが「目標」である。
 今回の外国語活動の新設は中央教育審議会からの答申を踏まえたものであるが、その答申には「人材育成面での国際競争も加速していることから、学校教育において外国語教育を充実することが重要な課題の一つ」とあるように、国際競争力には英語力が欠かせないといった判断が重視されている。この国際競争力とは国際経済競争力を意味し、そこで求められている「人材」とは英語力を用いて国際ビジネスのできる人間のことをいう。
 小学校から英語を学ばせたいということの、おそらくこれが本音なのだろう。経済大国日本が他の国の後塵を拝しては耐え難いというのだ。とくにアジアの、中国や韓国などには絶対に負けたくないという思いが感じられる。実際、早期英語教育に関するシンポジウムでは、中国では、韓国では、といったレポートが盛んになされ、このままでは負けてしまうといったことばをたびたび耳にする。
 そんな時ぼくは、負けたり、勝ったりする学習とはなんだろう、と考え込んでしまうのだ。
 そして、そういう位置づけをされた英語という外国語の学習に子どもたちは、どんな豊かさを感じるのだろうか、と心配するのだ。
 本当にそういった考え方は小学校の教育の位置づけとして好ましいのだろうか。もっと大切なものが学校というところの教育には位置付けられなければならないのではないかと、思うのだ。(続く)

(April 16th, 2010)



No. 131 外国語を学ぶということⅠ イメージする力 夢の途中(20)

外国語を学ぶということⅠ イメージする力 夢の途中(20)

 毎日のようにBBCのニュースではアフガンに行った英国人兵士の死が報じられ、棺の行進の映像が流れている。遺族の悲しみははかりしれない。愛する者を失った悲しみは、たくさんの涙を流し、大きな声で泣き叫んでも癒されることはない。失った者が再び戻り来ることはないのだから。悲惨なことだ。
 けれどもまた、その棺に取りすがる遺族の悲しみに重なるもう一つの慟哭が聞こえる。亡くなった兵士が戦った相手の遺族の泣き叫ぶ声である。つまりは、相手を殺しに行った者が殺されて帰ってきたのだ。その間、相手の何人かを殺しているかもしれないのである。
 戦争ということばには、ずいぶん曖昧な、いやらしい狡猾さが潜んでいる。戦争とは、人が人を殺し、人が人に殺されるということだ。それを戦争ということばで表す時、一人ひとりの身近な感覚から遊離した国家間の概念となり、正当化さえ可能となる。人を殺してもよいという理屈が生まれるのだ。けれどもやはり、戦争とは殺し合いなのだ。愚かなことだ。
 しかしながら、その愚かなことを指導する者たちはそれぞれの国やグループのとびきりのエリートたちである。優れた知能と知性を持った者たちなのだ、おそらくは。純真な子どもたちが学習し、努力を重ねて獲得することのできたものの一つが命あるものの命を奪いうるという論理なのだ。そのことを正当化するといった知性なのだ。
 子どもたちはいったい、何のために学ぶのか。

 アメリカに誕生した素晴らしい大統領がプラハで核廃絶の演説をした時、人間の未来はまだまだ信じられるぞと思った人たちが大勢いたに違いない。
 けれども、ノーベル平和賞の授賞式で、正義のための戦争や平和のための戦争という論理を格好良く演説した彼に、あの広島や長崎に落とされた原子爆弾を平和のための投下と位置付けるアメリカという国の手前勝手な論理を重ね合わせた人も少なくなかったのではないか。
 彼はなぜ苦悩を浮かべながら、格好悪く、無様にスピーチをしなかったのだろうかと私は落胆したのだ。彼が胸をそらして言うアフガンへの数万人の兵士の増派はつまり、相手を殺して来いという命令ではないのか。そしてそのことで本当に、確かに、平和が訪れるというのか。
 いやいや、世の中はそう単純なものではないのだよと耳元で諭す賢人がいれば、ぼくは言いたい、ならばぼくは愚かしくも単純でありたいと。
 今年も戦争が続く。一方では自然のメカニズムが大きく崩れてもいく。ため息がなにも生産することはないと知りつつも、気が付くと大きなため息をついている。

 ぼくたちが生きている間に会うことのできる人間の数は限られている。この地球に生きている人間の総数と比べてみればごくごくわずかだ。だから、たとえば、アフリカの山奥に暮らす人たちの毎日の暮らしについては何も知らない。知らなくても生きていけるようにも思える。
 では、身近に接する者たちについてはよく知っているかといえば、実はほとんど何も知らないのだ。知っていることはその人間のごく一部にすぎない。知ったつもりになって、あの人はいい人だとか、あいつは嫌な奴だとか、彼は優しい人だとか、彼女は冷たい人間だとか、決めつけている。その根拠となるものは、入手したささやかな情報である。交わしたことばや顔の表情、たまたま共にした経験や体験、その他のわずかな事柄をもとにぼくたちは、自分以外の人間を評価・査定している。
 好ましいと思っている人間についてはあまり問題ないが、そうではない感情を抱いている者が傍らにいると、毎日が鬱陶しくなる。けれどもその人間について知っていることは、繰り返すが、わずかなのだ。
 別の視点で、異なった角度から、違う価値観でその人物を、あるいは現象をとらえると、全く異なった印象や新鮮な発見に出会うことがある。そうすることでぼくたちがもし、好ましくない人物や現象への温かい理解が可能になるとしたら素敵なことではないか。
 外国語を学ぶということは、母語では獲得できなかった新しいまなざしを手に入れ、見えないものを豊かにイメージする力を手に入れようとすることなのである。(つづく)

(March 12th, 2010)

No. 130 一文字、一文字を 夢の途中(19)

一文字、一文字を 夢の途中(19)

 「ごんぎつね」や「手ぶくろを買いに」などの名作で有名な絵本画家・黒井健はいつも黒ずくめのファッションで決めている。どうしてかと聞くと、「だってボク、黒井だもん」との明快なる応え。
 日本に出張した際、「うまいラーメンが食べたいなあ」というと、「わかった。行きつけの店があるから」といってホテルに迎えに来てくれた。  
 「どうしてラーメンを食べに行くのに、ベンツなんかでいくの? しかも電話で予約なんかして」
 「いいから、いいから」
 連れて行ってくれたのは、恵比寿のしゃれたレストラン。 ファッショナブルなカップルで席が埋まっている。
 「あれっ、ラーメンじゃないの?」
 「まずはここで食事してからね」
 食事を終えると、「じゃあ、いよいよラーメンだ」と車を走らせる。
 「もう、満腹だよ」
 「大丈夫、大丈夫」
 半分残したぼくに、「もったいないなあ。実は今日の昼もここに来たんだよ」と言いながらぺろりとどんぶりを空にした。
 「もう一軒、行こうよ、飲みに」
 「いや、今日のところはやめておくよ。明日、講演だから」
 あの、吸い込まれるような、素晴らしい絵本を描く男は、まだまだ大きな世界を飛び続けるのだろう。彼の食欲やあらゆるものに対するまっすぐなまなざしはそばにいるだけで心地よい。

 健人は黒井健の長男である。彼は成人した立派な大人であるが、今、自分というものをじっと見つめ、考える生活を送っているようだ。ある年の正月二日、彼に今年の抱負は何だと聞くと、一文字、一文字を丁寧に書こうと思います、と答えた。
 ぼくはそれを聞き、うなった。そして、それはすばらしい決意だね、とほめた。黒井健にもそれを伝えた。
 他愛もないことに思う人もいるかもしれないが、ぼくはいい決意・抱負だなと心から感心した。

 そして今年、ぼくの決意resolutionは「一文字、一文字を丁寧に書くこと」である。健人の真似をしたのである。
 考えてみればいつも、急ぐ必要のない時でさえもぼくは、走り書きのような乱暴な文字を書くようになってきているのではないか。
 故に、書いた文字に愛着を覚えない。つまり、残したり、振り返ったりするものに、心がこもっていないのだ。
 残してきたものに、振り返るべきものに対する思いはいつも、そして長い間、ぼくを責め続けてきたではないか。いや、そう思い込んでいただけで、実はいつも一目散に逃げてばかりではなかったか。
 一文字、一文字を丁寧に書こうと思う。
 そうするためには、焦る心を押さえ、静かな心を持たなければならない。対峙するものとまっすぐに向き合うということだ。怯(ひる)むことなく、じっと見据えるということだ。
 それはおそらく、今を大切に生きるということを意味するのだろう。

 正月はいい。誰もが生まれ変わることができる。三日で躓(つまず)き、ああ今年もだめかなどとつぶやいている者もいるかもしれないが、なあに、気にすることはない。一年後にはまた新しい年が必ずやってくる。それまでじっくり力を付けて、来年こそはもっと長く続けられるようにすればいいのだ。
 色鉛筆の芯をほぐしながら目に見えないものまでもつかまえようとする黒井健も、じっと、切ないほどに自分を見つめようともがく健人も、ぼくも、愛すべき者たちも、ひとしく新年を迎え、生まれ変わったのだ。
 目の前の一文字、一文字を大切に、丁寧に、心を込めて、きれいに書こう。間違ったら、消しゴムで消して、書きなおせばいいのだ。一文字も間違えずに書ける人間なんか一人だっていないのだから。
 しかし、書かなければならない。
 恐れず書かなければならない。
 書こうとしなければならない。
 一文字から書きださなければならない。文字は、ことばを産み、ことばは愛する人に語りかけ、ことばは立ち尽くす自分に語りかけてくれるのだから。
 まずは、一文字書くのである。丁寧に、心を込めて。

(January 25th, 2010)

No. 129 線 夢の途中(18)

線 夢の途中(18)

 子どもの頃ぼくは、よく一人で遊んだ。本を読み、絵を描いた。庭の木々や草花を繰り返し描いた。特に、決して華やかではないマツバボタンの花を好んで描いた。大きな樹木も描いたが、気がつくとまたマツバボタンを描いていた。
 絵を描くのが好きなのだなと思った親は、プロの画家の先生のところにぼくを連れていった。毎週のようにぼくは、その先生に連れられてスケッチ旅行に行った。小学校に入る前のぼくは、大人の男の画家と二人きりで海に向き合ったり、山に入り、滝の傍らに咲く草花を描いたりした。何時間もほとんど話すことはなく、時々彼はぼくの絵を覗き込んでは、一言二言何かを言った。母親の作ってくれた弁当を食べる時も、静かにあたりを眺めていた。
 彼はしかし、厳しかった。いきなり描き出してはいけないとぼくの逸(はや)る気持ちを制した。よく見なさい、静かによく見なさい、と彼は描こうとするものをじっと見つめることを教えた。
 ぼくは見つめた。そしてある時、ハッとしたのだ。ぼくはいつも柔らかい鉛筆で下書きをし、縁取られたそれに色を塗っていったのだったが、ぼくが見つめた草の葉には、そして花には線による縁取りがなかったのだ。
 家に戻り、卵をテーブルの上に置いた。そしてじっと見つめる。ぼくが描くすべてのものはいつも線によって縁取られていたが、よく見ると卵のどこにも線はなかった。掌(てのひら)を見つめる。柔らかな肌色のどこにもやはり線はなかった。
 線を引くことなく絵を描いてみよう、そう思ったぼくは、筆に絵の具を含ませると白い画用紙にいきなり塗りつけていった。それに気付いた先生は、ほうッ、と微笑んだ。その微笑みの意味はぼくにはわからなかった。
 モノが持つと思い込んでいた線という縁取りがぼくの視線から消えると、影さえも不思議な生命力を感じさせた。少年の日、ぼくは密やかなものに触れた衝撃に打たれた。

 平山郁夫さんが亡くなった。日本画の最高峰として偉大なる業績を残した彼とずいぶん前のことだが、二人でのんびり小一時間ほど話したことがある。
 彼が旧制の中学生(現高校)の頃の思い出話である。彼が通った学校は藩校を前身とする私立男子校で、いわゆる進学校である。
 日本語学者の三上章(「象は鼻が長い」等の著者)も数年、教師として勤めたその学校にぼくも、国語を教える青年教師としてしばらくの間勤めたことがある。
 学校の周りをのんびり歩きながら平山さんは、懐かしそうに彼の少年時代を語った。
 「この塀を乗り越えてね、ええ、授業をさぼってね、お好み焼きを食べに行ったんですよ、仲間とね。うまかったなあ」
 「先生たちは怖かったけれど、立派でね」
 ある雑誌に特集されるということで懐かしいキャンパスを訪ねた彼は、日本の画壇の最高峰という必要のない威厳のようなものは微塵も感じさせなかった。少年時代を思い出しながら静かに息を吸い、吐いていた。
 「K君は元気かなあ」
 「ええ、お元気です」
 かつての同級生の名前を挙げて彼は聞いた。Kはその時のぼくの同僚で、音楽教師をしていた。
 東京芸大の学長を務めるなどの激職をこなしながら絵筆をとる彼のまなざしは、優しかった。
 「あのう、先生。この学校に先生の絵を頂けませんか」
 気が付くとぼくはとんでもないお願いを彼にしていた。彼の息遣いを後輩である子どもたちに直接感じさせたい、そう思ったのだった。
 「わかりました」
 いやな顔一つせずに彼は、微笑みながらそう答えた。他の画家とは桁違いに高額で、値段のつけようがないという画家の絵をくれないかと簡単に言ったぼくは、一瞬聞き間違ったかなと思ったが、彼はゆっくり肯いた。
 あくる日ぼくは、そのことを校長に伝えた。驚いた校長は本当かと何度も聞き返した。しばらくして、大きな絵が届いたのだった。

 人間を、心を、描こうとする。さて、どう描こうか。線を引かなければ切り取ることのできない対象は、けれども線などは持っていない。ぼくはいつの間にか、縁取ることでものをとらえたつもりになってはいなかったか。
 ことばもまた、同じである。

(December 11th, 2009)

No. 128 忘れ物 夢の途中(17)

忘れ物 夢の途中(17)

 よく忘れ物をする。旅行中はホテルに忘れ、レストランに忘れ、会議室に忘れる。ペンを忘れ、眼鏡を忘れ、書類を忘れる。買い物をすると、その買ったものを忘れて店を出る。少しばかり時間があるからと駅のコインロッカーに荷物を預け、その荷物の存在を忘れて新幹線に乗り、一駅も二駅も行ってから思い出す。若い頃からそうなのだ。

 旅立つとき、故に、いつも何かを忘れているような気がしてならない。けっして忘れてはならない、そういうものをぼくは忘れてはいないか。

 昔の教え子が訪ねてきて、昔のぼくについて語る。未熟なはずのその頃のぼくにぼくは、嫉妬のような不思議な心の揺れを覚える。教え子の思い出話の中のぼくは活き活きと走っているのだ。伸びやかに呼吸をしているのだ。まっすぐに全力疾走をして今日まで来たはずのぼくがかなわない、青年という名のぼくがそこにはいる。
 いや、そんなはずはない。ぼくは間違いなく今のほうが純粋で、知的である。若い頃のぼくは何も知らぬが故の、いわば未熟な純粋さを持っていたかもしれぬが、いまのぼくは数多くの体験や経験を経たのち、あるいは大きな責任や義務を背負いながら、それらを乗り越えて得た本物の純粋さを持っているはずだ。闘い、傷つき、起き上がり、そうしたのちになお純粋であろうとすることのほうが尊いに決まっている。いや、それこそが純粋という言葉にふさわしいのではないか。
 確かに若い頃は前を見ていればそれでよかった。責任や義務といった抱えるべきものはわずかであり、それらを捨てることになったとしても何度でもやり直すことはできると信じていた。未来を見つめ逡巡することなど必要なかった。故に伸びやかに走ったり、飛んだりできた。
 けれども、歳をとり、多くのものを背負った時、足下を見つめ、振り返り、しかしなお、前に一歩、歩みを進めることは確かに苦しく、つらいことであり、それでもなお純粋であろうとすることは、若いときのそれとは比べようもない力が要るのだ。そこにある純粋さこそが誇るべきものではないか。
 しかし、本当にそうだろうか。ではなぜぼくは、今のぼくは立ち止まるのだ。立ち止まってため息をつくのだ。ぼくが手にしてきたものは、伸びやかさや純粋さといったものではなく、ただ狡猾な弁明やごまかしだったのではないか。ちっぽけな自分の心のみを宥(なだ)め賺(すか)す愚かな言い訳だったのではないか。ぼくは自分の心をも偽ろうとしているのではないか。
 そうなのか? いや、違う。ため息をつくぼくが求めようとしているものは、少年のころや青年のころには見えなかった、もっと高く、もっと輝き、力あるものなのだ。
 大人になってようやく見えてくるものがある。繰り返し転ばなければ見えてこないものがある。大量の本を読み、音楽を聞き、絵画と向き合い、お酒を飲み、口論し、恋をし、裏切られ、病に倒れ、肉親を見送り、命が生まれ、そういった様々な経験や体験が、あるいは学習が、それまで見えなかったものを見えるようにしてくれる。
 それは、〈愛する〉ということだ。〈愛する〉ということの厳しさであり、優しさであり、大きさである。純粋であるとは〈愛する〉力を持っているということであり、〈愛そう〉とすることである。
 この〈愛〉はしかし、難しい。油断すると利己的なものになり、危険な力を持つことになる。自分が幸せでないと他の人を愛したり幸せにしたりは出来ない、という若者がたくさんいる。だから、まずは自分が幸せにならなければ、というのである。この陳腐な論理はかなり支持されており、故にわがままが正当化される。
 ぼくにはまだ〈愛する〉ということを定義する力はないが、かつて何度か〈愛〉というものに触れたような気がするのである。極めてささやかな日常の生活の中でぼくは、それらに包まれて微笑んだ思い出があるのだ。それはいつ、どこにあったのだろう。
 それを思い出さねばならない。いつまでもそれを忘れ物として放っておくわけにはいかない。なぜならぼくは今、旅立とうとしているからである。もう一度ぼくは旅に出ようと思っている。旅の支度は時間をかけずに、あっさりとしたものにしよう。けれども忘れ物をしたままでは旅立てない。ぼくが〈愛〉にほほ笑んだその時を思い出さなくてはならない。それはどのような風景であったか。その風景を求める旅なのだから、しっかり思い出さなくてはならない。

(October 27th, 2009)

No. 127 捨てることば 夢の途中(16)

捨てることば 夢の途中(16)

 夜中に目が覚めた。もっと眠らなければと思うのだが、眠れない。目を瞑ったまま、頭の中のカオスの整理を試みる。

 ことばとは何だろう。
 ここに「林檎」があるとする。いや、「林檎のようなもの」だ。名前はまだない。木の実であることは確かだ。じっと見る。触ってみる。指で弾いてみる。舐めてみる。齧ってみる。噛む。飲み込む。この木の実がどのようなものであるか、少しわかる。
 ここに「林檎」がある。蜜柑でもバナナでもなく、間違いなく「林檎」である。触ったり、食べてみたりしなくとも、それはかつての経験や体験、学習した結果身につけた知識によってわかる。
 ここに一人の「人間」がいるとする。いや、「人間のような動物」だ。名前はまだない。動物であることは確かだ。じっと見る。触ってみる。撫でる。指で弾いてみる。舐めてみる。抱えてみる。噛む。この動物がどのようなものであるか、少しわかる。
 ここに一人の「人間」がいる。犬でも馬でもなく、間違いなく「人間」である。撫でたり、抱えてみたりしなくとも、それはかつての経験や体験、学習した結果身につけた知識によってわかる。
 ここに一人の「男」がいるとする。いや、「男のような人間」だ。名前はまだない。人間であることは確かだ。じっと見る。触ってみる。撫でる。指で弾いてみる。舐めてみる。抱えてみる。噛む。この人間がどのようなものであるか、少しわかる。
 ここに一人の「男」がいる。女ではなく、間違いなく「男」である。撫でたり、抱えてみたりしなくとも、それはかつての経験や体験、学習した結果身につけた知識によってわかる。
 ここに「悲しい」という感情があるとする。いや、おそらくそれは「悲しい」というような感情だろうという程度だ。名前はまだない。心の中に芽生えたものであることは確かだ。じっと考える。悩む。泣く。叫ぶ。それらをじっと見つめる。「悲しい」という感情がどのようなものであるか、少しわかる。
 ここに「悲しい」という感情がある。それは「嬉しい」とか「にくい」といった感情ではなく、間違いなく「悲しい」というものだ。いちいち考えてみなくとも、それはかつての経験や体験、学習した結果身につけた知識によってわかる。
 ここに「愛する」という思いがあるとする。いや、おそらくそれは「愛する」というような思いだろうという程度だ。名前はまだない。心の中に芽生えたものであることは確かだ。じっと考える。思う。焦がれる。悩む。欲する。喜ぶ。悲しむ。泣く。笑う。沈む。浮かぶ。走る。立ち止まる。見上げる。うつむく。振り向く。待つ。あげる。もらう。産む。失う。それらをじっと見つめる。「愛する」という思いがどのようなものであるか、少しわかる。
 ここに「愛する」という思いがある。それは「嬉しい」とか「にくい」といった感情ではなく、間違いなく「愛する」という思いだ。いちいち考えてみなくとも、それはかつての経験や体験、学習した結果身につけた知識によってわかる。

 「林檎」ということばを用いた瞬間ぼくたちは、「林檎というもの」を認識する。「人間」ということばも、「男」ということばも、「悲しい」ということばや「愛する」ということばも、ぼくたちにそれらの意味や感情や思いを明確に整理した形で与えてくれる。そうすることでぼくたちは安心する。
 けれども、そこで認識されたものは既成の知識や経験の枠の中で処理されるのであって、多くの場合それは、それ以外の何ものでもない。
 たとえば「林檎」は、あくまで今までに知っている「林檎」でなければならない。「四角い林檎」などは認められない。
 たとえば「愛する」ということばを用いるときぼくたちは、いつかどこかでインプットした「愛するということ」についての知識や見解や態度や姿勢や方法などといったもので、今まさに目の前にある「愛するもの」に向き合うのだ。その範疇にないものは認められず、時に、あっさりと捨ててしまったりもする。
 けれどもぼくたちが「その時」までに知りえたことやものというのは、そのものが持つ全体像のいかほどであることか。ぼくたちが知ることができるのは常に、そのものや事柄の一部分にすぎない。その一部分にことばというものを当てはめているのだ。つまり、ぼくたちはことばを用いることで、多くのものを捨てているのである。文学的表現の比喩などはそれらを克服しようと挑み続けてはいるのだが。

 頭は冴えるばかりで、今夜もやはり眠れない。

(September 25th, 2009)


No. 126 道幅1.5メートルの教育 夢の途中(15)

道幅1.5メートルの教育 夢の途中(15)

 日曜日の夕刻、柔らかい日差しの中を散歩する。樹林を切り裂いた小道を、時折横切る栗鼠たちと一緒に奥へと歩み入る。突然、芝の公園が現れ、真っ白いユニフォームを着た男たちがクリケットに興じている。そこには当たり前のように穏やかな時間が流れている。ぼくのわずかばかりの疲労感は、そういった風景の中に溶けていき、気がつくと小椋桂を口ずさんでいる。
 持ってきた文庫本を枕にして芝の上に横になる。空はまだ薄青色をしていて、高い。
 どうしてだろう、吸われてしまいそうな空を見ながらつぶやく。教育の専門家である先生と呼ばれる者たちが、今の社会が評価するものばかりを追いかけて必死である。
 たとえば、「百マス計算」である。テレビで特集されたものしか知らないのだから、論評は差し控えなければならないのかもしれないが、少なくとも「百マス計算」に好意的な報道を見ての感想であるのだから許していただきたい。計算の速度と正確さを競う言わば訓練をストップウォッチを用いて行っていたのだが、その風景にぼくは怒りさえ覚えたのだ。こういった訓練を、幼い子どもたちは「学ぶ」ということだと思うことになるのだろう。他人よりも多くの計算ができたことに喜びを感じ、できなかった者を蔑(さげす)むことになるのではないかと心配する。何より驚いたのはそれらを担当する教師たちの表情であった。まるで安っぽいゲームを楽しむような、教育とはずーっと離れた遠いところに置かなければならないはずの、貧しさや卑しさを感じたのだ。まずは基礎力をつけさせるので、そのあとじっくり考える力は養成するのだ、とその教師たちは言う。それは根本的に間違っている。このような学び方で鍛えられた者は、じっくり考えることをしようとはしなくなるのだ。「まずは」というのは大人の勝手な論理である。その論理は、「わかりやすい」ということから導かれる。大人にわかりやすい力(学力)なのである。
 たとえば、「夜スペ」である。民間企業から公立中学校の校長になった者の発案で始まった。彼は成績上位の者たちのことを「吹きこぼれ」と呼び、その者たちへの特別教育を学校で行なおうとする。「上位層を伸ばすのも公教育の役目だ」といい、大手進学塾の講師たちが放課後の教室で特訓する。ここで身に付けた学力は「学力テスト」で測られる。つまり、テストで測ることのできる学力を養っていく。学校と塾との垣根がなくなったのである。放課後の教室は点取り競争をする者たちの戦場となり、彼らの言う「学力が低位の者たち」ははじき出される。代わりに土曜日に「底上げ」の教室を開いていると彼は胸を張る。
 「百マス」も「夜スペ」もメディアが大きく取り上げて、二人は教育界のスターとなる。大阪のタレント知事はこの二人を招へいし、大阪の教育の改革の旗振り役とした。確かにこの知事は大阪の赤字財政を立て直し、中央政権と闘うかっこよさを持っているが、少なくとも教育については大きな失政と言わねばなるまい。学力テストの点数を上げることが教育の向上であると考える単純さは、確かにわかりやすいのだろう。いや彼はもっと強(したた)かで、一般大衆は単純な論理でなければついてこないと考えているのだろう。少し前の政権が短いフレーズ(語句)で大衆を煽ったそのストラテジー(戦略)と同じなのだ。彼は学力テストの成績が上がったその時、誇らしげに言うのだろう、「私が大阪の子どもたちの学力を上げました」と。
 数字は絶対であり、わかりやすい。8は5より3大きいのである。けれども、子どもたちが、たとえば学校というところで学ばなければならないのは、数字で表すことのできるものばかりではない。いくら考えてもなかなか答えの見つからない事柄についても、考えようとしなければならない。たとえば、「幸せってなんだ」と問わなければならない。ぼくの、私の、幸せばかりでなく、生まれてすぐに死んでいかなければならない子どもたちの存在についても推し量り、慮(おもんばか)る力をつけたい。そういった力は数量化できない。
 ぼくたちに必要な力はわかりやすくて、数量化できるものばかりではないのだ。学校は、今の社会にとって都合のよい人間の生産をする工場ではない。一見役に立たないものも大きな意味を持っていることを大人たちは、教育者は、為政者は知らなければならない。人間が簡単に測ることのできる力は、簡単であるがゆえにわずかばかりの力である。
 家に戻りながら、足元を見つめる。ぼくが歩くのに必要な道幅はわずか1.5メートルもあれば十分だ。けれどももし、この道が1.5メートルの道幅しかなく両側が断崖絶壁であったなら、ぼくは足がすくみ、のんびりと歩くことなどできないだろう。今踏みしめている道が踏みしめない大地とつながっていて初めて、ぼくは歩くことができるのである。

(August 10th, 2009)


No. 125 あの頃の 夢の途中(14)

あの頃の 夢の途中(14)

 吉田(和彦)さんがわざわざ新幹線に乗ってやって来て、教え子たちも一緒に酒を飲む。吉田さんはぼくの後輩で、日本で暮らしているときはいつもそばにいた。
 ぼくが研究発表をするときはいつも、レジュメの印刷を手伝い、段ボールに詰めたそれを抱えて大会会場までついてきた。ぼくが組織した研究会のメンバーとして、ぼくのわがままや厳しさ、甘さや未熟さをだれよりも知っている男だった。
 ぼくたちは狂ったように仕事をし、狂ったように酒を飲んだ。ぼくがウイスキーのボトルを一本空けると、彼も同じように一本空けた。そしてあくる日はきまって、二日酔いでのたうちまわっていた。ぼくたちは激しくわがままな兄と優しく善良な弟といった関係だった。
 彼は自分が仲人をした若い教員を連れて来てぼくを紹介し、「この人がぼくの原点なんだ」と言った。ぼくはいつか言わなければいけないと思い続けていた言葉を、20年以上も経ったその時、ようやく言うことができた。「ぼくは吉田和彦を尊敬しているよ。この男はね、立派な教師なんだ」
 研究の仕方や教育について、いつもいつも激しく彼を叱責していたぼくは、彼をもう一人のぼくに見立てていたのだ。彼にもっと頑張らなければと言うとき、ぼくはぼくを叱責していた。ぼくは彼が好きだった。
 「壱岐(俊平)さんがいよいよ定年で退職だってね。壱岐さんから、あの頃はよかったね、と書いた年賀状が来ていてね」、吉田さんにそう言いながらぼくは、胸にこみ上げてくるものをどう抑えたらよいかめんくらっていた。
 壱岐さんはぼくの兄貴のような存在で、酒は彼に教えてもらった。夕方になると彼は、「行こうか」と飲みに誘うのだ。魚のうまい店で日本酒をそれぞれ軽く一升は飲み、それからスタンド・バーに向かう。そこではサントリーのオールドかリザーブを水割りで飲むというのがいつもの流れだった。そのバーには、その頃のぼくから見たらずいぶん年上のママさんともう一人のやはり中年の女性がいた。10人も入ればいっぱいになる狭いその店には常連の男たちしかいなかった。
 酒を飲み、歌を歌った。その頃のカラオケは今のようなものとはずいぶん異なり、映像などはなかった。
 ぼくはそのお店の誰からもかわいがってもらった。生まれて数カ月の長男を抱いて、ぼくはそこで水割りを飲んだ。常連の男たちは、「まったくもう」とあきれながら微笑んだ。
 壱岐さんはいつも優しかった。彼はとめどもなく駄洒落を言っては笑わせ、笑った。その彼はだれよりも教育熱心で、おそらく辞めるまで青年教師として情熱を注いだことだろう。
 むしょうに声が聞きたくなった。吉田さんに言って電話をかけてもらう。
 「あのう、夜分、すいません。今、図師先生と一緒なんです。ロンドンから帰ってきておられて、電話をしろって言うので」
 「え、図師さん?」
 電話の向こうで、壱岐さんが話し始める。不覚にも、涙が浮かぶ。一緒に飲んでいた連中が静かになる。
 どうしてだろう。
 どうして、あの頃の声に涙が出るのだろう。
 あの頃、ぼくたちは若かった。がむしゃらに仕事をし、徹底的に飲んだ。一所懸命であることは当然で、そのことで自分の未熟さを言い訳しようという者はいなかった。
 ぼくたちは自分の未熟さを知っていた。お互いの力の無さを認識していた。だから、頑張るのは当然だと思っていた。頑張っている仲間の苦しみを黙ってみていた。慰めたり、表面的な励ましを言ったりすることなどまったくなかった。それどころか、厳しく磨き合おうとした。
 大酒を飲みながらの話題はほとんどが教育のことで、つまりは昼も夜もどっぷりと仕事に浸かっていた。
 壱岐さんの先輩に大鎗(正昭)さんがいた。ある日、彼は日本から手紙をよこした。「図師さん、日本の教育はどんどん変わっていくよ。こんなはずじゃなかったと思うんだよ。油断すると、また戦争に若者を送り出すような、そんな教育の片棒を担がされてしまいそうで」と書かれていた。彼もまた、真摯に教育に向き合っていた。
 松井(博文)さんや向井(均)さんはもっと先輩だったが、まるで本当の兄弟のように支えてくれた。甘えるような喧嘩もした。この二人の存在はぼくの人生に大きな意味を持っている。
 あの頃、ぼくたちは、ぼくたちであった。ぼくだけで終結するのではなく、ぼくたちであった。ぼくたちは同じ空気を吸い、激しくもがきながら、一緒に生きた。
 あの頃、ぼくは未熟で、みんな未熟で、その未熟さに甘えないようにしような、そう声を掛け合って生きていた。

(July 10th, 2009)



No. 124 おおい、雲よ。 夢の途中(13)

おおい、雲よ。 夢の途中(13)

 夕刻になるとロンドンは空を青くする。そしてそこには、やわらかな白い雲が浮かんでいる。ぼくは椅子を回して、部屋の中からしばし眺める。今年のロンドンの初夏は美しく、晴れ渡る日が多いように思う。
 キャンパスの芝の上を幼な子が頼りなげに走り回る。母親らしき若い女性が追う。それを、離れて見守る老人がベンチに腰かけている。
 ぼくはぬるくなったコーヒーを口に含む。立ちあがってステレオに向かい、ボッチェリAndrea BocelliのIncanto(CD)を流す。盲目のオペラ歌手の、青竹の匂いを思わせる声がぼくを遠い日へと誘う。

 リフト(エレベーター)を降りると不思議なことにぼくはかすかな緊張を覚えた。どうしてだろう、と戸惑う。日本出張中のぼくは、宿泊しているホテルの部屋からかつての教え子の待つロビーへと向かっていた。
ぼくを見つけ、ロビーのソファから立ち上がり、「先生ッ」と言った彼は、いい顔をしていた。まるで少年だ。もはや中年の彼には、けれども青い竹の匂いがした。
 20数年ぶりの再会は喜びにあふれていたが、瞬く間に過ぎた。レストランではワインを飲み、ぼくの部屋では日本酒を飲んだ。彼の作った曲を聴き、静かに語る彼の軌跡を聞いた。
 夜が更け、ホテルの出口まで送ったぼくに抱きついた彼は、声を出して泣いた。
 部屋に戻り、ぼくはもう一度グラスに、今度は強い酒を注いだ。「がんばれ」と呟く。

 雲が流れていく。すこし風が出たようだ。けれども、のんびりとしたものだ。微かにほほ笑みながら流れていく。どこへ?
 ぼくの住むイギリスは、日本からは随分遠い。父が死んだ時はロンドンに、長兄が死んだ時はケンブリッジにいた。人は数百メートルも離れていれば、もう見えなくなる。見えないという意味では地球の反対側にいるのも同じだ。会いたいという時に駆け出していけば会えるというのと、駈け出したってすぐには会えないというのとの違いである。
 少し切ないが、近くにいたって何も見えていないことがあるじゃないか、と自分を慰める。

 時に、すべてがつまらないものに思える。世の権威あるものに薄っぺらさと醜さを感じるのだ。テレビや新聞の伝えるもののどれもこれもが、大切なものを放っておいてどうでもいいことに躍起になっているように思える。笑いの中に、怒りの中に、涙の中に、ぼくは偽りを感じてしまう。
 子どものころ食べた西瓜の甘さはどこへ消えたのだろう。蛍を追いかけた時の闇の怖さはどこに行ったのだろう。近所のおばあさんの慈愛に満ちたほほ笑みはいつなくなったのだろう。

 ちぎれて取り残された白い雲が浮かんでいる。
 モディリアーニAmedeo Modiglianiの画集を開き、「ジャンヌ・エビュテルヌの肖像」をみる。14歳年下の愛人を描いたこの絵は見つめてはいけない。動けなくなり、何かを差し出さねばならなくなるから。飲んだくれで女たらしの天才画家はモデルとなったジャンヌに見つめられることで生きた。画家がモデルを見つめたのではない。
 日本で買った『子葉声韻』(高貝弘也)を読む。「どうして、幼い子どもばかり死ななければならなかったのか」で始まる詩集。秀逸だ。言葉が勝手に動き出したかのような生命力がある。

   雲もまた自分のやうだ
   自分のやうに
   すつかり途方にくれてゐるのだ
   あまりにあまりにひろすぎる
   涯(はて)のない蒼空なので ―「ある時」(暮鳥)

 陽が落ちようとする。雲はどうするのだ。陽が落ちてしまったあとで、お前はどこへ行こうとするのか。
 おおい、雲よ。
 ぼくの心を吸ったお前はそれをどこへ運んで行こうというのか。ぼくの心はそこで、幸せにほほ笑むことができるというのか。

 飲もうとしたコーヒーはポットを傾けてももう出てこない。今日も5、6杯は飲んだだろうか。

(June 11th, 2009)

No. 123 天命を待たず 研究所創立20周年 夢の途中(12)

天命を待たず 研究所創立20周年 夢の途中(12)

[人事を尽して天命を待つ]という言葉がある。「人間として出来るかぎりのことをして、その上は天命に任せて心を労しない」(広辞苑)という意味だ。
 がむしゃらに走ってきたぼくは時に、この言葉で以て自分を支えた。やれるだけのことをやったのだから、と自らを慰めた。神社やお寺では賽銭を上げて手を合わせ、教会を訪れた際には頭(こうべ)を垂れる。
 けれども今、この言葉に甘えようとした自分を恥じるのだ。そもそも、「人事を尽し」たことなど一度もないのではないか、と振り返ってそう思う。ほどほどの努力しかしていないのに全力で事に当たったと納得してきたように思うのだ。いや、正確にいえば、納得しようとしてきたのだ。つまり、ぼくにはわかっていた、その妥協が、あきらめが。
 ゆえに、ぼくにはうしろめたさがつきまとってきた。もっと、もっと、どうして努力しなかったのだ、と。
 「天命を待っ」てはいけないのだ。「天命」などないのだ。すべては自ら生まれ、自らに対峙し、自らを裁くのだ。

 今年の4月で研究所は20歳になった。ようやく大人になる歳なのだが、まだまだ幼く、未熟である。
 瞬く間に過ぎた20年であったが、その質感は重い。教育とは何かという問いに真直ぐに向き合ってきたつもりであったが、振り返ってみると自分の愚かしさだけが思い出される。
 20年前のぼくは、確かに20歳若かった。ある神父が当時、「人生は闘いです」と話してくれたが、ようやく今、少しだけそれがわかるようにもなった。その時ぼくは、神父への手紙に「何のために人は闘わなければならないのですか」と問うた。おそらくその闘いとは「生きるとは何か」と問うことであろう。それはつまり、「死ぬ」ということについて考えることでもある。

 この20年の間、ぼくにとって幸せであったのはさまざまな人との出会いである。研究所の所員として支えてくれた数多くの者たちに、まずは感謝したい。今年の4月3日の創立記念日にぼくは、ロンドンのピカデリー通りに面した研究所の最初のオフィスを訪れた。そこは20年前の、瀟洒で、贅沢な出発点であった。
 突如、ぼくの眼頭が熱くなり、必死でこらえた。さまざまな仲間たちの顔が浮かんできたからである。
 20年前のある夜、その裏通りのパブで、当時のぼくのアシスタント(補佐・イギリス人)の男と激しい口論をした。ぼくには彼の使う[business]という言葉が我慢ならなかった。「ぼくはbusinessをするつもりはないんだ。ぼくがやろうとしているのは教育なんだ。どうして君にはそれがわからないんだ」
 ぼくにはその頃、[business]という言葉の持つ意味の広さを理解する力がなかったのだ。教育一家に育ったぼくは、その言葉になんとなく卑しい響きを感じていた。彼は「Good luck!」と言って去って行った。そのパブは今はなく、日本食のレストランになっている。
 数多くの者たちとの擦れ違いがあった。そのすべてがぼくの未熟さによるもので、一人ひとりにお詫びを言い、またお礼を言わなければならない。
 それにしても、なぜかすべての者たちが素晴らしい純粋さにあふれていた。すべての者がぼくの夢や理想を理解しようとしてくれた。一人残らず、ぼくにとっては大切な者たちで、ゆえに切ない思い出である。ぼくにもっと力があれば、もっと大きな愛情があれば、そう思うのだ。
 幸いなことに、現在の所員も含めてみんな、学生に対する教育には打ち込んでくれた。日本の大学教授たちに会うと、ぼくはいつも誇らしげに口にする。「うちのスタッフはすごいんだ。みんな純粋に教育に打ち込み、成長を続けている。だから、学生たちも不思議なほどに努力をし、大きく成長していく」と。
 きっと手前味噌なのだろう。親バカなのだろう。けれども、親がバカと言われるほど子どもを愛して何が悪いのだ。

 ぼくは人事を尽そうと思う。巣立っていった卒業生の一人一人の顔を思い浮かべながら、時に涙を浮かべながら歯を食いしばって仕事に打ち込む仲間であり同士である所員のまなざしを受け止めながら。
 ぼくは天命を待たない。ぼくやぼくたちの仲間の人生は、ぼくたち自身で隅々まで神経を行きわたらせて、自ら作っていこうと思う。
 研究所の20年は、まだまだわずかな一歩である。これからまた、新たな一日一日を積み重ねて、できうる限り純粋に、さわやかに、豊かな教育の世界の創造に努力していこうと思っている。
 今年の春も、桜は美しく咲いた、全身の力を振り絞って。

(May 7th, 2009)

No. 122 退陣要求 夢の途中(11)

退陣要求 夢の途中(11)

■退陣要求(1)内閣総理大臣
 すごい、ものすごい。こんなことが許されるのか。この程度の人物が堂々と最高権力者の地位に鎮座していていいのか。下品、下劣、無教養、いくらでもネガティヴな形容詞が浮かぶ。朝令暮改は日常的で、加えてそのことに対する批判への居直りや恫喝までもある。「濡れ衣を着せるな(彼はカブセルナと言ったが)」とすごんで見せた彼は、漢字だけでなく小学生でも知っている慣用表現もその意味するところをよくは知らぬのだ。数か月前には「おれがやったんだから、そこのところ、よく覚えておいてくれ」とテレビカメラの前でチンピラ並みに啖呵を切ったそのことを、「濡れ衣を着せるな。おれがやったんじゃない」と吐き捨てる。第一、「濡れ衣」というからにはそのこと(郵政民営化)が悪事であったと言っていることになる。あくる日には「やっぱりおれがやった」と言いなおす。論理性なんて何もなく、ただ駄々をこねたり、いちゃもんをつけたりの繰り返しなのだ。世界第2位の経済大国のトップが中学生にまでその知的レベルの低さをあざ笑われているのだが、どうしたわけか他国のトップとの会談をするために世界を駆けまわっている。国会答弁で「俺は、……」という言葉遣いしかできない人物が、どうして品位のある英語が使えるというのか。どうして内容のある協議ができるというのか。恐ろしくてハラハラする。
 不思議なのは、周りに仕える連中である。この「未曽有(彼はミゾユウと読む)」のコメディアンの一挙手一投足をおなかの中で笑いながら楽しんでいるというのか。国益を考えると一日も早く首相という役職も国会議員という立場も辞めさせなければ。彼の盟友の財務大臣も二日酔いと思われる会見で世界に醜態をさらし、大臣職を退いている。

■退陣要求(2)マス・メディア
 朝日、読売、毎日、産経、東京、日経の各新聞の記事を毎日読む。どれもこれももう駄目だ。商品と化した文字には生命力が感じられず、ジャーナリズム精神を感じない。ロンドン駐在のある新聞記者は、ウインブルドンのテニスの試合のテレビ中継を支局で見ながら記事にして、現地からの記事として配信し、こうのたまった、「日本にいる者にはどうせわかんないんだから」と。面白ければいいんだよ、どうせ商品なんだから、というのである。
 メディアが暴力的な力を持ち、跋扈している。通りの隅で刃物をちらつかせてゆすりたかりの類をしている者たちより恐ろしく悪質なのである。
 日本で最も大きな自動車会社(どうやら世界で最も大きな会社になったようだが)の名誉会長という男(経団連の会長もやったことがある)が庶民を苦しめる年金問題を取り上げ検証するテレビ番組をやり玉に挙げた。彼はこう言った、「ああいう番組はけしからん。テレビのコマーシャルなどをやめて報復してやろうか」と。こちらも結局はチンピラなのだ。どんなに社会的な地位を手にしても、心の奥底はその筋の者と変わらない。いや、もっとタチが悪いのだ。すぐに会社をたたんで出直すのがいい。
 こういう言動を新聞もテレビも、メディアはほとんど取り上げなかった。取り上げてもごく小さな記事であった。不買運動の展開が起きてもおかしくない暴言であるのだが。要するに広告を出されなくなると困るからだ。いつもの正義の味方ふうなポーズはどこへ行ったのだ。

■退陣要求(3)似非・教養人
 大学に入学した若者の学力があまりに低いので、中学や高校の教科書を用いて補習する大学が増えているのだそうだ。そのことを推進する団体まで出現している。なんだか頭がくらくらする。
 子どもたちに貧相なプリント教材を配って、ストップ・ウォッチで追い立てながら「百マス計算」などをやらせるのにも吐き気を覚えているが、大学生に対する補習をシステム化しようという者たちが集団を形成しているのには呆れて笑っちゃうぐらいである。しかも、真面目にそういった愚かな営みに打ち込んでいる者たちは大学の教授たちなのである。いや、これは意外なのではないのかもしれない。大学の教授にしてその程度のレベルなのだ。
 大学の教授たちと話をしていて不快になるのは、自分の大学の学生たちの質の悪さをとうとうと述べる輩が多いことである。その大学生たちの教育を担当しているといった責任感が全くというほどないのである。彼らが眼の色を変えるのは研究費という名の自由になるお金の獲得に対してであり、そのお金を使っての海外遊学の楽しみにである。大学における教育の可能性や理想を語る者がほとんどいない今、みんなそろって辞めてもらうことにしたい。

 気持の悪い大気汚染はまっぴらなのだ。権威も権力も、地位も名誉も一度、「ご破算で願いましては」といきたい。

(March 3rd, 2009)

No. 121 ふうと風を産む 夢の途中(10)

ふうと風を産む 夢の途中(10)

正月二日、書き初めをする。子どもの頃からの習慣である。新しい年を迎えて思い浮かんだ言葉を書くのである。
 時間をかけて墨を磨りながら、静かに新しい年の自分を見つめる。気取った言葉を書こうとすると、それを見透かした自分が赤面する。あくまで素直でなければならない。
 うまく書こうとすると、気持の悪い文字が目の前に嘲笑するかのように現れる。心を空しくして書くのがいい。

 今年、ぼくたちの研究所は20周年を迎える。ようやく成人するのである。早いものだ。実態はよちよち歩きからさほど成長していないのだが、それでも振り返ると胸が熱くなる。
 20年前、ぼくは痩せた青年だった。
 若く未熟なぼくの前に、なぜか数多くの人たちが現れた。その人たちは等しくぼくに対して頭を垂れ、笑顔で近づいてきた。ぼくの語る教育についての思いに頷き、褒め称えた。
 しばらくすると、いろいろなプロジェクトが企画され、ぼくはいつもその中心にいた。土曜も日曜もなく、ぼくはそれらの仕事に没頭した。今まで出会うことのなかった世界の人たちとの出会いも増え、ぼくはぼくの世界が急速に拡大していくのを感じた。
 有名な人たちと旅もした。
 さまざまな国を訪れると、空港には航空会社の代表たちが出迎え、酒食を饗してくれた。ぼくよりもずっと年上の人たちが、ぼくの表情に敏感に反応した。
 こうしてくれないかということにはだれもが快く応じた。
 そのうちに、仕事から解放されたぼくは深夜、ぼくの部屋からまっすぐに見えるネルソン提督の像とビッグベンをしばしば眺めるようになった。その頃のぼくのオフィスはピカデリー・サーカスにあった。ビルの最上階の瀟洒な部屋で一人、ぼくはワインを飲んだ。
 ぼくはなにをしているのだろう。
 気がつくとぼくは、大きな仕組みの中で一つの都合のよい歯車と化していた。確かにすべての中心にいたが、その周りにはぼくの知らないモノが蠢いていた。
 教育さえも飲み込もうとする<カネ>という名の化け物である。ぼくが依頼されて作る新しいカレッジ等のカリキュラムやコースデザイン、基本理念や謳い上げる理想といったものがすべて数字化されて知らないところで動いていたのだった。
 ぼくは知らぬ間に立っていた見知らぬ足下を見つめ、それらとの訣別を決心した。
 もう一度始めよう。ワインを飲み干すと、ぼくはたった一人の部屋で、その決意を口にした。全身が熱くなるのを覚えた。
 教育を貶めたり、辱めてはいけない。信ずる教育の創造のためにもう一度始めよう。
 ぼくは毎晩、一人でビッグベンの文字盤を眺めながら<人間と教育>について考えた。多くの人たちと酒を飲みながら語り合ったりもしたが、いつも最後は部屋に戻った。窓のそばに立ちビッグベンを眺めながら、あるいはファイアープレースの前の椅子に腰かけながら、教育の意味について考えた。
 それはぼくがこれからどのようにして生きていくかについて考えるということでもあった。
 その時ハッとしたのは、教育の名のもとに展開されている世の中の様々な営みが、実は多くの場合、その目的に教育とはまったく関係のないものを設定しているということだった。それに関わる者の名誉のためであったり、金銭欲によるものであったり。たとえ高名な学者であろうが、機関であろうが、<人間と教育>についての確かな思いを持つものは少なかった。
 教育は人間を幸せにしていくものでなければならない。この<人間>とは動物としての<ヒト>という生き物を指すのではなく、自分以外の人との関わりを前提とした社会的存在としての人間のことである。人間は自分以外の者たちとの関わりを捨てて生きることはできない。
 <幸せ>とは何か。おそらくそれは<捨てる>ということだ。生まれながらに持っている、あるいは生まれたのちに身につけた<欲>を少しずつ捨てていくことだ。手に入れることではなく、捨てることである。油断するといろいろなものを気づかぬうちに身に纏ってしまうのが人生だ。身に纏ってしまったものは多くの場合、少しの快楽と多大なる苦痛をもたらす。
 それらの身に纏ったものを少しずつ脱ぎ捨てようとするとき働くのが<知性>である。脱ぎ捨てることを続け、最終的に最後に残ったものを捨てる時、安らかで美しい死が訪れる。

 今年ぼくは、「ふうと風を産む」と書いた。静かに、やさしく、心をこめて、息を吐く。それが風になる。

(January 23rd, 2009)

No. 120 変数χの孤独 夢の途中(9)

変数χの孤独 夢の途中(9)

 寒い朝、空が焼けている。きれいだな、と思う。もう少しそのままでいてくれないかなと思う。

 言語分析はぼくにとってはいわば一種のゲームだ。文法のある概念について書かれた論文を読みながら、その論理の破綻を見つけるとぼくは、味方の走者を自分の打撃でホーム・インさせて得点したような軽やかな喜びを感じる。オリジナルの論理を磨きながら微笑むのは、ずっと幼いころの野球ゲームでの独り遊びに通じる。
 小学校に入る前からぼくは、独り遊びを覚えた。同じ年代の子どもたちと遊ぶのに比べて、幼稚な仲間意識や非論理的な秩序に振り回される必要がなく、なにより想像力が満たされた。
 その頃人気のあったスポーツは何と言っても野球だった。だから野球に関する本やゲームが店先にはいろいろあった。もちろん今風のコンピュータを使ったゲームなどではなく、ボード・ゲームがせいぜいだった。パチンコ玉のようなボールを転がして、ボードに張り付けられたバットで打つといった他愛もないもので、ゆえにすぐに飽きた。小賢しい細工が施されてはいたが、それがかえって興ざめだった。プレゼントで貰ったどんなに新しいものもすぐに興味が失せていくのだった。
 そこでぼくは、自分で作ろうと考えた。既成のもののように磁石やほんの少しの電気を使うのではなく、単純で、ふくらみのある仕組みはないかと考えた。いろいろ考えた上で、行き着いたのは薬品を入れた箱などのコーナーにくっついている堅いスポンジと鉛筆とを用いた何とも地味でみすぼらしいものだった。ボードの上に様々な模様を描き、二つのチームの選手を決め、投手の持ち球や決め球をそれぞれ設定した。決め球は絶対的ではなく、相性を組み合わせ、と次から次へとゲームの密度は複雑になっていった。ぼくは試合の解説をしながら延々と何時間も一人で遊んだ。目の前のボードの貧弱さとは大きなギャップのある高度で豊かな<遊び>が展開した。想像と創造の楽しい空間だった。あるいはその頃の遊びの方が今の言語分析よりも夢中だったようにも思える。
 いや、その頃も、夢中になっている自分に耳元でささやく声が聞こえていた。ぼくはほとんど毎日全力疾走で生きているが、ときにふと、耳元でささやく声に立ち止まるのだ。<ボクハ・イツマデ・ボクナノダロウカ>
 懸命に記録を伸ばそうとするオリンピックの選手たち、もはや絶対に使いつくすことのない財力を持ちながらさらに富を得ようと睡眠時間まで削る経済人、名誉と権力のために必死に演説する政治家、研究のために家族も友人も捨てる学者、いやこういった者たちはほんの一例に過ぎない。この世に生きとし生けるもののすべてに、ある悲しみがある。

 ぼくは幼い頃からよく空を見上げた。ずっと、ずっと上のほうからだれかが覗いているのではないかと思ったのだ。そしてまた、ぼくは不思議だった。足下を見つめ、この地面は何が支えているのだろう、と。
 ぼくたちはある方程式のχに投げ込まれた変数にしか過ぎない。あらかじめ設定されている方程式の一変数に過ぎない。ゆえに、χに放り込まれる数字の間で個性だの優劣だのと言ってみてもそれは滑稽なだけだ。ぼくたちは大きな誤解の中で生きている。最も大きな疑問と向き合うことから逃れながら、ごまかしながら、ほどほどの納得の上に築いた生なのだ。すなわち、<生きている>ということさえもあるいは誤解なのだ。もがき、喘ぎ、苦しみ、あるいは笑い、喜び、そういったものが落ち着くところはあらかじめ設定された方程式の箱の中なのである。
 深く考える恐怖から逃れるために、ぼくたちは眠る。眠るために、歩き、食べ、恋をする。どのように歩くかとか、何を食べるかとか、どんな恋をするかとかは恐怖から逃れるためのちょっとしたレトリックやカムフラージュに過ぎない。そういったもので飾りつけることで、確かに眠りが訪れやすくなるのかもしれない。深く眠ることのできる者たちは幸せだ。けれども、眠ることを忘れた者たちは夜毎考えなければならない、<ボクハ・イツマデ・ボクナノダロウカ>と。
 χには毎日おびただしい数の変数が投げ込まれてくる。それぞれの変数は単なる一つの変数に過ぎない。変数χはゆえに孤独である。時と空間を見失いながら、χという入れ物の中でため息をつく。けれども、なかに何とか首を伸ばして隣のУを見ようとする、あるいはχから逃げ出そうとする変数が、いや、いまい。

(December 4th, 2008)

No. 119 ごめんね 夢の途中(8)

ごめんね 夢の途中(8)

やはり、書いておくことにする。書いておかなければならないと思うのだ。他の形で書き遺すつもりでいたが、書ける時に書いておくのがいいように思う。この濫觴には今までも恥ずかしいことも心の内を曝(さら)すように書いてきたのだから。

 長男の空(そら)には、秋(あき)という息子がいる。23日の今日で満1歳になる。つまりは孫というわけだ、ぼくにとって。
 空は教育者として多忙な生活を送っている。大学やカレッジで教え、ケンブリッジ英検やIELTSの出題委員も兼務する。空手も時間を作っては道場で教えている。大変なスケジュールをこなしている彼を見ていると、若い時の自分の姿を想うのだ。
 ぼくもまた、疾走する毎日だった。教育に加えぼくは、文学の世界にも棲(す)んでいた。とにかく必死で、もがくように努力をした。けれども自分の未熟さは識っていた。未熟である自分を、よく咀嚼していない理論や大量のアルコールでごまかしながら走っていた。深夜の路上で嘔吐しながら、痩せた才能を信じようとした。周囲はそのぼくをなぜか許し、認め、評価し、つまりは甘やかした。ぼくはそのことを十分に認識していたが、ゆえにいつも不安だった。逃げ出したいと思っていた。
 ぼくには3人の子どもがいる。空と次男の陽(よう)、それに長女の花(はな)である。それぞれ成長し、アカデミックな世界で何とか生きている。
 その子どもたちをぼくは深く愛しているが、空が赤ん坊の秋を愛するその姿を見て、ぼくはぼくを責める思いに襲われ、立ち尽くすのだ。
 空は多忙にもかかわらず、息子の秋を徹底的に抱きしめる。頬ずりをし、キスをし、おしめを替え、お風呂に入れて、と。
 ぼくは幼い空を書斎から締め出し、研究や創作に打ち込んだ。陽も花も、ぼくの手でおしめを替えられたことは一度もないのだ。
 けれども、例えば空は、気がつくと疲れてソファに横たわっているぼくに這いながら近寄ってきて、ぼくの胸の上で眠ったりした。その風景を写した写真は、けれどもその頃のぼくの心の中の不安や荒(すさ)みまでは写してはいない。
 ぼくはどうしてもっと子どもたちを抱きしめようとしなかったのだろう。愛しているよと言葉に出して言わなかったのだろう。頬ずりをし、キスをし、どうしてそれができなかったのだろう。孫の秋にできることが、どうして息子や娘にできなかったのだろう。
 大人になった息子たちは、ベッドに横になっているぼくの傍にやってきていつの間にか隣に横たわり、チョムスキーのことやピカソやゴッホの絵について話しかける。気がつくと、ぼくに抱きついたまま寝息を立てていることだってある。
 娘は出張から帰ったぼくに抱きつき、30分以上もそのままで離れない。キスをしてくれ、体をいたわってくれる。
 ああ、幸せだなあという思いとともに、ぼくには苦(にが)さが込み上げてくるのだ。

 ぼくはね、君たちを、空が秋を抱きしめるようには抱きしめなかったのだよ。ぼくは自分の疾走に必死だったのだよ。表面的な格好ばかりを気にする愚かな父親だったのだ。本を読み、詩を書き、研究発表をし、褒められ、おだてられることに喜びを感じながら、脚にすがりついてくる君たちを抱きしめることをしなかったのだ。
 もっともっとぼくは、君たちを抱きしめなければならなかったと思うのだよ。もっともっと抱きしめておけばよかった、そう後悔しているのだよ、いま。君たちがもう一度赤ちゃんに戻ってくれたなら、ぼくは君たちが泣き出すぐらい強く抱きしめようとさえ思うのだよ。
 ごめんね。

 秋を連れて訪ねてくると、空は決まってまずぼくに秋を押し付ける。抱け、というのだ。自分の家に戻るときも、別れ際にぼくに抱かせようとする。
 ぼくは優しく抱きしめ、頬ずりをし、キスをして、空に戻す。空は嬉しそうな顔をして、可愛いでしょ、と訊くのだ。ああ、可愛いね、というぼくの言葉には、時を越えて届いてほしいという思いがある。
 けれども、もう子どもたちは大人になった。ある時、一緒に食事をし、お酒を酌み交わしながら、ついぼくは空に言った、君はパパよりずっと立派な先生になったし、大人になった、と。すると空は驚き、真面目な顔をして言った、パパにはまだまだ全然敵(かな)わないよ、本当に。

(October 24th, 2008)

No. 118 突然 夢の途中(7)

突然 夢の途中(7)

南川貞治先生は突然、現れた。
 キャンパスの芝の上に座り込むと、「一緒に座ろうよ」とぼくを誘った。自己紹介もほどほどにして彼は、いいところだねえ、と呟くように言った。
 あの日から10年以上も時が過ぎた。
 いまぼくの手には日本から届いた一通の葉書がある。「故南川貞治儀」と始まるそれは、彼の逝去を報せている。
 81歳で彼は旅立った。

 抱きしめるようにぼくを可愛がってくれた彼は、いったい何者だったのだろう。
 大学の先生であり、芸術関係の評論家であり、しかしぼくはそれらの詳細を一度も訊ねなかった。
 「先日、演出家の野田秀樹と飲みましてね。その時、こんなことを言って野田をからかってやったんです」
 「それは面白い。今度野田君に会ったら、その続きでぼくもからかってやろう。ハ、ハ、ハ」
 彼はいつも、あたたかいまなざしでぼくを見つめた。向き合っていると、ずっと前からの友人であるかのような錯覚を覚えるのだった。
 年齢はずっと上の彼は、けれども友人だった。時に父親のような錯覚も訪れたが、けっして不自由な関係にはならなかった。
 ある時、ホテルの部屋のFAX機から大きな文字で「会いたい」と書かれた用紙が吐き出された。忙しいだろうが、何とか都合をつけてくれないか、と書かれていた。
 日本出張中のぼくのスケジュールは確かにかなりタイトだった。福岡から東京に戻ったとき、ホテルのレセプションには彼からのメッセージが届いていた。
 「ホテルのすぐそばの東京會舘のレストランで待っている。あわてないでいいから、シャワーでも浴びてゆっくり来なさい」
 ポーターに荷物だけ部屋に入れておくように頼むと、急いでそのレストランへと走った。
 井上壽子先生と一緒に彼は入口のそばのソファに腰掛けていた。そもそも井上先生が南川先生を紹介したのが始まりだった。
 案内されてレストランに入る。
 予約されていた席に座ると、二人ともうれしそうにほほ笑んだ。
 「よかった。久しぶりだねえ。会えたねえ」と彼が言うと、井上先生も頷いた。
 運ばれてきたフランス料理はぼくの好物ばかりだった。
 「こんなものばかり食べていると体を壊すぞ、とお叱りを受けたことがありましたが……」
 「今日はいい、今日は許す、ハ、ハ、ハ」
 二人の老名誉教授はニコニコしながらナイフとフォークを動かしている。
 静かで、上品で、あたたかく、優しい時間が流れた。
 食事を終え、席を立とうとすると、南川先生が言った。
 「もう少し時間をくれないかなあ。実はもう一軒予約しているところがあるんだよ」
 脚の悪い井上先生のために彼は車を拾った。行先は目と鼻の先で、数分で着いた。
 「えっ、ここですか」
 そこはカラオケのお店だった。
 受付で、南川先生が店員の若い男に言った。
 「来ましたよ」
 二人の老教授は早い時間に待ち合わせ、レストランを決め、カラオケのお店の下見をし、予約していたのだった。
 部屋に入ると、カラオケの機械の操作の方法を三人とも知らなかった。
 店員に教えてもらって、流れ出した曲は原語で歌うシャンソンだった。懐かしい童謡だった。唱歌だった。
 おそらくあのお店で初めての曲が次から次へと通路に漏れた。通る人たちがぼくたちの部屋をのぞきこんでいく。
 ぼくは酔った。二人の老人にやわらかく抱かれていた。

 それからまた時が過ぎ、日本に帰国した折、普茶料理(精進料理)を一緒に食べた。
 南川先生は言った。
 「今度一緒に温泉に行こう。絶対行こう。必ずね。それから、図師君、井上先生を頼むぞ。彼女には図師君しかいないんだから」
 ぼくはその時、南川先生の不調に気付かなかった。やわらかく、シャンソンを口ずさむような彼の口元に、ある思いがあることに。
 しばらくして、南川貞治先生は突然、逝った。(続く)

(September 29th, 2008)

No. 117 権威や権力にひれ伏す者たち 夢の途中(6)

権威や権力にひれ伏す者たち 夢の途中(6)

疲れたな、と思う。
 その疲れが程よく、おいしいお酒が飲みたい、そういうときはいい。が、ふつふつとした怒りをこみ上げさせるときは、酒に宥め癒す力はない。
 怒りは嫌な人間と一定の時間を過ごしながら生まれ、成長する。

 国のオーナーは国民である。公務員は公僕であり、国民から給与が支給され、国民に奉仕する存在である。にもかかわらず、公務員があたかも国民の上に存在するかのような錯覚を持った輩がいる。国家公務員にも地方公務員にも少なからずいるのである。
 そしてまた、そういった者たちにひれ伏す者たちがいて、勘違いをした公務員を増長させている。役人と訊くだけで腰を低くする者たちである。
 おもしろいことに、特殊法人、あるいは独立行政法人などといった組織の者たちにも不遜な者たちがうようよしている。これらの法人のトップの多くは役人の天下りであり、また多くの資金が国などから供給されるため、まるで公務員であるかのようなそっくりかえった姿勢をとる者たちである。確かに、役人が出向してきていたりもする。
 これらの組織は甚だ滑稽で、そこに勤める者たちをキャリアとノンキャリア、あるいはプロパーに分類している。キャリアとは国家公務員上級甲種あるいは1種試験に合格して採用された者で、若くして上位のポストに就く。プロパーはそれ以外の者で、もともと公務員試験とは関係なく、いわば会社員として就職している者たちをいう。
 キャリアが公務員としてふるまうのは理解できなくもないが、プロパーもまたなぜか似た雰囲気を漂わせるのである。もちろん、キャリアの見ていないところでである。この雰囲気というのが、何ともばかばかしい。ただの会社員であり、しかも国等の公的な資金を使わせてもらっている身分でありながら、そっくりかえるのだ。そっくりかえったその直後、キャリアの前ではひれ伏すのだから、このギャップは喜劇である。周りの者がそれを笑っていることに気づかず、外に出るとまた堂々とそっくりかえる。
 それらには日本語教育やその他の教育に手を広げる機関もあり、そこには大量にそういった喜劇役者が生息しており、3流役者、端役特有の鬱屈したまなざしをもち、口臭のする息を吐いている。
 そしてそこにも、そういった者たちにさえひれ伏し、すり寄っていく外部の機関の者たちがいる。むろん、少しでもそこにあると思われる権威にすがろうとするのである。
 研究所のおよそ20年の、ロンドンにおける活動の過程にも、そのような生き物が現れては消えていった。公務員としての真摯な志もビジネスマンとしての専門性や能力も持たぬ中途半端な者が、いかにも自分の後ろには日の丸が控えているのだという雰囲気を漂わせ、そっくりかえりながら近づいてきた。
 劣等感の裏返しなのだなと思いながら、注がれる酒を飲む。この代金は税金だと思うと、目の前の男に頭を下げる気にはなれない。利用できるものは利用し、相手に非常識なお願いをしても言うことをきくはずだという思い込みや傲慢に、ぼくは何度も「ノン」と言った。「自分たちに刃向かうとセンセー、損しますよ」と言わんばかりの脅しに品位の低さが露呈する。いつからこの者たちはチンピラもどきになったのか。常に計算づくで姑息に振る舞うその者たちと別れた帰り道、ぼくは決まって嘔吐した。
 そしてなんと、その「もどき」にさえも、えへらえへらとすり寄る太鼓持ちが、またいるのである。むろん、下心がある。「あのセンセーのところから手を引き、こっちへ」とムジナが集まる。

 そういった者たちに教育や文化、国際交流などというものが委ねられているというのは悲劇である。3流の喜劇役者が演じる悲劇である。
 どうしてみんな弱いのだろう。
 どうして既成の権威や権力にひれ伏すのだろう。
 日本の教育における受験戦争も一流と言われる会社志向もみんな一緒だ。既成の枠組みの中でうまくいった者たちは既得権を守ろうとし、うまくいかなかった者たちは次世代で、つまり自分の子どもたちでそれらを手にしようと必死である。
 だから、枠組みはしっかりと守られていく。
 押さえつけられた者は押さえる側に立ちたいと思い、願うのである。押さえつけているモノがどのような価値観に基づくモノであるかなどとはこれっぽっちも考えようとしないのである。
 けれども、おそらくそういった恐ろしいほど幼稚なものの上に築かれた権威や権力は近いうちに崩れ落ちていくことだろう。なぜなら、そういったものを無視したり鼻で笑うような異文化という黒船が、本格的にすぐそこまで近づいてきているのだから。
 ぼくたちの研究所はこれからも、既成の権威や権力と闘いながら、新しい権威の創造へと舵を切り続ける。まだまだ夢の途中だけれども。(続く)

(August 21st, 2008)

No. 116 「赤めだか」 夢の途中(5)

「赤めだか」 夢の途中(5)

ロンドンで暮らしながらぼくは、毎週2席の落語は欠かさない。むろん演じるのではなく、観るのであり、聴くのである。DVDやCDで繰り返し聴いているので、ここで一つ咳をするといった落語家の癖や息遣いまで覚えてしまう。日本出張時は、時間があれば新宿の末広亭に通う。独演会があれば国立演芸場にも駆け付ける。
 最近の若手では吉朝に惚れていたが、彼は数年前若くして逝った。これはとても悲しかった。枝雀もずっと前に自ら死を選んだ。志ん朝もよかったが、彼も死んだ。それでなんだか詰まんなくなってしまった。最近、三枝の落語をDVDで20席ほど集中的に観た。三枝のは漫談である。創作落語が悪いのではないが、やはり古典の奥行きがない。二代目小さんの襲名披露も末広で観たが、並の真打である。やっぱり小三治に継がせるべきだった。本当に、寂しくなった。
 だが、もう一人、まだ生きている。
 談志である。最も好きな落語家である。好きな、というより、この人の落語が落語なんだという気がするのだ。大変な毒舌で、落語ではない語りに嫌な感じを持っている人も多いだろう。観客と喧嘩をすることだってあった。客に向かって、「帰れッ!」と怒鳴ったのだ。
 が、談志の「芝浜」をじっくりと観て、聴いてほしい。きっと、ええっ、と思ってしまうだろう。これが落語だったのかと驚くだろう。その凄さに圧倒されるだろう。
 その談志の弟子・談春が本を書いた。「赤めだか」(扶桑社)という本である。ぼくはこの本を一晩でいっきに読んだ。文芸評論家の福田和也は「笑わせて、泣かせて、しっかり腹に残る。プロの書き手でもこの水準の書き手は、ほとんどいない。間違いなくこの人は、言葉に祝福されている」と帯に書いた。
 談志は小さんの弟子としてその天才的な能力を認められ、間違いなくこれからの落語界を背負って立つ人間として認知されていた。しかし談志は、師匠の柳家小さんが会長を務める落語協会に反旗を翻す。協会の旧態依然としたあり方に反発し、脱会する。協会の真打試験のあり方が気に食わなかったのである。いわば、親に子が噛みついたのである。小さんは談志を破門に処した。談志は「上等だ」と吠えた。
 協会を離れた落語家には寄席という舞台がなくなる。立川談志とその弟子たちは、いわば路頭に迷う。しかし誰もが談志の才能の確かさを知っていた。ビートたけし、横山ノック、上岡龍太郎、高田文夫などなど、落語界以外の者たちも次々と弟子入りした。立川流の誕生である。
 談志の弟子たちはしかし、苦労を重ねた。並の苦労ではない。毎日ほとんど食事は1食。しかし、師匠の談志にはその空腹感を見せないようにし、ひたすら耐える。掃除から洗濯、あらゆる雑用をこなし、絶対服従の日々を送る。その厳しさに、精神の異常をきたしたと思われる者も出てくる。
 この本のタイトルになっている「赤めだか」は談志が飼っている金魚だが、痩せた金魚を弟子たちはこう呼んだ。その金魚に餌をやれと命じられた弟子の一人・談秋は金魚の泳ぐ水がめを金魚の餌である麩で覆った。
 談志が笑顔で、ものすごく優しい声で、「談秋、金魚はそんなに食わねェだろ」と云う。肩をふるわせて「申し訳ございません」と小声でつぶやきながら、談秋は手でお麩をすくって捨てていく。
 談秋は談志のもとを去る。談春は師匠をじっとみつめる。そして、その日の談志の寂しさを知る。
 厳しさの中で時にくじけそうになりながら弟子たちは、必死に前を見ようとする。
 前座から二つ目、真打と落語家としての力を証明する立場を獲得するために談志の課した課題は落語協会のそれとは比べ物にならないぐらい厳しい。しかしそれを超えなければ、談志に認められた真打にはなれない。既成の権威におもねるのではない、たった一人の落語家に認められるために精進するのである。志の輔や志らく、談春といった実力を持った、今をときめく落語家はそうやって生まれた。
 この本の後半に、談春は「真打を目指している人達へ」と書く。「もう時間がありません。…立川談志だっていつかは必ず死ぬのです。…談志が認めてくれなくて何のための真打か。何のために今まで頑張ってきたのか。耐えてきたのか。もっと云えば談志亡きあと、誰の責任であなた方を真打ですと世に披露するのか、問うのか。そんな真打になったところで嬉しいのか。意味があるのか、…」
 時間がないぞ、早く頑張って真打になるんだ、何をしているんだ、と談春は熱い檄を飛ばす。
 涙があふれた。この談春のたたみかける言葉がぼくの心を激しく打った。プロであろうとするとき、一流であろうとするとき、プライドを持とうとするとき、甘ったれている者たちへの平手打ちである。

(July 15th, 2008)

No. 115 疑問 「森田ミツの意味」再考

疑問 「森田ミツの意味」再考

この小文のNo.113でぼくは、遠藤周作の小説「わたしが・棄てた・女」を取り上げた。実はその際、紙面の都合で一部を削除したのだが、その削除した部分がぼくにとってはやはり重要なので、もう一度考えてみたい。
 この物語のあらすじは次のようなものである。
 町工場の事務員である森田ミツは大学生であった吉岡努に恋をする。ともに貧しく、戦後のすさんだ空気の中で生きている。吉岡はミツを犯し、棄てる。棄てられたという自覚のないままミツは、さまざまな苦しみや悲しみを抱えた人たちを支えながら生きていく。会社員となって幸せの階段をのぼりはじめた吉岡への恋心をミツは持ち続けるが、吉岡とは対照的に社会のどん底へと転がっていく。そしてある日、癩病と診断され、絶望の中で隔離された病院に入ることになる。誤診と分かるがミツはそこにとどまり、病人の世話に献身的に打ち込む。ある日、その病院の仕事で外出したミツは、車にはねられ、死ぬ。
 吉岡努は「犬ころのように棄ててしまった」ミツのことを、「理想の女というものが現代にあるとは誰も信じないが、ぼくは今あの女を聖女だと思っている」と振り返る。
 また、吉岡への手紙の中で、スール・山形という修道女は次のように述べている。
 「もし神が私に一番、好きな人間はときかれたなら、私は、即座にこう答えるでしょう。ミッちゃんのような人と。もし神が私に、どういう人間になりたいかと言われれば、私は即座に答えるでしょう。ミッちゃんのような人にと」
 森田ミツは神に仕える修道女の心をも大きく揺さぶるほどの慈愛に満ちた女性であった。修道女がこのような女性になりたいと思うほどの存在であった。
 ならば、どうしてだろう。
 どうしてこのスール山形という修道女はかかることをしたのか。
 「息を引き取る前に、私は独断で御殿場の教会に電話をかけ、神父さんに来ていただいて、洗礼をミッちゃんにそっと授けて頂きました」
 キリスト教の信者でないぼくには、どうしてもこの点が理解できないのだ。この修道女からの手紙によれば、昏睡状態にあるミツは生前、この修道女からの信仰の勧めをはっきりと断っている。
 「このミッちゃんは、私が信じている神については、決して首を縦にふりませんでした」
 だのになぜ、この修道女は昏睡状態のミツに、「独断で」洗礼を授けるのか。
 信者であることとそうでないこととではいったい何が、どのように異なるというのだろう。
 ミツはなぜ、信者として死ななければならないのだろうか。傲慢なのだ。
 「どういう人間になりたいかと言われれば、私は即座に答えるでしょう。ミッちゃんのような人にと」と言いながら、それでも信者でなければだめだというのか。
 恐ろしく独りよがりで、傲慢ではないか。
 信者でなければ認められないのか。
 この発想が、平気で人を殺す論理を生み出すのだ。
 世界中でいまだに続く宗教に根差した戦争という名の殺し合いは、このような傲慢な者たちによって肯定される。
 ぼくの知っているファーザーやブラザーといったその世界のエリートたちの堕落は、その者たちに限定されるのではなく、宗教というものの持つ排他的で独善的な体質そのものではないか。
 どうしてそのままを抱きしめることができないのだろう。
 どうして線を引こうとするのか。
 どうして区別したいのか。
 キリスト教信者である自らが許されることには極めて寛大であり、信者ではない他者の過ちは厳しく糾弾しようとする者には本当の愛はない。
 遠藤周作は笑っているのではないか。
 素晴らしく敬虔な修道女もまた、神を見いだすことのできぬ愚かしさを。
 そしてその神に仕えるものと対峙するかのように描かれた吉岡が、抗いながらも神のまなざしにおののくことを。
 その矛盾しているかのような構図を遠藤は描くのだ。
 神はどこに、どのように、いるのか。
 そして、なぜ、いなければならないのか。
 森田ミツが、森田ミツの存在が意味を持つのは、吉岡においてであり、スール山形においてではない。スール山形がミツから受けた感銘は、スール山形をはじめとした修道女の体内にあり、ゆえに神のまなざしではない。
 神はもっと厳しく、もっと冷たく、もっと深く、けれどももっと大きく、そしてしっかりと抱きしめようとする。(次号は、「夢の途中」)

(June 16th, 2008)

No. 114 原点の風景 夢の途中(4)

原点の風景 夢の途中(4)

■1
 そうか、昨日は「子どもの日」だったのだ。日本を離れて久しく、子どもたちが大人になってしまったために、今は亡き母が送ってくれた武者人形や鯉のぼりはロンドンの貸倉庫に眠っている。
 子どものころ、ぼくは「良い子」になりたかった。「良い子」になれば父や母は喜ぶし、学校の先生も褒めてくれる。
 蝉が喧(かまびす)しく鳴く下校路に、まだ高い太陽が大きな木の影を黒くくっきりと映している。ランドセルを背負ったぼくは思うのだった、(あの影を出たところでぼくは、新しいぼくになる。良い子のぼくになる)と。
 けれどもそれは秘め事だった。決して他の者には言ってはならないことのようにぼくには思えた。「良い子」になりたいという思いを持っていることが他の者に知れたら笑われるような気がしていたのである。どうしてなのかがわからないままぼくは、ぼくの心の中にその思いを閉じ込めた。
 大きくなるにつれて、大人の言う「良い子」の意味がどんどんわからなくなっていく。掃除を懸命にやる子は確かに先生に褒められる「良い子」なのだが、算数のできる「良い子」とはなんとなく違う種類の「良い子」であるようなのだ。そして学年が進むにつれ、次第に後者の方に価値の大きさが移行していくのだった。
 勉強だってそうだ。
 ぼくが小学生のころ、先生や周りの大人たちはみんなこう言った、「一生懸命勉強して、良い子になりなさい。良い子になって、みんなのことが考えられる思いやりのある子になりなさい」と。
 たしかに学校ではウサギを飼い、老人ホームを訪れ、美化運動ということで町の掃除をしたりした。それらは「良い子」になるための学習ではなかったのだろうか。勉強だったのではなかったのか。
 小学校の高学年になると、私立中学校の受験の話を親がするようになり、中学校では、小学校の時ほど勉強が面白くなくなった。ぼくは中学校でも高校でも「良い子」だったが、周りの大人たちが思っているような「良い子」ではなかった。いや、彼らが思っている「良い子」を演じてはいたが、彼らの価値観に見切りをつけていたのだった。
 学校の「教科・科目」の勉強をする代わりに、本を読んだ。漫画にはそれほど興味はなかったが、小説も詩歌も、父親の本棚にあった哲学書も、勉強をするふりをして読み漁った。『あれか、これか』という不思議な題目のついた本がその世界でどのような位置にあるのかなどは何も知らぬまま、ただただ文字の世界を楽しんだ。そして、それらの世界の方が学校の「教科・科目」の勉強よりもずっと面白かった。
 ぼくの少年時代は時折、ぼくを訪ねてくる。これほどまでに優しく慈愛に満ちた人間がいるのだろうかという母や厳格で偉大な父がいつもそこにはいる。間違いなく尊敬でき、絶対にかなわぬ兄たちがいる。
 その風景が時にぼくに語りかけるのだ。(あの影を出たところで照君、新しい照君になってみてはどうだい。もう一度夢に向かって歩いてみたら)と。
■2
 教員の養成に取り組みながら、わずかな期間で一体何が教えられるだろうと立ち尽くすときがある。
 教育は難しい。世にいう一流企業で働いた経験があるから学校の教師ぐらいはすぐできるだろうなどという考えで中学校の校長として採用し、それをマス・メディアがもてはやす愚かな風潮があるが、ならばどうして大学に教育学部が、教員養成課程があるのだ。どうして教員になるための必修科目・必修単位というのが定められているのだ。
 商品としてのメディアには見えない、子どもたちの戸惑いやためらい、喜びや興奮を静かに見つめ、抱きしめている教師たちがいることに社会は気付かなければならない。そういう先生はたくさんいるのだ。
 塾の先生のように点数で動機付けをしなくとも、お母さん受けのいい学級通信を出さなくても、ストップウォッチを握りしめて計算の競争に子どもたちを駆り立てなくても、せっかく塾とは違った何かがありそうな空間だった教室を夜の塾の授業に貸し出さなくても、そういう先生たちはじっと静かに子どもたちを、子どもたちのまなざしを守り、育てようとしている。その先生たちを認めよう。そうしなければ、大切な子どもたちをとんでもないところに追い詰めてしまう。
 学校は学校でなければできないことをするところだ。夢や理想を恥ずかしがらずに口にし、語り合い、もっともっとよりよい社会を作る力を作ろうとする意志を育むところだ。今の社会に都合のいい人間を作る工場ではない。小学生のころからどうして株や金融なんかについて学ぶ必要があるというのだ。そういう時間があったら絵を描き、歌を歌い、本を読み、昆虫や植物を観察させよう。
 教師はそういうまなざしをもった人間でなくてはならない。算数や数学を教える教師も、英語やフランス語や日本語を教える教師も、物理や体育を教える教師も、「先生」と呼ばれる者たちはそのためにいるのだ。
 教員の養成に取り組みながらぼくがしようとしていることは、ぼくたちの研究所がしようとしていることは、つまり教員を養成するとは、知識と技術を授けるばかりではなく、先生と呼ばれるようになった卒業生の教育者としての原点の風景を作ることではないか。
 日常に疲れ、立ち尽くすとき、彼らを訪れ、傍らに静かに寄り添い、語りかけてくる、そういう風景を作ることではないか。
 では、その原点となるべき風景はどのようにして作られていくのだろう。(「夢の途中」続く)

(May 8th, 2008)

No. 113 森田ミツの意味 遠藤周作と神

森田ミツの意味 遠藤周作と神

■1
 「夏の花」の作家・原民喜の遺族からの法事の招待状を受け取ったぼくは会場となっていた寺に出かけ、そこで遠藤周作に会った。
 「僕は堪えよ、静けさに堪えよ。幻に堪えよ。生の深みに堪えよ。堪えて堪えて堪えてゆくことに堪えよ。一つの嘆きに堪えよ。無数の嘆きに堪えよ。嘆きよ、嘆きよ、僕をつらぬけ。還るところを失った僕をつらぬけ。突き離された世界の僕をつらぬけ」「世の中にまだ朝が存在しているのを僕は知った」(「鎮魂歌」)と書いた原は、「三田文学」で育てた後輩の遠藤に「これが最後の手紙です。去年の春はたのしかったね。では元気で。」という短い遺書を残して、1951年3月13日に国鉄中央線の線路に身を横たえ、自殺する。
 原は前年の1950年の春、遠藤らと多摩川を散策し、空を見上げながら「ヒバリになっていつか空に行きます」とつぶやいた。遠藤は原を兄のように慕っていた。
 遠藤はクリスチャンであり、法事では数珠を持たず、ただ手を合わせてこうべを垂れた。彼に続いたぼくも仏教徒ではなく、遠藤に倣った。法事に呼ばれた者たちの数は少なかったが、周りにはテレビカメラや新聞記者たちがいた。
 法事の読経がすむと、遠藤らとともにマイクロバスに乗って原の詩碑を訪ねた。
 遠藤はすでにそのとき、病に侵され痩せていた。背の高い彼はそれをより感じさせた。
■2
 小説『わたしが・棄てた・女』は遠藤周作の1963年の作品である。遠藤は40歳だった。この小説について、不思議なことに、同時期に日本に住む二人の友人からメールが届いた。全くの偶然である。
 一人は遠藤と同じく敬虔なキリスト教徒であり、臨床薬学の世界で真摯な取り組みを続けている。もう一人は、臨床心理学の研究者で、幅広くカウンセリングの実践を行っている。
 この作品を読んでいなかったぼくは日本から取り寄せて読んだ。講談社文庫に収められていた。その文庫のカバーには次のようにある。
 「二度目のデイトの時、裏通りの連込旅館で躯を奪われたミツは、その後その青年に誘われることもなかった。青年が他の女性に熱を上げ、いよいよ結婚が近づいた頃、ミツの躯に変調が起った。癩の症状である。……冷酷な運命に弄ばれながらも、崇高な愛に生きる無知な田舎娘の短い生涯を、斬新な手法で描く。」
 これではこの作品は浮かばれまい。主人公の森田ミツの人生が「冷酷な運命に弄ばれ」、しかしながら「崇高な愛に生き」たといった図式化は、なるほど多くの読者にはわかりやすいものであるかも知れないが、ぼくは違和感を覚える。
 町工場の事務員である森田ミツは大学生であった吉岡努に恋をする。ともに貧しく、戦後のすさんだ空気の中で生きている。吉岡はミツを犯し、棄てる。棄てられたという自覚のないままミツは、さまざまな苦しみや悲しみを抱えた人たちを支えながら生きていく。会社員となって幸せの階段をのぼりはじめた吉岡への恋心をミツは持ち続けるが、吉岡とは対照的に社会のどん底へと転がっていく。そしてある日、癩病と診断され、絶望の中で隔離された病院に入ることになる。誤診と分かるがミツはそこにとどまり、病人の世話に献身的に打ち込む。ある日、その病院の仕事で外出したミツは、車にはねられ、死ぬ。
 吉岡は「犬ころのように棄ててしまった」ミツのことを、「理想の女というものが現代にあるとは誰も信じないが、ぼくは今あの女を聖女だと思っている」と振り返る。
 多くの読者がミツに同情し、吉岡をなじるのだろう。あるいは、同じキリスト教徒はミツにあこがれるのかもしれない。ミツのように、他者の悲しみや苦しみを自分のものとして受け入れ、愛することのできる存在でありたいと。
 ミツの死を吉岡に知らせた修道女は言う、「もし神が私に、どういう人間になりたいかと言われれば、私は即座に答えるでしょう、ミッちゃんのような人にと」。
 確かに、ミツは優れて心清らかな人間であり、慈愛に満ちている。それに比べ吉岡は極めて自己本位であり、汚(けが)れているといえる。
 しかしこの小説は、そのような対比から、森田ミツといった女性のキリスト教的な崇高な愛といったものを際立たせようとするものなのだろうか。
 ぼくはそうは読まない。
 ミツを棄てた吉岡は、そのミツを「聖女」というのだ。ミツの何が、ミツの生に明確な形で対峙する吉岡にそう思わせるのか。そしてさらに、もっと考えなければならないのは、物語の最後でその吉岡が佇み、感じる「寂しさ」である。その「寂しさ」は一体どこから来るのか。吉岡の内部の深いところに巣くい、彼を見つめるものは何なのか。
 切支丹弾圧下の長崎に潜入した宣教師が棄教するまでの心の動きを描いた『沈黙』という作品の中で遠藤は、「罪とは人がもう一人の人間の人生の上を通過しながら、自分がそこに残した痕跡を忘れること」であるという。この作品の中でも、同じ言葉を繰り返す。
 「生きる」ということが他者との交わりの上に成り立つものであるとするなら、ぼくたちは常に何らかの「痕跡」を他者に残しながら生きていることになる。その生を遠く高いところから、静かに、まっすぐに見つめている森田ミツがいる。遠藤はそのまなざしを神というのか。(「夢の途中」は次号から再開)

(April 25th, 2008)

No. 112 失くしたものを追いかけて 続々・夢の途中

失くしたものを追いかけて 続々・夢の途中

■1
 小学生のころ、ぼくの通っていた学校はお城だった。正確に言えば、お城の跡地に建てられた小学校で、大きな石垣や大手門などはそのまま残っていた。
 その小学校の近くに小村寿太郎記念館という立派な建物が建てられた。数年前、ぼくはその記念館での講演を頼まれた。生誕150年記念の行事の一つだった。
 講演を終え、市長や教育長たちとお茶を飲んで語り合っているところに一人の老婦人が現れた。市役所の課長さんが連れてきたのだ。
 「照ちゃん、大きくなって、……」
 ぼくはもう50代であり、大きくなったのは当然なのだが、その老婦人の知るぼくは小学生だったのである。
 その老婦人の顔を見つめた。
 「あ、おばさんッ!」
 「覚えてくれてるの?」
 ぼくが幼いころ、近所に住んでいた人だった。ぼくは小学校までしかそこでは暮らさなかったが、子どもの頃の思い出は鮮やかだった。近所の同世代の者たちはお互いに何でも知っていた。おじさんやおばさんだって同じで、みんなが大きな家族のようだった。
 季節の行事もみんなで楽しんだ。お正月もお盆もいつもみんなが当たり前のように一緒にいた。
 しかし、そういった風景は随分遠くなった。
 ぼくはもうそういったところには住んではいない。

 中学時代をともに送った者たち数名とその時以来の再会をした。ぼくたちは酒を飲み、少し語り合った。ぼくは懐かしそうな顔をしていただろう。確かに、胸にこみ上げるものがあった。
 彼らはそのままだった。その頃のにおいをぷんぷんさせていた。その土地に住み、いろいろな苦労はあるのだろうが、ぼくの持つ曖昧さや虚ろさは彼らには感じられなかった。うらやましくはなかったが、大きな違いを感じた。
 ぼくは遠くへ来てしまった。ぼくはもう彼らと同じところには住んではいない。

 帰りたい、と思うことがある。涙が浮かんで、不意に嗚咽さえしてしまいそうな時がある。
 しかし、どこへ帰ろうというのか。
 どんな時間へ戻りたいというのか。
 戻る価値のある時間があったか、ぼくに。
 いや、何かを失くしたように思うのだ、確かに。
 そして、それはとても大切なものであったように思うのだ。
 それはきっと、今のぼくが最も欲しいと願うものであるように思えるのだ。
 それを追いかけよう。
 追いかけて、そしてもう一度それを静かに、丁寧に、ゆっくりと抱きしめよう。
 夢の途中で、ぼくは夢を忘れてはいけないのだと思うのだ。
■2
 「学ぶ」ということは本当に人間を成長させることなのだろうか、ぼくはときどきそういった疑いを抱くのだ。
 ぼくは怒っていて、それを押し殺しながら生きている。
 人間は多くの知識や知恵を身につけて、結局は醜くなっていくのではないか。

 日本語教師の養成を英国・ロンドンで始める。それまで、ロンドンには体系的な養成のシステムがなく、ぼくが始めたのが最初といっていいだろう。JETRO(当時の名称は日本貿易振興会)という通産省系列の機関から日本語の教員を養成してくれないかと依頼されたのだ。ロンドン大学のSOASが加わり、ぼくが代表となって開講した。JETROの目的は日英の貿易をはじめとした望ましい友好関係を作ることにあり、そのため「ビジネス日本語教師養成講座」と名前が付けられた。
 その頃、おもしろいことを経験する。SOASの代表とJETROとぼくとの三者会議の場で、SOASの英国人代表が、こう言ったのだ。
 「ビジネスはSOASがやるので、図師先生はアカデミックを担当してくれませんか」
 同席していたSOASのドクターがとっさに叫んだ。
 「そんなことを言って、恥ずかしくないんですか。SOASは大学じゃないんですか」
 ぼくはなるほどと思ったのだった。そのとき、SOASの代表は涼しい顔をしていた。(続く)

( March 19th, 2008)

No. 111 続・夢の途中

続・夢の途中

「あ、夢か」
 目覚めたぼくは全身にびっしょりと汗をかいている。まだ夜が明けるには時間がある。すぐにシャワーを浴びたいという思いを引きとどめ、もう一度その夢の中へ誘おうとするなにものかがそこにはいる。そのものと闘いながら、ベッドの中でぼくは呟くのだ、「寂しい」と。
 かつて繰り返し見た蝶の夢は最近全く見なくなった。白い蝶に追いかけられる、怖く苦しい夢である。手をバタバタさせて空を浮遊する夢も、そういえば最近見ていない。
 眠っている間にみるぼくの夢には、どうやら2種あるようだ。「散文としての夢」と「詩(韻文あるいは比喩)としての夢」である。蝶や浮遊の夢は後者である。
 最近見る夢の多くは散文夢である。「夢現(ゆめうつつ)」という言葉があるが、この夢は極めて現(うつつ)に近く、ゆえに、目覚めた後にそれが夢であるのかどうかについて判断を下すのにしばらく時間が必要だ。
 多くの場合、すでにこの世を去った者が登場したり、もうとっくに年老いているはずの者が何十年も前の姿で現れたり、日本にいるはずの者がロンドンで生活していたり、とそういった矛盾に満たされてはいるが、しかしそこで展開するトピックやテーマは極めて現実的なのだ。活き活きとして、ぼくを責め続ける。
 夢の中のぼくはいつも孤独である。甘えた表現であるが、正直に書くならば、狂おしいほどに孤独なのだ。しかもその孤独にはいつも確かな根拠があり、ゆえにぼくはその孤独から逃れることができない。その根拠を巧みに設定しているのもまた、ぼく自身である。つまり、ぼくはぼく自身を責めることに執着し、目覚めた時から疲れている。
 目覚めたぼくは、ベッドの中で目を閉じたまま分析を試みる。散文夢が映し出すものはぼくの現(うつつ)の生きざまに相違ない。ぼくは目を覚まし、明るい日差しの中で呼吸をしながらも、自分を滅ぼすことに懸命なのだ。滅びを前提とした生を生きているように感じるのである。

 もう一つ、夢という言葉は、「理想」という言葉とともに用いられることがある。夢や理想、将来の夢、といった表現がなされたりする。こうなりたいとか、こうでありたいとかいった意味合いで用いられたりする。
 その場合の夢として語られるものは、実現不可能なものや不可能に近いものである。あこがれ、といったものであろうか。
 ぼくは小学生のころ、「先生になりたい」と作文に書いた。その夢は叶えられたのだが、「先生」と呼ばれるようになってみると、その「先生」というものがどのようなものなのか、未だよくわからないのである。
 けれども、少しだけわかりかけてきたものがあるにはある。  それは、夢を見続けることのできる人間でなければならない、ということだ。
 よく講演などで話すことだが、人が学ぼうとするのは今までの自分にはなかったものを身につけて変わろうとすることである。つまり、学ぶことによって自分は変わりうると信じているということであり、明日の可能性を信じているということである。そういった学習者に向き合う教師は、未来や将来といったものをネガティヴにとらえたり、限定したりしてはならない。あらゆる可能性にあたたかいまなざしを向けることのできる、そういう人間でなければならない。

 ところで、日本語教育を担う教師たちの養成・育成をしながら、ぼくが抱いている夢とは何だろう。
 日本国内の大学でも日本語教員の養成が行われているが、そして昨今はこのロンドンにも日本からいくつかの日本語教師養成講座を開講する機関が現れたが、どういった理念でそれがなされているか。
 日本の政府系機関もまた、このロンドンでさまざまな活動を展開するようになったが、日本語や日本文化を取り扱うその取扱い方には、あるいは日本語教師を支えるべきそういった機関としての活動の仕方を考えると、多くの疑問を感じざるを得ない。
 少しそれらのことについて検証しながら、ぼくの日本語教育における夢について考えてみたいと思っている。
 まずは、日本語教育は何のためにあるのかといった視点から考えてみよう。世界的にはまだまだマイナーな日本語をなぜ外国人は学ぼうとするのか。たとえば、今や世界語となった英語を母語とする英国人がなぜ日本語を学ぼうとするのか。どのような価値があると考えられるか。そして、それらに応えることのできる日本語教育となっているか。(続く)

(February 19th, 2008)

No. 110 夢の途中

権威や権力にひれ伏す者たち 夢の途中(5)

新しい年になった。
 ぼくはお正月が好きだ。子どもの頃、元旦には、母がそろえた真新しい下着を身につけた。するとぼくは、新しいぼくになるのだ。もう一度、ぼくはぼくを始めることができるのだ。たいていは「よい子」になろうと思った。二日には書き初めをした。墨を磨ると、その放たれるにおいを吸い込んだ。ぼくは背筋を伸ばして、筆を執った。

 けれども、ぼくはもう子供ではない。知らなかったことを知り、知りたくなかったことも知った。できなかったことができるようになり、できないほうがいいこともできるようになった。
 ときにぼくは、「もう一度」と口ずさむ。もう一度、新しいぼくを始めたい、そう思うのだ。

 いや、まだだ。
 ぼくはふりかえるよりも前に、今のぼくと対峙しなくてはならない。避けたり、ごまかしたり、逃げたりしてはいけない。もっともっと今のぼくを見つめなくてはならない。そして自ら今のぼくに語りかけなくてはならない。君は今、何をしようとしているのか。

 周りを見回す。
 たとえば、研究所の所員、先生たち。こんなに善良で、こんなに学生たちのために、教育のために、研究所のために打ち込む者たちはまずいない。絶対に、と言っていいほど、この者たちは特別な存在だ。表でも、陰でも、等しく純粋だ。ぼくのわがままを受け入れ、一日中、学生たちの教育について話し合う、たとえ夜中になろうとも。深夜2時に突然招集され、教育に対してこんな程度の打ち込み方でいいのかと怒鳴るぼくに、真剣なまなざしをまっすぐに向けてくる連中なのだ。
 研究所の学生たちは、ほとんどの者たちが無遅刻、無欠席。授業中に眠ったりする者なんか一人もいない。土曜も日曜も、深夜まで文献にあたり、論文を書き、教育実習のための教材を作り、涙を浮かべながら、歯をくいしばって、「いい先生」になるために打ち込む。ヨーロッパの日本語学習者の表情に一喜一憂し、卒業式には謙虚に、そして誇らしげに自分を振り返る。一人ひとりの挨拶の言葉は涙で時々聞こえなくなる。

 日本語の教員の養成を始めたのはもう20年近く前だ。その頃、英国にはきちんとした養成課程がなかった。
 ある日、日本の政府機関から人がやってきて、日本語の教員養成に取り組んでくれないかと要請された。日本という国の絶頂期(いわゆるバブル前夜ともいうべき時期)で、日本文化や日本語に興味を持つ英国人が急増していた。しかし、教える力を持った日本人がほとんどいない。その頃すでに教えていた人たちは手探りで、ゆえに悩んでいた。なんと「サイタ、サイタ、サクラガサイタ」などと教えている人もいたのである。
 ロンドン大学のSOASが企画に加わり、ぼくが主幹としてコースをデザインし、教師養成講座を開講。始めたのは、パートタイムのコースで、だれでも気楽に教えられる、といったコースだった。英国人と結婚した在英婦人たちが主な学生だった。
 次いで、朝日新聞社の朝日カルチャーセンターがロンドンに進出し、日本語教師養成講座をやりたいので作ってくれないかと要請され、始めた。こちらもほぼ同様のパートタイムのコースである。
 もっと本格的な教員養成が必要だなと思ったぼくは、当時ケンブリッジ大学で仕事をしていたことから、ケンブリッジ大学が認定する教師養成課程を創設した。これが現在のDiploma課程やCertificate課程、あるいはMA課程の前身である。
 つまり、その頃ぼくは、三つの日本語の教員養成課程の代表を務めていたのである。
 教える」ということの意味について、あるいは「ことばの力」について、「異文化を学ぶ」ということについて、真剣に考える「先生」を養成したいと、ぼくはより確かな日本語教師の養成に取り組もうと考えるようになった。
 そのため、そのカリキュラムは密度を濃くすることとなり、レベルを高めた。しかし入学してくる学生たちのほとんどが小学生のまなざしよりも純粋に、大学生のそれよりも迫力をもって学習に取り組んだ。
 この者たちが教育現場で先生として動けば、日本語教育だけではなく、あらゆる教育を根底から変えることができるのではないか、ぼくは口癖のようにそう言うようになった。
 けれども、まだまだ夢の途中である。(続く)

(January 24th, 2008)

No. 109 2007年、断章。

 タクシーに乗った途端、運転手に訊かれた。
 「あなたはプロフェッサーか?」
 それから次々と質問されることになる。ぼくは疲れているのに。
 「日本人か?」
 「何年ロンドンに住んでいるのか?」
 「この国での生活は気に入っているか?」
 そういうあなたは、どうだね。
 この国の人ではないんだろう?
 どこから来たの?
 この国、気に入ってる?
 イスラエル出身の彼は、30年もロンドンで暮らしているという。
 英国はいい国だという彼は、突然こう言った。
 「日本が戦争を始めたんだ。どうしてパールハーバーを攻撃したんだ?」
 この質問はかつてもレストランで突然、投げつけられたことがある。
 戦争はね、いい国も悪い国もないんだよ。
 「しかし、日本が始めなければ戦争にはならなかったんだ。それともナチズムを肯定するのか?」
 どうしてタクシーの運転手とこんな話をしなければならないんだ、とため息をつきながら、ぼくはやむなく彼の話を聞いた。
 「天皇が戦争を命じたんだろ?」
 「日本はドイツやイタリアと組んでとんでもないことをやろうとした」
 運転手の乱暴な言葉を聞きながら、いわゆる不快感を覚える。そして、こう言った。
 日本という国も日本人も確かに間違いを犯したことはあるが、このイギリスもアメリカもすべての国が同じく愚かな過ちを犯してきたんだよ。人間はそういう過ちを犯す生き物なんだよ。だからいろいろなことを学ばなければいけないんだ。
 そうなのだ。
 人間は過ちを犯す生き物なのだ。

 2007年が終わろうとする。今年も驚くべき速さで時は過ぎた。
 今年も多くの新しい出会いや再会があった。不覚にも涙が浮かんでくるような再会もあった。再会は、今の自分がかつての自分とは異なった人間になったのだということを教えてくれる。また、自分の置かれている環境もかつてのそれとは大きく違っている。それはぼくを、時につらく、切ない気持にする。もちろん、過去が美しく、現在が認められないということではない。少なくとも、今のぼくのほうがぼくは好きだ。歳をとり、昔のように全力で走ったりするようなことは出来なくなったが、その走りを楽しんだり、かみしめたりは出来るようになった。ものごとに対して、できる限り純粋でいたいと願う気持ちも強くなった。
 新しい出会いの中には、新しい生命の誕生もあった。研究所所員の甥の肇(ただし)には「新(あらた)」という男の子が生まれた。肇の赤ん坊の時の表情にそっくりで、つまりはぼくにもよく似ている。
 そして、ぼくの長男の空(そら)にも第1子が誕生した。10月23日に生まれた彼は、「秋(あき)」と命名された。空は早速親バカになり、自分がそうされたように赤ん坊の時から美術館に連れて行ったり、本物の音楽を聴かせたり、書物のにおいのする部屋で育てると宣言している。
 別れもあった。
 長い間心の中で生き続けていた親友が、突然死んだ。もう一度ゆっくりと子どもの頃の思い出話をしながら酒を飲みたかった。お互いの生きてきた道のりを静かに語り合いたかった。これから生きていくということをどのように受け止めているかを聞きたかった。一日生きるということは一日死に近づくということであり、その一日がいとおしいものに思えるようにもなった。
 恩師の奥さんもこの世を去った。静かで、あたたかく、剛速球しか投げられぬ教育者を支え続けた。恩師の墓の前に佇みながら来る日も来る日も墓の下に眠る夫に話しかけていた彼女は、漸く夫の待つところへ旅立った。
 「照ちゃん、したいことをするのよ。照ちゃんが信じることを一所懸命にするのよ」
 彼女もまた、ぼくの大切で、敬愛する先生だった。
 2007年が逝こうとする。この年、自ら決意しなければならない別れもあった。

(November 30th, 2007)

No. 108 挑戦する夕暮れ

 冬時間になった。
 夕暮れが早くなり、いつの間にか街に明かりが灯る。陽が落ちる直前、空は薄い青と灰色とが上品に混ざり合い、遠く、高く離れていき、戸惑うような表情を見せる。
 ぼくはその空が好きだ。それは少年の日の空だ。もの悲しくなるような、切ない思い出に満たされた、けれども明日を信じることのできた少年の頃の空だ。

 夕暮れはしかし、いつも心を不安にする。
 ぼくの夕暮れはぼくに問い続ける。
 おまえはいつ、おまえになるのだ、と。おまえにとって生きるとは何か、と責めるのだ。
 確かにぼくは今、<生きる>ということについて考えている。<生きかた>というものについてである。
 ぼくはまだ青年時代を生きているつもりだが、50代の今のぼくと20代や30代の頃の<青年>の意味とには大きな隔たりがある。
 それは<青年>の<青>の問題である。
 ぼくの<青>は、若い頃の<青>に比べ劣化したとは思わない。むしろ若い頃よりもはるかに、純粋にものを見つめようとする思いが強くなった。若い頃のぼくは、若くはなかったのだ。
 若い頃のぼくはただ若かっただけであり、<青>を意識することなどなかった。あるいは時に、愚かな思いこみから、格好をつけた<青>を演じることはあったようにも思う。
 ぼくは今、<青>を演じたりはしない。
 けれども、体内の<青>との闘いに、毎日のエネルギーのほとんどを費やしている。
 闘いは、振り上げた拳をもう一方の手で押さえつけようとするようなもので、ゆえに激しい葛藤がある。

 かつて、若い頃のぼくには怖いものはなかった。傲慢な表現であるが、まさに傲慢不遜な人間だったように思う。今振り返っても赤面してしまうほどであるが、と同時に懐かしくもある。
 その懐かしさには危険な要素も含まれているが、そういった腕力によって切り拓いてきたものが少なからずあったように思うのだ。
 そして、その腕力への懐疑が結果的に非力な今を導いたのではないか、そういう思いにとらわれたりする。

 もう少し具体的に書こう。
 ぼくはかつて、相手がたとえ公的な機関であろうが、社会的権威をもっていようが、やくざであろうが、どんなものに対しても言いたいことを言い、闘ってきた。
 既成の権威におもねることはしなかった。
 だから、そういったものに媚を売る輩が嫌いだった。陰でこそこそ噂話や悪口を言う者には反吐が出た。そういった者と連帯する者たちの愚かしさが不思議だった。
 何でもかんでも人のせいにする者を軽蔑した。努力不足を隠すために、いろいろな理由を考え出すことで言い訳をし、世の中を渡っていく者たち、社会人にも学生にもうようよいる、そういう者たちを侮蔑した。そういう者は一人で立つことができないから、周りに仲間を増やそうと卑しい画策をするのが常である。
 学校には時々生息するが、自分の所属する学校や組織の悪口を言って、ぼくだけは君たちの味方だよ、などと学生の人気取りを陰でする教師など最低だと切り捨てた。そういう教師は間違いなく会議等では権威に媚を売って、改善のための建設的な提案などはしない。学生のために自分を犠牲にして発言したり、行動したりするようなことはまずない。なぜなら、そういう者たちにとっては学生のことなどは実はどうでもよく、その時の自分の心持が良ければいいのだから。
 つまり、その頃のぼくの<青>は<怒り>であった。あるいは既成の権威などに対する挑戦でもあった。
 そして今ぼくは、その<怒り>を自分自身に向けている。
 挑戦する姿勢を捨て、<怒り>をあいまいにごまかしながら生きているのではないかと疑っているのだ。自分に対して、たまらなく憤っているのだ。

 夕暮れの中で、ぼくはもう一度青年に戻ろう。少し衰えつつある肉体もまだまだ大丈夫だろう。新しい<青>をしっかりと抱いて、挑戦していくことにしよう。その不器用さゆえに折れて朽ちることになってもいい。許せぬ者には怒りをもち、挑戦する心を持ちながら、歩んでいこうと思う。

(November 2nd, 2007)

No. 107 再生会議と中教審の稚拙

馬鹿につける薬(7)

 あの子は学校の成績はよくないけれど、優しいのよ」とか、「成績抜群だけれど自分のことしか考えない身勝手なやつさ」とかいったことを耳にすることがある。
 ぼくは自分が子どもであったころから不思議に思っていた。変だなと疑問だった。
 小さい子どもに向かって大人はこう言う、「一所懸命勉強して立派な人間になりなさい」と。
 学校に通い、あるいは塾などにも通って一所懸命勉強すると、立派な人間になれるのである。野球やゲームや友だちとのおしゃべりを我慢して一所懸命勉強するのは嫌でも、立派な人間になりたくない子どもなんかはいない。
 一所懸命勉強した子どもは試験などで評価され、良い成績を取る。だから、良い成績を取った者は「立派な人間」である、はずなのだ。そして、「立派な人間」であるのだから、だれよりも他人に対する思いやりがあり、優しいはずだ。
 にもかかわらずである。成績の良い連中が優しくなかったり、わがままだったり、人を傷つけたりするというのはおかしくないか。勉強に打ち込まなかった者が優しく、思いやりがあるというのも変だ。

 研究所が実施した小学生作文コンクールで最終選考に残った子どもの作品を読んでいて、次のような文章に出会った。
 「私は戦争が嫌いです。私の友だちもみんな戦争はいけない、嫌いだと言っています。どの国の子どもたちも同じだと思います。でも、いつもどこかで戦争が起きています。大人になるとどうして、戦争をすることができるようになるのでしょう」
 戦争にかかわり、戦争をすると決定し、攻撃をし、多くの死傷者を生み出すのは、どの国においてもその国の最も優れた立派な人間たちで、学校の成績もトップクラスのとびぬけた秀才たちである。一所懸命勉強した者たちである。
 つまり、一所懸命勉強したことによって、人を殺すことについての正当性を身につけた者たちである。

 つまり、子どもたちは学校や塾に通いながら、自分の幸せのことばかりを考える力や方法を身に付ける。他人を押しのけ、他人の上に立つ人間になるために切磋琢磨する。一所懸命がんばるのである。
 そういったシステムこそが見直されなければならない。
 だが、教育再生会議や中央教育審議会が次々と出す改革案を見ていると、いずれも刹那的なもので、とても再生などできるものかと思ってしまうのだ。
 たとえば、新聞各紙で大きく報じられた小学校高学年(5・6年)における英語活動の必修化である。
 このコラムでも繰り返し述べてきたことだが、ぼくは国際理解教育の一環としての外国語教育を幼いころから取り入れることには賛成である。小学校の1年生から導入してもよいとまで思っている。
 けれども、そのためには現在の小学校教育における教科の改編が必要である。国語・算数・理科……といった組み立てはいらない。「ことば」(言語コミュニケーションとことば文化)とか、「みる・きく・しらべる」(科学)といった名称等での新しい教科構成を提案したい。ここではそれらについては述べないが、ともかく今の教科の概念では子どもたちの学びに対するモチベーションを上げることなどできない。
 小学校の高学年で英語を取り扱うとして一体誰が教えるのか。小学校教諭の研修体制を整え、教えられるようにするとのことだが、大人になって、ちょっと研修を受ければ教えることができるほどの英語力が身に付くならば、何も焦って小学校から導入する必要はないということになる。自ら矛盾することを証明しているようなものだ。
 この稚拙な論理性があらゆる提案や方策において、教育行政を担当する者たちに蔓延していて恐ろしく滑稽だ。喜劇であり、悲劇であり、暴力的である。
 小学校における英語という外国語を取り扱った授業は、まったく新しい概念の中に位置づけるようにすべきである。そのためには、子どもたちは英語を学ぶことによって何を獲得することになるのか、そもそも小学校教育とは何のためにあるのか、といったところからもう一度議論を始める必要があるのだ。
 一生懸命学び、良い評価を得た者こそが、誰よりも優しく、他人の幸せについて考えることができるような、そういった学びのシステムと内容を作るのが大人の責任である。それは道徳のおしつけや国際経済競争力を付けるための英語学習などとはまったく異なったレベルの問題である。
 そしてもし、稚拙な教育行政しか繰り広げられないのならばいっそ、公教育における国の関与をやめてしまったらどうか。(続く)

(September 24th, 2007)

No. 106 寂しくて、空しくて、怖くて

馬鹿につける薬(6)

 ぼくは教師以外の仕事をしたことがない。
 教師になりたくて教師になり、今は数多くの教師を育てている。
 人間社会における教育の意味や意義について、そしてその可能性について心の奥深くから信じていたぼくは、しかし最近、考え込んでしまうのだ。
 人間には人間を育てる力があるのかと。

 ぼくの周りは先生だらけで、だからよく学生たちについて話したり、教育論について語り合ったりするのだが、そしてかつてはそのことが楽しかったのだが、最近時々、違和感を覚えることがあるのだ。
 なぜそうなったかは明らかである。
 ぼくはぼくを認めることができないのだ。
 ぼくは他の人よりことばに関する感性は優れていると自負している。
 話しことばも書きことばもコントロールする力はある方だろう。
 しかしそれも大したことではない。
 ましてや<生きる>ということなどについて発言する自分は、いったい何をしているのだろうと、もう一人の自分が嘲笑うのだ。

 人は自分が生きるということだけで精いっぱいなのに、どうして他の人間の生のありようにまで口を挟もうとするのか。
 もしもそういう行為が先生というものの仕事であるとするならば、これは大変だ。
 大変なんだ、ぼくたちは!
 本当に幼い子どもたちから大人に至るまで、いつの間にか手にした命をどういうふうに取り扱おうかと試行錯誤する者たちにぼくたちは、したり顔で、ほぼ既製品のことばを使って、何かを言わなければならない。
 話しているうちに、なるほどそうなんだと自分でも納得を始める。
 陶酔さえ、し始めるのである。

 研究大会等でも、ほんの少し物知りの人間が、あたかもすべてのことを熟知したように話しはじめると、ぼくはもう同じ空間にいることさえも息苦しくなってしまう。
 くだらぬ、と断ずる自分がいる。
 そして時に、そのくだらぬと断じられる者の一人に自分がいたりもする。
 恥ずかしいのだ。

 いつからだろう、こんな思いを抱くようになったのは。
 自分という人間がいかに未熟で、つまらぬ存在であるかといったことが少しずつ、おかしなことに自信をもってわかり始めてからに違いない。
 その未熟なぼくが、学生たちに説くのである。
 説いた後に必ずと言っていいほどぼくは、もっと寂しく、もっと空しく、もっと怖くなるのである。

 まるでネガティヴなことばかりを書いているようだが、他の教師といわれる者たちにも聞いてみたいと思っている。
 あなたたちはいつも教師でいて苦しくないかと。
 ぼくたちは未熟なのだ。
 まずそのことに謙虚にならなくてはならないと思う。
 そこから次に、教師には何ができるのだろうと考えるのだ。
 人が人に教えるとはどんなことなのだろうと悩むのだ。
 知識や技術はもちろん大切だが、それでもなおそれらは大したことはない。
 ぼくたちが知っていることは、知らないことと比べるとゼロに近い。
 知っていることが偉く、知らないことが劣っているのではないのだ。
 わずかばかり知っていることが大いなる未知の世界の存在を感じさせる、そのことを感じる力があるかどうかが大切なのだ。
 教師はそういうことをとっくの昔に忘れてしまって、みんなみんな愚かな知識競争の下僕と堕してしまったのではないか。
 点を取らせるためにとか、受験に勝つためにとか、教授になるためにとか、偉そうに思われるためにとか。
 助けてくれーっと逃げ出したくなるのだが、もう少し、寂しくて、空しくて、怖い思いに身をさらしてみるかと教室に向かうのだ。(続く)

(August 24th, 2007)

No. 105 子どもの心と親

馬鹿につける薬(5)

 これもずいぶん昔のことである。男子だけの中高一貫の名門私学で9年間教師をしていた、その頃のことである。

 家に戻り、寛いでいたぼくに電話がかかった。Tという生徒からである。
 「先生、ぼくは悔しいんです」とTは話し始めた。Tは高校からの入学生である。中高一貫校であるが、高校からの入学も一部認めていた。高校から入学してくるには相当な受験戦争を勝ち抜いてこなければならない。また、中学から入学してきた生徒たちは勉強の仕方の要領がよく、成績も上位を占めた。その要領のよさに溺れて結局下位を占めるのも中学からの生徒たちだった。高校からの生徒たちは彼らに挟まれる形で中位に座る。高校からの入学生はどちらかといえば質実剛健で、中学からの生徒に比べて地味だった。
 Tの同級生にHという中学からの生徒がいた。成績は常に上位で、スポーツも抜群だった。小柄ではあったがハンサムでもあった。彼はあるグループの中心で、そのグループのメンバーが良からぬことをして教員に注意されることはあっても、不思議にHだけはすり抜けていた。
 その日、Hのグループに呼び出されたTは、ジュースを買ってこいと命令された。そういったことは常態化していたようである。嫌々ながらTは命令に従った。しかし、買ってきたジュースを見て、これじゃないとHが怒った。そしてそのジュースをTの顔めがけて投げつけた。Tはメガネを飛ばすとともに、ジュースで顔を濡らした。Hのグループの者たちはその様をはやしたてた。
 Tの電話を切るとすぐ、ぼくはHの家に電話をかけた。電話を取ったHにTの話が本当かどうかを確認すると、Hは素直に認めた。大したことではないでしょう、といったニュアンスが感じられた。
 「ふざけるな」と激しく注意したぼくは、自分が向き合っているものの根深さを何となく感じていた。
 「父親がいるか。かわりなさい」
 「父は仕事に行って、家にはいません。」
 Hの父は薬局を経営していた。Hが医学部に進学し、医者になるというのが親の願いであった。
 「お父さんの薬局の電話番号を教えなさい」
 「先生、勘弁してください。親には言わないでください」
 Hは必死で頼んだ。無理やり聞きだした父親への連絡先にぼくは電話をし、今からぼくの家に子どもを連れて来いと言った。
 「先生、もう夜分でもありますし、ご迷惑でしょうから。先生の言われることはよくわかりましたから。息子には厳しく言っておきますから」
 「いや、すぐ来てください。夜であろうがなかろうが、そういったことは気にしませんから」
 しぶしぶ訪ねてきた父子を書斎に通した。妻が紅茶を運んできた。
 「先生、学校にN先生がおられるでしょう。N先生と私はこの学校の同期なんですよ」
 自分もこの学校の卒業生(OB)であり、同期には管理職のN先生がいるので、今回のところは穏便にというのが父親の言わんとすることのようだ。ぼくには、その不思議な笑みがたまらなく不快であった。
 「ええ、N先生はいらっしゃいます。とても立派な先生で、尊敬しています」
 ほっとしたような父親から目を外し、ぼくはHに言った。
 「ぼくは今からこの紅茶を君のお父さんの顔にぶっかけるつもりだ。いいね」
 Hは驚いた。父親はのけぞった。
 「いいか、君のしたことは大変なことなんだ。人間の尊厳を傷つけることなんだ。そういうことに慣れてはいけない」
 ぼくは子を叱り、父親を諭した。
 あくる朝学校に行くと、N先生がぼくを手招きした。
 「昨日の夜、随分派手にやったようだなあ」
 「えっ、もう聞かれましたか」
 「うん、電話があってね。心配しないでガンガンやれよ」

 担任教師に気持ちの悪いネゴシエートをする父を目の当たりにして、Hは何を思っただろう。本当に子どもを愛する親であるならば、まずは子どもの心について考えたい。清々しい人間として子どもに向き合いたい。

 日本に戻り、福岡に出張したぼくは、公開講義が終わると会場から静かに立ち去る男を見た。時が流れ、中年になったTがぼくの顔を見るためだけに新幹線に乗ってやってきたという。追いついたぼくにTは抱きつくように手を取って、「ありがとうございました」と言った。(続く)

(July 5th, 2007)

No. 104 学力低下は親のほうだ

馬鹿につける薬(4)

 子どもたちの学力低下については、その科学的検証がなされないまま、今やだれもが信じて疑わない。そこで導き出されるのは、かつてのように詰め込み教育に戻せという本音だ。東京大学大学院教育学部の有名教授などは「私は学力とは何かといった定義はしないが、学力は確かに低下した」と恐ろしいほど愚かな発言をし、ぼくがその稚拙さを指摘すると、「私は教育の専門家ではないので」と逃げる始末である。
 ここではそういった子どもの学力については述べないが、親の学力、すなわち〈親力〉について考えてみたい。
 ずいぶん昔のことになるが、ぼくはかつて中高一貫の私学で教師をしたことがある。男子だけのいわゆる名門進学校で、9年間そこで教えた。
 高校3年のあるクラスを担任した時のことである。

 Kという生徒がいた。ホームルームの時間だったか、彼は立ち上がり、こう言った。
 「勉強も大切だけれど、ぼくたちは他にも色々と考えるべきことがあるんじゃないだろうか。ぼくたちの周りには平和運動をする人もいれば、環境について活動している人だっている」
 しかし、彼の発言は応えのないまま空しく消えていった。
 Kは同級生より一つ歳が上だった。中学時代に野球部にいた彼は甲子園にあこがれ、野球で有名な高校に入学する。しかしその学校には、彼のレベルをはるかに超えた者たちが全国から集まっており、3年間で正選手になれるとはとても思えなかった。考えが甘かった、井の中の蛙だった、と悟った彼は、勉強をしなければ、と方向転換をしようとする。
 「高校に入りなおしたい」という彼に、父親は「わかった。しかし、今の学校に通いながら受験勉強をするのではだめだ。今の学校はすぐ辞めなさい。受験に失敗しても今の学校があるなんて考えたらだめだ。そして、下宿で一人で頑張りなさい。家には戻ってくるな」と言ったという。
 父の指示通りKは学校を辞め、一人下宿で受験勉強に打ち込む。そして、合格する。
 大学進学を控え、彼がやってきた。
 「親が一校しか受験してはならない、もし落ちたら働けと言うのです。一校しか受けるなというのはいいのですが、ぼくはどうしても大学に行きたいので、落ちたら浪人をしたいと思っています。親は支えないというので、自分でやっていくしかありません。もし落ちたら新聞の取次店に住み込んで新聞配達をしながら予備校に通おうと思っています。ただ、それには保証人が必要です。先生がなっていただけませんか」
 三者懇談の際、ぼくは母親に聞いた。
 「一校しか受けてはならない、落ちたら働け、とお父さんがおっしゃっておられるようですが」
 「はい。主人の考えが正しいと思います」とKの前で母親はきっぱりと答えた。
 Kに部屋の外に出てもらい、再度ぼくは母親に尋ねた。
 「本当にお母さんもお父さんと同じ考えですか」
 母親は泣き崩れた。
 「Kが可愛そうなのですが、主人の言うことは正しいと思います。でも、辛くて、……」
 母親の涙について、ぼくはその時Kには話さなかった。
 受験に失敗したKは、一人で下宿を引き払い、ぼくにあいさつに来ると、実家にも帰らずそのまま新聞取次店へと旅立った。
 それから1年が経とうというある日、Kから大学に出願するために必要書類を送ってほしいとの連絡があった。しばらく経ち、受験を終えた彼が訪ねてきた。新聞配達の休みを貯めて受験に行ってきた帰りである。
 行きつけの寿司屋に彼を誘い、酒を飲みながら語り合った。彼は今年も一校のみを受験した。
 この一年、彼はひとりで生きた。
 「君は親を怨んでいるか」
 「いえ、親は正しかったと思っています」
 「もし今年もダメだったら、どうするつもりだ」
 「もう一年頑張ります」
 「これから、家に帰るのか」
 「いや、合格しないと、帰れません」
 ぼくは一年前の母親の涙について話した。Kは泣いた。寿司屋のおやじは暖簾をしまい、静かに酒を継ぎ足してくれた。
 それからしばらくして、Kから電話がかかる。
 「先生、合格しましたッ」
 「今どこから電話してるんだ」
 「親と一緒です、家です。父が泣いています」
 親が親であって、子が子になる。愛するということには力がいる。(続く)

(June 12th, 2007)

No. 103 ぼくもまた、馬鹿親だった

馬鹿につける薬(3)

 ぼくもまた、「馬鹿親」だった。いや、今もまだ「馬鹿親」のまま成長していないような気がする。

 ちょうど20年前の春、ぼくは英国に渡った。
 それは衝動的と表現してもよいほど、唐突な選択であった。
 教育や研究に関する仕事に従事しながら、あるいは詩人気取りで夜の街を徘徊しながら、闇へ闇へと沈んでいく自分を感じていた。極端に少ない睡眠時間の中でも、苛立ち続けた精神は安らかな眠りにぼくを誘ってはくれなかった。〈今〉から脱出しなければ、と思っていた。
 そのころのぼくは、全力で教育に打ち込み、全力で研究に没頭し、全力で詩を書いた。つまり、ぼくは300パーセントの世界に住んでいた。しかし、ぼくにはもう一つの全力が欠けていた。

 「馬鹿親」とは「あるべき親として存在せず、なすべき親の務めを果たさぬ者」のことである。「自分のことをまずは大切にし、子どもの本当の幸せについては二の次にするような身勝手な者」のことである。

 英国に出発する前の晩までぼくは仕事に追われた。家には、締め切りを過ぎた原稿を取るために編集者がやってきた。
 英国の通貨に換金する時間もなかったため、英国に到着した時ぼくは、1ポンドも持っていなかった。
 当時、日本と英国を結ぶ飛行機に直行便はなく、アンカレッジを経由した。ヒースロー空港には早朝、午前6時ごろだったか、到着した。前もって日本から送っていた書籍以外にも大量の書籍(段ボールの箱で数十箱はあったか)を飛行機には積み込んでいた。入国審査も通過した覚えがほとんどなく、飛行機の出口まで出迎えた担当者に従って車に乗る
 妻と三人の子どもたちも一緒にそのまま職場に直行し、学食で朝食をとる。家族はあらかじめ予約しておいたホテルに行かせ、ぼくは早速会議に入る。
 夜まで働いたぼくはようやくホテルに向かう。
 ホテルでは子どもたちが言葉のわからないテレビを見ている。
 その子どもたちを呼び、ぼくは言った。
 「君たちはもっときちんと挨拶が出来なくちゃあ、だめだ。なんだ、今朝のみっともなさは」
 2歳の娘、5歳と6歳の息子が横一列に立って並び、ぼくの厳しい言葉に身を縮こまらせている。
 「もういい、やすみなさい」と解き放たれた子どもたちはベッドのある部屋に行き、ベッドに顔を埋めて泣いた。大きな声を出して泣いてはさらに怒られると思ったのだろうか。
 ぼくの傷である。償うことのできぬ罪である。
 このときのことをもう何十回思い出しただろう。外国に着いたその日の夜なのである。未熟で、身勝手で、しかも偉そうにふるまう男の醜さをぼくはいくたび恥じただろう。
 息子二人はすぐに現地校に入れられる。アルファベットの存在も知らなかった子どもたちは、英語だけの世界で泳ぎはじめる。泳ぎ方も知らなかった彼らはしかし、自己流で手足を必死に動かし、もがきながら泳ぎはじめた。そうしないと溺れてしまう。
 2歳の娘はすぐに高熱をだして何日も寝込んだ。その時、父親は妻にすべてを押し付けて、仕事の都合で職場に泊まり込んでいた。

 数年経って長男は学校で作文(英語)にこう書いた。
 「どうしてイギリスという知らない国にぼくたちは行かなくてはならないのだろう。友だちと遊ぶこともできなくなるし、言葉なんか何もわからない。ぼくは飛行機の中で悲しくて涙が出そうだった。けれどもぼくが泣いたら弟や妹が不安になる。我慢しなければと、そのとき思った」

 子どもたちはもう大人になった。
 3人とも自分の道を求めて模索している。徹夜を繰り返しながら、研究や学習に打ち込んでいる。その徹底した取り組みにぼくは、時に苦笑いをする。
 今年のぼくの誕生日に娘がくれたカードの中には、一つの書類が入っていた。アフリカの貧しい教師たちの研修のためにぼくの名で寄付をした証明だった。「パパが喜ぶと思って」と娘ははにかんだ。
 次男は自作自演の英語の曲の中で、「もう晩くなったよ、早く帰ってきてゆっくりお休みよ」とうたった。
 カレッジで教えてもいる長男は、書き上げたばかりの授業構成についての論文のコピーをくれた。
(続く)

(103 April 27th, 2007)


No. 102 続・子どもをダメにする親

馬鹿につける薬(2)

 万葉の歌人・山上憶良の歌に次のようなものがある。

  瓜食めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ いづくより 来りしものぞ
  まなかひに もとなかかりて 安眠しなさぬ

  銀も金も玉もなにせむにまされる宝子にしかめやも

 「子らを思ふ歌」という題のある長歌と、その反歌である。
 親の子を思う愛情ははるかな昔より変わらない。「安眠しなさぬ」その子の幸せについて、片時も忘れることはない。
 いや、子を虐待したり、子どもを自分のアクセサリーぐらいにしか思っていないような昨今の愚かな親たちを見ていると、「親」という語のもつ意味的世界が変化したのではないかとさえ思えてくる。

 親の子に対する愛情について考える時、ぼくはいつもRoberto Benigni監督・主演のイタリア映画「Life is Beautiful」を思い出す。この映画で描かれる父親像こそが、ぼくたちの理想とすべき親の姿ではないかと思うのだ。
 この映画の父親は幼い子とともにナチスのユダヤ収容所に連行されたのちも、ただ子どもの命を守ろうとするだけでなく、子どもの心さえも守ろうとするのである。親が、例えば戦時中に子どもの命を守ろうとするのは当たり前だが、彼は厳しい状況の中でも子どもの心やまなざしをゆがめないように努力するのである。むろんそのためには大変な力が親には要求される。それを知性と呼んでもよい。
 「どうせこの世の中はお金次第なのだから」とか、「一流企業に入らないと幸せになれないわよ」などと平気な顔で子どもたちを叱咤する親たちはこの映画の中の父親とは対極に位置する。
 これらの馬鹿親たちは確かに今、不幸なのであろう。
 「給料の高い、いわゆる一流会社に入らないと幸せになれない」と思っている馬鹿親は、たとえそれが叶って一流会社に入れたとしても、そのことによって幸せといったものが保証なんかされないということについて知らない。あるいは知らないふりをする。
 人間の幸せなどということについて、もはや考える能力さえ持たないのである。
 おそらくは、自分のことしか考えることのできない者たちなのである。これらの馬鹿親たちはまず自分の見栄を第一に大切にしようとする。参観日があれば、自分が何を着ていくかが最も大切である。子どもは自分に恥をかかせることなく参観授業を終えてくれればいい。できれば手を挙げて素晴らしい答えをしてくれたらいいが、そうでなくったってかまわない。いい中学校や高校、そして一流大学に進学してほしい。さもないと、井戸端会議などで、世間体が悪いのだ。子どもがどんなものに興味を持っているかとか、どのような職業に就きたいと思っているかなどということはそれほど重要ではない。とにかく世間体のいい会社というのが好ましい。名の通った一流と呼ばれる会社がいい。あるいは公務員だ。安定した生活は魅力的だ。
 いや本当はそんなことはどうだっていい。そんなことより、自分のことだ。母親だって一人の人間として人権を持っているのだし、カレーライスを作るのにいろいろと時間をかけるんだったら、袋を温めてご飯にかけるだけのものでいい。何ら変わりはないし、私が作るよりは数等うまいのだから、そんなことに時間をかける必要はない、何しろ人権を持っているのだから。野菜サラダだって、すでに切ってあって袋から出すだけのものと自分で切ったりするものとどこが変わるというのか、そんな時間があったら教養講座に通ったり、英会話を習ったり、そう、もっと自分をブラッシュ・アップしなくちゃ、何しろ人権を持っているのだから。
 こういう輩の身につける教養なんてたかが知れている。いや、身に付いたりはしない。つけようとしているものは表面的な知識であり、それをひけらかす機会である。
 本当に、親がいなくなった、いるのは親という肩書を持つバカばっかりである。「銀も金も玉」に目のくらんだ大馬鹿者ばかりである。
 子どもの幸せって何なんだ。子どもにとっての幸せは、まずは、本当に心豊かで優しくて、その優しさの奥深くに強靭な強さを持った親との出会いではないだろうか。日常の打算や迎合、虚飾や偽善といったものにはびくともしない、そんな清々しいまなざしを持った親の存在ではないか。(続く)

(March 28th, 2007)

No. 101 馬鹿に付ける薬

1)子どもをダメにする親

 政治家たちが声高に教育再生を叫んでいる。そこには彼らの貧相な知性といったものが透けて見えて醜悪である。いや政治家のみならず、それらを支えようとする御用学者や経済人たちの稚拙な論理にも驚くばかりである。さらに、リベラルな、あるいはやや革新のオーデコロンをまとった似非知識人たちの無責任な傍観者的言動、加えてどうしようもなく呆けてしまった親たち、プロフェッショナルとしてのプライドなんかとっくの昔に捨ててしまった教師たち、みんなみんな揃いに揃って馬鹿者たちが今、「気持ちの悪い国・日本」を創ろうとしている。
 ■馬鹿親

  1. 子どもが風邪で学校を休む。あくる日その子どもの親から担任に電話がかかる。「給食費を払っているんだから、子どもが学校を休んだら給食を家までどうしてとどけないんだッ」
  2. 親が学校に怒鳴り込んで来て、言う。「この教科書はうちの子どもにはあわない。すぐ変えろッ」
  3. 授業中に居眠りをしていた子どもを注意した教師に親が抗議の電話をかけてくる。「せっかく休んでいるのにどうしてそっとしてやってくれないんだ、塾で疲れているんだぞッ」

 こういう親を放し飼いにしていてはいけない。こういった親たちに育てられる子どもたちの将来は暗澹たるものである。そういった子どもたちが大人になった社会には健全な人間は住めなくなる。こういう馬鹿親たちに市民権を与えてはいけない。こういったことは犯罪以外のなにものでもないのだから、即刻逮捕し、「親鑑別所」に入れる必要がある。「美しい国」を創りたいのなら、こういった輩に人権を与えてはならないのである。親鑑別所では、ひたすら地道な作業をさせる。たとえば農業がいい。未開の地を開拓させて、少なくとも5年間は隔離し、農作物の生産に従事させる。その間、子どもたちには安心して、まっとうな考えの下で生活できる環境を提供する。
 それにしてもひどすぎる親たちが跋扈している。不思議なのは、どうしてそういった輩をのさばらせておくのかということである。暴力団にも似た親のわがままな恫喝によって小学校の校長や教員が自殺したり、病気になったりしている。
 この親たちが子どものころ受けてきた教育は、いわゆる「詰め込み教育」であって、今盛んに批判される「ゆとり教育」ではない。受験戦争に勝ち抜いた先には一流企業や官僚といった勝ち組の仲間入りが保障されるなどと踊らされた者たちである。高給を得る者が立派な人間であり、お金という数字にひれ伏してきた者たちである。教養や品格などとはほど遠い者たちである。
 けれどもまさに末期的かつ喜劇的なのは、今教育再生を叫ぶ者たちの価値観はどっぷりとそれらの数字崇拝におかされている。百マス計算をはじめとした恐ろしいほど気持ちの悪い幼稚な訓練教育は何だろう。そういったブームを演出するメディアの連中も、同じ穴のムジナである。
 つまり、日本社会は間違いなくもっともっと悪くなるのである。理屈が通らないのに殴られたり、計算のスピードが少し遅いからといって馬鹿にされ一生ダメな人間として扱われたり、教室で居眠りしようが、携帯電話をかけようが、注意されることはなくなり、まじめに勉強したい子どもたちも次第に無気力となっていくのである。
 高校卒業に必要とされた科目の未履修の問題も、結局は文部科学省を中心とした気持ちの悪い大人たちが適当なごまかし方を率先して教えてくれた。まじめに学習しなくても、受験のためなら許されるんだといった大人の論理を国をあげて教えたのである。どうして、一年ぐらい足踏みをさせる力が大人になくなってしまったのだろう。いけないものはいけないんだと教えることができなくなってしまったのだろう。
 気持ち悪くないのか。
 少なくとも親は、自分の子どもの幸せについて真剣に考えなくてはならない。たとえ国や社会がどのように推移しようとも体を張って子どもの幸せについて闘わなければならない。たとえば、戦争がはじまったら子どもを戦争のない国に逃がすのだ。非国民といわれようが、命を守ろうとしなければならない。殺されず、殺さぬ人間として、心も守らなければならないのだ。
 親は、本当の幸せについて毎日毎日考え闘わなければならないのだ。子どもの、そして自分の幸せとは何だろうかと。(続く)

(March 5th, 2007)

所長室からのメッセージ集

図師照幸の日本語を歩く

j0430553.jpg研究所所長・図師照幸が、日本語の世界を伸びやかに、楽しく歩きます。日本語の文法や語彙・意味に関する豊かな視点がちりばめられています。

濫觴

j0401237[1].jpg英国国際教育研究所で学ぶ皆さんへのささやかな、けれども真摯なメッセージとなって、教育や学問の世界での新しい宇宙を創造しようとする皆さんの磁場となるように創刊されたものです。

検証 教育問題への提言

kensho.gif教育に関わるさまざまな問題について、研究所所長・図師照幸が徹底的に分析し、斬新かつグローバルな視点から提言します。

大きな地球 フロントポエム

uta1.gif読者から送られてきた写真の世界を、詩人・図師照幸がまったく独自の想像力と創造力によってあたたかい言葉の世界に置き換えていきます。