図師照幸の日本語を歩く | Institute of International Education in London

研究所所長・図師照幸が、日本語の世界を伸びやかに、楽しく歩きます。日本語の文法や語彙・意味に関する豊かな視点がちりばめられています。




図師照幸の日本語を歩く (45)たら

(45)たら

愛すべきMKさんは『サザエさん』は嫌いだという。MKさんは東京G大学(国立・教員の養成が主な大学)の准教授である。彼が研究所で日本語教育について学んだ際、キャンパスの芝生の上でのパーティーのワインに少しだけ酔ったMKさんは「マスオさんがかわいそうだ」とのたまった。先ごろ亡くなった藤田まことの「必殺」同様、ムコ殿の悲哀があるではないかというのである。な、なるほど、と思う。MKさんの口ぶりには鬼気迫る迫力があるのである。しばらくしてMKさんはポツリといった、「ぼくも家ではマスオさんなんだよなあ」。ぼくはMKさんのような身につまされる状況ではないので、そしてこの漫画の登場人物たちのことば遣いが丁寧なので、好きだ。先日、女優の竹下景子さんと東京でお酒を飲んだ時、「今度私、『サザエさん』に出ます」と聞いた。「ああ、いいですね」というと、「フネです」ときっぱり。「……」。いや、いや、フネだってぼくは好きだ。優しく、包容力のあるお母さん(おばあさん)ではないか。『サザエさん』に登場する人はみんな好きだ。特にタラちゃんが可愛い。ところで、この<たら>である。『サザエさん』とは全く関係ないのだが(相当強引な前書きであるが)、条件や仮定を表す<たら>である。「日本に行ったら、真っ先におそばが食べたい」「日本に行ったら、真っ先におそばを食べた」 この二つの例文を比べてもらいたい。<たら>の後に書いてある事柄(「後件」などといったりするのだが)の時制が違うのだ。さらに、「日本に行くなら、お土産に紅茶を買っておいた方がいいよ」というと紅茶を買うのは日本に行く前であるが、「日本に行ったら……」とこの後件とは並び立たない。この<たら>、なかなかの曲者であるようだが、もともと助動詞の〈たり〉なのであるから、じっくりそのあたりを整理してみればわかる。それはそうと全巻揃えていたマンガ『サザエさん』が人に貸すうちにいつの間にかどんどんなくなってしまっている。おーい!

(2010-02-25)

図師照幸の日本語を歩く (44)食い足りない

(44)食い足りない

またまたN君の登場である。そして、またまた博多のラーメンの話である。4杯の豚骨ラーメンをたいらげたN君、まだ食い足りないと、ぼくと別れた後、もう一軒のラーメン屋さんを目指した。やはりぼくのホテルのそばにある『八ちゃんラーメン』である。ここも『ダルマ』にひけを取らない有名店である。『ダルマ』からは歩いて10分、N君はラーメン道を極めるために一人向かったのであった。深夜2時、彼の眼は血走り、いったい何のために博多にやってきたのかはとうに忘れている。油がこってりと浮き、差し出される時には必ずおじさんの親指がスープに浸かっている丼(どんぶり)が彼の唯一無二の目的である。それ以外は彼が博多にいる理由はもう存在しない。ところで、この〈食い足りない〉ということばであるが、この肯定語は〈食い足りる〉となるのだろうか。〈大きくない〉の肯定語は〈大きい〉となるのだから。いやいや、〈食い足りる〉といった表現はあまり聞かない。〈つまらない〉も〈つまる〉とセットではない。では、〈大きくない〉と〈食い足りない〉とでは何が違うのか。〈大きくない〉と言っても必ずしも〈小さい〉という意味になるわけではない。つまり〈大きくはないが、小さいわけでもない〉という意味にだってなれる。〈食い足りない〉と言えば、〈まだ満腹にはなっていない〉という意味に限定される。基準がはっきりしており、〈食い足りないか、そうではないか〉のどちらかなのだ。ゆえに、〈食い足りない〉の反対語は〈食い足りないのではない〉となる。〈つまらない〉は〈つまらないのではない〉。ことばが表す範囲の問題である。もっとも、たとえばかつては〈つまる〉と言っていたのではないかと思われ、現代語になるにつれて言わなくなったのではないか。ところでN君、勇んで向かった『八ちゃんラーメン』はお休みだったようで、あくる日の彼の落胆ぶりは目も当てられないほどであった。こらッ。

(2010-02-13)

図師照幸の日本語を歩く (43)すごい

(43)すごい

日本出張の際、N君と福岡・博多のラーメン屋さんに行く。卒業生たちとの懇親会で刺身や焼き物などをおなかいっぱい食べ、飲んだ後、ホテルに戻ろうとすると、N君がタクシーに乗り込んでこようとする。「君のホテルは別方向でしょ」「いえ、先生をホテルまでお送りします」「だいじょうぶだよ」「いや、心配ですから。それに、…」「それに、って」「それに、もしかしてこの後どこかに寄られるのではと期待して、いえ、心配して」「どこかって?」「たとえば、『だるま』とか」『だるま』というのは、ぼくの宿泊するホテルのそばにあるラーメン屋さんで、博多ではうまい店として知られている。店に入ると、深夜というのに混んでいる。冷たいビールを飲みながらのこってりとした豚骨ラーメンはさすがにうまい。N君はあっという間に平らげて、ぼくに気持ち悪く微笑んでいる。彼の丼をみるとスープがまだだいぶ残っている。「あのぉ、…」「いいよ、替え玉しなさいよ」替え玉というのは、スープはそのままにして、麺だけを追加するお替りのことである。なるほど、最初からそのつもりでスープを残していたのだなと感心したのだが、「バリカタ」(とてもかための麺)、「ハリガネ」(針金のようにかたい麺)、「コナオトシ」(ほんの瞬間お湯をくぐらせた程度の最もかたい麺)と、彼は次から次へと替え玉をしたのだ。途中で、お店の人がスープまで替えてくれたほどである。結局、計4杯分をたいらげたのであった。昼間の仕事中はゆっくり休んでいたので、この程度を食べるぐらいの体力はあるのだろう。ところで、テレビから流れるCMに「すぐおいしい。すごくおいしい」といったものがある。インスタントラーメンの元祖・チキンラーメンのCMである。この〈すごくおいしい〉といったことば遣いは正しいが、最近は〈すごいおいしい〉という輩が増えている。〈すごいいいやつ〉〈すごい高い店〉などなどよく耳にする。形容詞の副詞的用法となるのだから〈すごく〉が正しいのだが、なぜ〈すごい〉となるのか。〈すごい〉と〈おいしい〉が並列的に並んでいるわけではなく、ただ〈すごい〉という感情表現を文法的に制御できない幼稚さの表れということができよう。

(2010-02-09)

図師照幸の日本語を歩く (42)立派な

(42)立派な

東京と大阪の面白い比較に、言語表現の違いがある。大阪で「痴漢、あかん!」という警察の防犯標語は、東京では「痴漢は立派な犯罪です」となる。「いやあ、それほどでも」とまさか痴漢が照れたりはしないだろうが、この「立派な」という言葉は面白い。前号の「きちんと」に共通する。比べながら読んでいただければ、その共通点に気付くだろう。ところで、東京の言葉が地方の言葉に比べて優れていると勘違いしている者がまだまだ沢山いるが、そんなことはない。いろいろな言葉のエネルギーを味わうのは楽しいことだ。楽しむ力が知性なのだ。

(2010-02-01/日本出張中・東京神楽坂にて)


図師照幸の日本語を歩く (41)きちんと

(41)きちんと

母国語教室のK先生は子どもたちに向かって声を張り上げた、「きちんと書きなさい」 そういえば彼女はいつもきちんとしている。立ち居振る舞いは常にメリハリがきいており、なよなよした若者は油断すると張り飛ばされてしまいそうである。いや、極めて優しく、思いやりにあふれた知的な先生なのだが。廊下はほぼ直角に曲がり、腰かけているときはいつも背筋がピンと伸びている。教育に向き合う姿勢もきちんとしていて、授業の準備は周到である。ところでこの〈きちんと〉ということばであるが、これは多少厄介なことばでもある。特に外国人にはわかりにくい。たとえば、K先生が年始に挨拶にやってきた。今年もよろしくお願いします、と60度のお辞儀をして、お菓子をくれた。好物のどら焼きである。他のスタッフと一緒に食べていると、M先生が言った、「K先生はいつもきちんとしていますねえ」と。「盆暮れのきちんとした挨拶」といった場合の「きちんとした挨拶」とはどういったことを指すのだろう。おそらくお中元やお歳暮を指すのではないか。いずれにしてもこの〈きちんと〉は「きちんとした服装」とか「きちんとした態度」などと同じくほめことばであるが、「TD先生はどんなに忙しい時も毎日1時から2時までの1時間はきちんと休憩する」といえば、そう言った人のTD先生に対する思いはあまり好意的には思えない。この〈きちんと〉ということばには、どうやら、日本人の価値観や社会の仕組みといったものが隠れていそうである。

(2010-01-18)

図師照幸の日本語を歩く (40)雪

(40)雪

今年の冬は寒い。ロンドンで20年以上も暮らすぼくであるが、雪が毎日のように降るといった冬は初めてだ。鄙(ひな)びた温泉宿で雪を眺めながら熱燗でも、といったそういう時間がとても恋しい。ところでこの雪に関したものに、[雪と墨(すみ)]といったことばがあるのをご存知だろうか。「かきくれてふりくる空や雪と墨」といった句もある。物事が正反対であることをいい、[月と鼈(すっぽん)]や[提灯に釣鐘(つりがね)]などと同じような意味である。しかしながら、[月と鼈]や[提灯に釣鐘]と[雪と墨]とにはやや違いがある。前者には「比べられている両者には表面上似通ったところがあるが実際はまるで違う」といった意味合いがあるが、後者の[雪と墨]には共通する点は全くない。少し使い分けをした方がよさそうである。蛇足だが、[提灯に釣鐘]は、片方だけが重いということから、「片思い」といった意味に使われることもある。洒落である。

(2010-01-11)

図師照幸の日本語を歩く (39)新年明けましておめでとうございます

(39)新年明けましておめでとうございます

新年である。新しいということはとても気持ちのいいことだ。歯ブラシも髭剃りの刃も下着も靴下も何もかも新しいものにして、今年こそはと決意を筆でしたためる。ところで、この〈新年明けましておめでとう〉といったことば遣いについて、どこかの出版社の国語辞典の新聞広告が取り上げていた。〈あける〉ということばについての解説である。手元になくなってしまったのでその要点をうろ覚えながら書くと、「旧い年が明けて新年になる」といえばこの〈あける〉には「終わる」といった意味合いが加味されるが、であるとすると〈新年明けまして〉というのはおかしな感じがする。「新年が終わった」といった意味にとれなくもないからだ。これは「水を沸かす」「お湯を沸かす」といったことばと同じで、「明けた結果、新年となった」という意味だとの解説である。「穴を掘る」などと同じ生産動詞であると言いたいのであろう。けれどもこの説明はやや苦しい。ここでは、この〈新年〉と〈明けまして〉との間に少しポーズ(間)があると考えて、「新年です。旧い年が明けました(改まりました)。おめでとうございます」といった程度の解釈が自然で、素直だろう。

(2010-01-04)

図師照幸の日本語を歩く (38)忘年会

(38)忘年会

忘年会の季節である。ここロンドンでは、忘年会というよりもクリスマス・パーティーである。なんでもいいのだ、飲めれば。飲む口実さえあれば。だいたいクリスチャンでもないむくつけき男どもがクリスマス云々は似合わない。ところで、いわゆる宴会には幹事なるものが存在する。どのお店でやるかなど結構頭を悩ますらしい。「あのお店はうまいけれど、高いからなあ」などと悩むのだ。この不景気、ちょっとでも安く済ませたいのはよくわかる。ところで、この表現を「あのお店は高いけれど、うまいからなあ」と言い換えたとする。「このお店が高くて、うまい」ということはどちらも同じだが、なんだか少し感じが違うように思える。いわゆる発話者が言わんとすることに違いを感じるのである。「あのお店はうまいけれど、高いから行くのはやめよう」という意味が前者には、「あのお店は高いけれど、うまいから行こう」といった意味が後者には、それぞれ含まれうる。逆接の「けれど」は曲者で、このほかにもいろいろないたずらをする。酔いの回った頭で考えてみたらどうだろうか。えっ、勘弁してくれ? そうだよね、今年ももう終わります。良いお年を。

(2009-12-18)

図師照幸の日本語を歩く (37)年末

(37)年末

気が付くと師走である。子どものころはわくわくするような季節だったが、大人になってからは何となく落ち着かない。ところで「年末」と言えば一年の終わりのころということになるのだが、「月末」はどうだろう。「月の終り。また、そのころ。つきずえ。」というのが広辞苑の説明であるが、これを「げつまつ」と読む場合と「つきずえ」と読む場合とではなんとなく意味に違いがあるように思われる。この「すえ」には「まつ」に比べて幅が感じられ、月の終わりの数日といった意味合いがあるが、「まつ」になると月の最後の日といった意味合いがより強くなる。「10月の末(すえ)に太郎に会った」と「10月末(まつ)に太郎に会った」とを比較してみるとわかりやすい。ゆえに、月単位の統計をとったりするときは「まつ」で整理する方がいいだろう。とはいえ、「年末」は「ねんまつ」と読んでも幅がある。「月の終り」と「年の終り」のスケール(尺度)の違いであろう。

(2009-12-11)

図師照幸の日本語を歩く (36)上手の手から

(36)上手の手から

日本事務局のTSさんは国語の教員免許も日本語教師の資格も持つ才女である。さらに、水泳の指導者資格も有し、何とあのバタフライもできるというから驚きだ。加えて、こってりとした豚骨ラーメンを立て続けに3杯も食べられるという特技も持つ (これは余計なことだった、失礼!)。とにかく凄いのだが、いたって謙虚で、誠実で、いつも電子辞書を携帯し、出張中にぼくがつぶやく故事成語やどうでもいいような難しいことばを引きまくるのである。ある朝のことである。その日は東京から名古屋に日帰りでの出張の予定であった。新幹線の乗車券等はTSさんが所持しており、ぼくの泊まる宿まで迎えに来ることになっていた。そろそろだなと玄関で靴を履き、彼女の迎えを待っているのだがなかなか現れない。約束の時間が過ぎ、どうしたのかなと思っていると、宿の女将さんが電話がかかっておりますと知らせてくれた。「すいません、遅れました!」と彼女からの慌てふためく必死の声。「ウン、遅れたことはわかっているから」「すいません、遅れます!」「ウン、新幹線に遅れることもわかっているから。上手の手から水が漏れるということだねえ」「……」「君、何してるの、今?」「電子辞書を、ちょっと、……」「そうかあ、でも、もしできたらね、まずはこっちに来てくれないかなあ、乗車券を持って」

(2009-12-4)

図師照幸の日本語を歩く (35)ハンカチ

(35)ハンカチ

若い頃は暑い夏でも涼しい顔をしていたぼくは、歳をとるにつれて汗掻きになった。原因は大量に飲む酒のせいだろう。そのためぼくはハンカチを手放すことができない。いつもズボンの右と左に一枚ずつしのばせている。さて、ことばの問題である。[①先生はハンカチをズボンのポケットから引っ張り出して、額の汗をぬぐった。②先生はハンカチをズボンのポケットから引っ張り出すと、額の汗をぬぐった。]どちらも同じことを言っているのだが、少し違うようにも思える。違いを確かめるにはいろいろな方法がある。たとえば、これらの文を質問の形に変えてみる。[①先生はハンカチをズボンのポケットから引っ張り出して、額の汗をぬぐったか。②先生はハンカチをズボンのポケットから引っ張り出すと、額の汗をぬぐったか。]①は先生が「ハンカチをズボンのポケットから引っ張り出して、額の汗をぬぐったかどうか」を問うている場合と先生がハンカチをズボンのポケットから引っ張り出して、そのあと「額の汗をぬぐったかどうか」を問うている場合の二通りが考えられる。それに比べて②はどうだろう。先生がハンカチをズボンのポケットから引っ張り出したことは間違いなく、訊ねているのはそのあと「額の汗をぬぐったかどうか」ということにしぼられる。主節と従属節とからなる文にはこのような面白い特徴がいろいろと発見できる。ところでハンカチである。漢字では手巾と書くが、ネクタイ同様、女性からプレゼントされると男は何となくくすぐったい思いがするものである。ところが女性からもらったばかりのハンカチで、しかもその女性の目の前で豪快に洟(はな)をかんだ男がいるのだ。もちろんそれで日本事務局のN君の恋は終わったのだった。ああ、ハンカチよ。

(2009- 11-27)

図師照幸の日本語を歩く (34)魚偏

(34)魚偏

心優しいTD先生がうれしそうな顔をして所長室のドアをノックした。T先生のお寿司の件を知ったTD先生は「ぼくもごちそうしてもらおう」と思った。ただ、何か所長がなるほどと感心するようなきっかけが必要だ。TD先生は、漢字の指導の際見つけた面白い漢字について所長に話すことにした。ふつう魚は魚偏の漢字で表記される。ところが、フグ(河豚・鰒)と並び高級魚のオコゼは鰧と書くのだ。あるいは、虎魚とも書く。いかにも獰猛な顔をしたオコゼにふさわしいではないか。これにはきっと所長も驚くぞ。「あのォ、今日は漢字のことで、ちょっとォ、……」「漢字?」「お寿司屋さんの大きな湯呑にはよくお寿司のネタとなる魚の名前が漢字で書いてありますが……」「ん?」「ふつう、魚という漢字が左側、つまり偏のところにありますが、……」「そう。でもね、たとえばオコゼという魚の場合はね、そうじゃなくてね、こういう風に書くんだよ。ね、面白いだろ」「……」「で、何?」「はあ、何か他に面白い漢字はないかと思いまして、……」「そうか、でも今忙しいから、また今度にしてくれないかな」「わかりました」

(2009-11-20)



図師照幸の日本語を歩く (33)安くて買いました

(33)安くて買いました

さっきからM先生があきれている。会議が始まるとすぐ、目の前のT先生が大きな肯きを繰り返しているからだ。もちろん肯くような発言は誰もしていないのである。会議が終わり、M先生がT先生に言う。「よく寝ていたねえ」「寝てないよォ」「よく肯いていたねえ」「うん、うん、うん」またしてもM先生があきれている。F先生の口の動きが止まらない。「よく食べるねえ」「よく噛んでいるの」「よく噛まないと大きくならないからねえ」「そう、そう」またまたM先生があきれている。またしてもTD先生の姿が見えない。「よく休憩するねえ」「レベルの高い仕事をするための貴重な時間なんだよ」「レベルが低くてもいいから、早く書類を出してくれる?」「なんだっけ?」ため息をついているM先生のところにグリニッジ大学で日本語を選択している学生が顔を出す。M先生はグリニッジ大学の先生でもある。「先生、このTシャツいいでしょう。安くて買いました」「ん?」「M&Sで、安くて買いました」「て形の使い方がおかしいですよ」「えッ? うるさくて、眠れなかった、というのと同じでしょ?」順次動作、並行動作、手段・方法、原因・理由などと、「て形」の用法を表面的にしか説明していない先生がいるからこんな間違いが生まれるんだよなあ、とM先生はまた大きなため息をつく。「よおし、一丁鍛えてやるかあ」と指をボキボキ鳴らしながらその学生を空いた教室へと連れていく。周りの先生たちに緊張感が走る。M先生はバレーボールや陸上の選手でもあった、学生時代。

(2009-11-13)

図師照幸の日本語を歩く (32)ネタ

(32)ネタ

T先生はいつも清く、明るく、忙しい。観察をしてみると、他の人が一歩で進む距離を三歩かけて歩いている。つまり、3倍の忙しさである。肯(うなず)くときも「ウン」ではなく「ウン、ウン、ウン」であり、「そう」ではなく「そう、そう、そう」なのである。やはり3倍忙しい。T先生は大阪出身であるが、なぜか家族全員巨人ファンである。T先生はあらゆる習い事を経験し、今もバレーボール、いやクラシックバレエをたしなんでいる。研究所ではバレエ用の靴toe shoesを履いて走り回っている。さて、日本で、一緒にお寿司屋さんに行った時のことである。カウンターに腰掛け、好みのものを握ってもらっていたのだが、T先生が突然考え込んでいる。おや、眠っているのかな、と思ったが、口は確かに動いている。「ねえ、先生、どうしてお寿司をいただくときにネタというんでしょうかねえ」「えッ」「いえね、このトロとか、ウニとか、アワビとかなんですが……」(どうしてそんな高いものばっかり頼むんだよッ)「あ、そうか、これはタネ(種)をひっくり返したんですよね、きっと」(さすがだね)「倒語の一種ですよね」「もしよかったら、ぼくのもどうぞ。ぼくはもう満腹になっちゃったから」彼女の箸がぼくのお寿司を3倍の速さで彼女の口の中へ、胃袋の中へと運んでいく。数ヵ月後、T先生のご両親が訪ねて来られて、会食。お父さんのお言葉、「うちの娘は小食でして、……」ぼくはもちろん倒れそうになったのである。

(2009-11-6)

図師照幸の日本語を歩く (31)まるみえ

(31)まるみえ

「ようやく霧が晴れてビッグベンが丸見えになった」と日本語学習者が言ったのを聞いて、日本語を教えるF先生が腕まくりをする。相当な迫力だ。「その丸見えの使い方はおかしいですよ」「あ、そうですか。でも先生、先生の好きな広辞苑には[残らずすっかり見えること]とありますが……」「えッ?」「ビッグベンが残らずすっかり見えている、ということでいいんじゃないんですか?」 F先生は大股で文献室に走る。途中、階段を踏み外しそうになって、腰を痛める。「アイタ、タ、タ……」 文献室のT先生が驚いて訊く、「先生、どうかしましたか?」「こ、膏薬、いや広辞苑を見せてくださいッ」(やっぱり、そうか。でも、おかしいのは確かだ。たとえば、である。「カーテンをし忘れたので部屋の中が丸見えだ」は、いい。では、何が違うかだが、そうか、丸見えは「見せたくないものが残らずすっかり見えてしまった」ときに使うべき表現で、ビッグベンは見せたくないものではないからおかしいんだ、よしッ) F先生のほくそ笑む姿に、T先生が一歩後退りする。F先生が広辞苑を超えた瞬間である。

(2009-10-30)

図師照幸の日本語を歩く (30)台風

(30)台風

10月の日本出張中に史上最大といわれる台風がやってきた。高層のホテルの部屋の窓を通して不気味な風の音が一晩中響いた。日本全土で被害が相次いだ。秋の風物詩などと呑気なことばはさすがに聞かれなかった。かつては「野分(のわき)」と呼ばれ、枕草子に「野分のまたの日こそ、いみじうあはれに、をかしけれ」とあり、蕪村に「鳥羽殿へ五六騎急ぐ野分かな」の句がある。人類が地球や自然を冒とくしていなかった頃の作品である。ところでこの台風という表記である。「大風」と書けば分かりやすいが、なぜ「台風」と書くのか。「台湾地方で吹く風の意か」(大言海)という説もあるがはっきりしない。アラビア語のTūfān、英語のTyphoonの音訳ともいわれる。なお、「台風」は「颱風」の書き換えである。比ゆ的に、「あの人がこの騒動の台風の目だ」といったりもする。近い将来、スーパー台風なる恐ろしいものが日本を襲うことが予想されている。宇宙開発もいいが、こういった災害を最小限に抑える科学の発達が望まれる。

(2009-10-23)

図師照幸の日本語を歩く (29)わかりました

わかりました

日本事務局のN君は奈良出身の好青年である。細い目に眼鏡をかけ、すらっと長い胴体の代わりに脚は短い。その脚はまっすぐ立っても向こうが見えるように脚と脚の間に隙間が作ってある。便利なものだ。誠実な性格の彼は、いつもスーツを着用し、ネクタイをきりりと締めている。そのネクタイはエルメスやシャネルといった高級ブランドで、彼が毎日のように食するインスタントのカップ麵とのコンビネーションが絶妙である。かつて彼はぼくが何かを頼むと「わかりました」という返事を少し似合わない微笑みと共に返していた。「わかりました」ということばではなく、「かしこまりました」か「承知いたしました」のほうがいいと教えてからは、いつもかしこまっている。教えたことばには他に、「忘れていました」の代わりに「失念しておりました」というものもあるが、そのことばを覚えてからは、やはり「失念」ばかりくりかえしている。言語習得能力の優れた青年である。

(2009-09-22)

図師照幸の日本語を歩く (28)とんでもございません

とんでもございません

乱暴な言葉遣いをする若者にはゾッとする。つまり、その若者の将来が見えたような気がして哀れに思えてしまうのだ。「うるせぇー!」「むかつくー!」などという言葉を日常的に使う者がまともな恋をしたり、人の親になったりすることができるのだろうかと他人事ながら心配になる。けれどもまた、気持ち悪いほど丁寧な言葉遣いをしようとする輩にも時に閉口する。いや丁寧なのはいいのだが、雰囲気に合っていなかったり、その丁寧だと思って発せられる言葉遣いが日本語として間違っていたりすると気になってしょうがないのだ。たとえば、多用される「とんでもございません」である。おそらく「とんでもない」の「ない」を丁寧に言い換えたつもりなのだろうが、「とんでもない」は「情けない」などと同じ形容詞である。「情けございません」と言えないように「とんでもございません」は誤用なのである。「とんでもないことでございます」が正しいのだが、おそらくほとんどの人がこうは言わない。きっとそのうち、「とんでもございません」が市民権を得ることになるのだろう。とんでもないッ!

(2009-09-15)

図師照幸の日本語を歩く (27)「守る」と「防ぐ」

「守る」と「防ぐ」

政権交代とかで日本の社会はどう変わるのだろう。もうすぐ組閣とか。教育行政が充実することを望みたいが、政権が変わったことで注目されていることの一つが外交や防衛問題であるらしい。防衛か、そういえば隣国の情勢はどうなっているのかな。ところで、この防衛という言葉には「防ぐ」という言葉が使われている。「衛」というのは「守る」という意味だ。つまり、「外敵からの攻撃を防ぎ、国を守る」ということだろう。「防ぐ」と「守る」はよく似た言葉だが、その使い方は明確に異なる。日本語学習者への説明にはいろいろな方法があるだろうが、その一つ、構造的なアプローチの中からほんの少しだけ述べる。まず「守る」であるが、「N1ガN2ヲN3カラ守ル」という構文になる。それに対して「防ぐ」は「N1ガN2ヲ防グ」である。このNは名詞のことで、つまり、たとえば、「太郎が花子を悪ガキから守る」や「太郎が悪ガキ(のいたずら)を防ぐ」などとなる。「守る」のN3が「防ぐ」のN2に入る。難しそうな言葉を使えば、格支配ということに関係するが、まあ、ここまで。

(2009-09-08)


図師照幸の日本語を歩く (26)たらふく

たらふく

酒も好きだが、肴(さかな)もいい。けれども昔のように量は求めない。おいしいものをいくつかの種類、ゆっくり味わうというのがいい。若い時にはたらふく食ってもすぐに消化したが、今はそうはいかない。「たらふく」と言ってもタラの内臓を食べるという意味でも、タラとフグを食べるという意味でもない。「たらふく」というのは「タラヒフクルル」(日本国語大辞典第二版)が語源とある。つまり、「タラヒ」(足るほどに)「おなかが膨れる」という意味だろう。しばらくすると冬になり、フグの季節になるなあ。その前にマツタケなるものも世に出回る。日本では、だが。

(2009-09-08)

図師照幸の日本語を歩く (25)政治的

政治的

日本では、もうすぐ衆議院議員選挙だ。ずいぶん前だったが、日本に出張した際にある人から、○○党から立候補しないかと誘われた。全国区の上位に名前を載せるから必ず当選するというのであった。政治家になろうとは思わないので断ったが、教育行政には興味がないわけではない。それはさておき、「田中さんは政治的な人だからね」などという言い方を耳にすることがある。田中さんが政治的活動をしているというのではなくて、ある組織の中でそこの人間関係やヒエラルキー(上下階層関係)における力関係をうまく利用しながら関わっているといった意味である。多くの場合、人を揶揄(やゆ・からかうこと)したり、蔑(さげす)むときに用いる。政治というものが持つどろどろとした体質をいうのだろう。

(2009-08-14)

図師照幸の日本語を歩く (24)ミケが子どもを産んだ

ミケが子どもを産んだ

「隣のミケが子どもを産んだ」とはいうが、「隣の花子さんが子どもを産んだ」とは普通いわない。多くの場合、「隣の花子さんに子どもが生まれた」という。なぜだろう。ぼくには子どもが3人いるが、その誕生に立ち会ったことがない。子どもを産むとき女性は、大変な重労働に耐えなければならないらしい。力(りき)み続けるのだ。この力むときに発せられる声であるが、「ウーム」というものであり、ここから「産む」という言葉が誕生したとする説がある。なるほどそうであるとすれば、極めて生理的な、動物的な発声からこの言葉は生まれたことになる。ヒトという動物が人間という社会的、文化的な存在になっていくとき、できるだけ動物的、本能的、生理的なものから遠ざかるのが高度であると考える傾向があるのだが、ゆえに人間の場合は「産まれる」という言葉を使うのだろう。英語でもI was born. のように受身の形をとる。

(2009-08-11)

図師照幸の日本語を歩く (23)漱石の本

漱石の本

日本語の格助詞「の」の機能(どんな働きがあるかということ)については国語辞典や文法書等に詳しく説明されている。けれども、難しく考えることはない。たとえば、である。「漱石の本」と聞いて何を思い浮かべるかといえば、①まずは(夏目)漱石が著した「吾輩は猫である」「坊っちゃん」「草枕」などの作品であろう。②ついで漱石について研究し、誰かによって著された本、③そして漱石が所有している本ということになる。では、「太郎の本」と聞いたらどうか。太郎が持っている本、というのでおしまい。どうしてか。この格助詞「の」は名詞と名詞をくっつけるという働きをしているのであって、あとはその名詞と名詞の関わり合いで意味を解釈してくれといったものなのである。「漱石の本」においては、漱石が作家であり、その作家・漱石と生産物である「本」とが結びつけられたことによって、その「本」が漱石によって著されたという意味が生まれてくる(①)。さらに漱石は著名な作家であるので、漱石についての研究書等の意味が生じ(②)、人間と物との結びつきによって所有の意味も生まれる(③)。ところが「太郎の本」では、③の意味ぐらいしか生まれてこない。言葉の分析や研究においては、本来の働きと派生した働きとをしっかり区別して整理する必要がある。

(2009-08-07)


図師照幸の日本語を歩く (22)あはれ

あはれ

難しそうな言葉もその語源を遡れば、「なあーんだ」ということがある。たとえば、古典・古文の時間に国語の先生が、「をかし」などとともにいかにも重々しく教えてくれた「あはれ(アワレ)」という言葉である。「しみじみとした情趣」などと教わるのだが、そういった説明で中学生や高校生に「なるほど」とわかるはずがない。「情趣」という言葉の意味は「しみじみとした味わい。おもむき」(広辞苑第五版)ということだから、よほどしみじみとするのだろう。ま、とにかく、心が動くのである。いいなあと思うのである。いいなあと思うということは、驚いているということだ。驚くと、人間はア行で表現する。「あッ!」「いッ!」「うッ!」「えッ!」「おッ!」という具合である。この「あはれ」、実は驚きの表現の「あッ!」と「はれーッ!」とが組み合わさったものなのである。つまり、極めて動物的な讃嘆の肉声なのだ。ただし、何に対して驚くかが重要なのだ。「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」(西行)などとうたわれると、なるほどしみじみとしてしまう。えッ? 研究所の女性スタッフの顔を見て、「あはれ!」って言えるかって? それは確かにもともと同じ言葉だけれど、別の意味に用いられる場合の、でも、ちょっとそれは、気持ちはわかるけれど、危険じゃないかなあ。

(2009-07-28)


図師照幸の日本語を歩く (21)ビラとチラシ

ビラとチラシ

日本の街を歩いているといろいろなビラが手渡される。できるだけ受け取らないように身構えるのだが、笑顔のきれいな女性に手渡されるとつい受け取ってしまう。受け取ったビラをどう処分するかはとても難しい。すぐにゴミ箱に捨てるのは配っている人を傷つけそうでできない。ひとまず鞄に突っ込んでいたりすると、その内容によっては思わぬところで思わぬ恥をかくことになる。ところで、このビラってなんだ?「(billの訛)宣伝広告のため、人目につく所に張り出したり通行人に配ったりする紙片。ちらし」(広辞苑第五版)。billの訛とは知らなかった。Bill, please.(アメリカではCheck, please.)とはレストランでの「お勘定をしてください」という意味だ。もっとも、新明解(第五版)は「片(ヒラ)の口語強調形」と説明する。では、チラシは? これはどうやら「散らし」のことらしい。となれば、ビラは貼っても配ってもいいが、チラシは貼らずに配るのみとなるのかな。

(2009-07-23)


図師照幸の日本語を歩く (20)青年

青年

ぼくの好きな車寅次郎( フーテンの寅さん)は若者によく「よおッ、青年!」と話しかける。寅さんが印刷工場の者たちに話しかける「労働者諸君!」というのもややおかしいが、これも面白い。ところで、この「青年」というのは一体何歳ぐらいの者を指す言葉だろう。「青春期の男女。多く、14、5歳から24、5歳の男子をいう。わかもの」(広辞苑第五版)ということだが、新明解(第五版)は「ふつう、二十歳ごろから三十歳代前半までの人を指す」と解説する。ここで何と十歳のずれが見られる。「少年」になるともっとややこしい。少年法では「満20歳に満たない者」だが、児童福祉法では「小学校就学から満18歳までの者」をいう。同じ国の法律でその規定が異なるのだから困ったものだ。さて、ぼくは自分のことを青年教師であるといつも思っているが、広辞苑の説明によればちょっと抵触しそうだ。ほんのちょっとなのだが。

(2009-07-18)


図師照幸の日本語を歩く (19)おビール

おビール

ウルグアイに住む親友が奥さんと一緒にロンドンにやってきた。セントラルに豪華なフラットを借りての短期滞在である。フラットの棚にJapanese for busy people Ⅱ (日本語のテキスト・講談社インターナショナル)が置いてある。ウルグアイ人で美人の奥さんは日本語の勉強を再開したという。ビール、日本酒、ワインと進んだところで、近くの居酒屋(日本食)に三人で移動。いわゆる「河岸を変える」というやつだ。その店の店員が訊く、「おビールは何になさいますか?」。ビールの銘柄を聞いているのである。いたずら心を出してぼくが応える、「うーん、そうだなあ、おキリンにするか、おアサヒにするか、迷うなあ」。連れが笑いをこらえている。確かに「おビール」はよく耳にするようになった。けれども、さすがに「おワイン」という人はいまい。アルコール一般をさして「お酒」はいいが、「お日本酒」や「おウイスキー」は気持ち悪い。「お花」はいいが、「お桜」や「おバラ」はだめ。「(お魚の)お刺身」はいいが、「おマグロのお刺身」は歯が黒くなりそうで食べたくない。そういうことを話すと、「テリー(ぼくのこと)はちっとも変わらないね」と笑われた。これは成長していないということかな、きっと。

(2009-07-14)


図師照幸の日本語を歩く (18)人差し指

人差し指

ウインブルドンのテニスの試合をテレビで見ながら足の爪を切っていて思った。これが親指であるとしてだな、隣の指は何だ? 手の指なら人差し指ということになるが、足の指に人差し指があるというのはなんか変だな。広辞苑(第五版)を引くと「(人をゆびさす指の意)手の指の一。親指と中指との間の指。食指」とある。「手の指の一」とあり、やはり足の指には用いないようだ。ところが日本国語大辞典(第二版)によれば、「親指のとなりにある指。親指と中指の間にある指」ということで、手に限るとは書かれていない。新明解(第五版)では「親指の隣の指」。ためしに新明解で「指」を引くと、「手足の先端の、五本に分かれ出た部分」とある。さらに「親指」を引くと、「手・足の一番太い指」。まてよと、「中指」を引く。「五本の指の真ん中の指」とのこと。ということは、足の指も人差し指であっていいのかなと首をかしげる。薬指はもっと変なことになるぞとニヤニヤしていたら、せっかくのビールがぬるくなった。

(2009-7-5)



図師照幸の日本語を歩く (17)数人

数人

はっきりしない数量を表す時、たとえば「数人」とか「数年前」とかいうことがあるが、そこで思い浮かべる数には人によって違いがあるようだ。広辞苑(第5版)によれば「三~四人から五~六人ほどの人数をいう語」とのこと。日本国語大辞典(第2版)やその他の辞書にも当ってみたが、ほぼ同じ説明がなされている。ところが岩波国語辞典(第6版)においては、「近ごろは三か四かの程度を言う人が多くなった」との注がある。「数人」と聞いて二、三人を思い浮かべる人もいれば、五、六人ととる人もいるのである。「恋愛の経験は?」「ほんの数回です」

(2009-6-13)

図師照幸の日本語を歩く (16)ごめんなさい

ごめんなさい

日本の総務大臣が辞めた。辞表を出して辞めたのだが、実際は首相に辞めさせられたようで、新聞は「罷免(ひめん)」と書いた。この「免」であるが、「ごめんなさい」の「免」と同根である。「免」には大きく三種類の意味がある。広辞苑(第五版)は「①許すこと。許可すること。②まぬかれること。③やめさせること。官職を解くこと。」などと説明する。今回の場合は、③にあたる。謝るときの「ごめんなさい」は「御免なさってください」のつづまったもので、①や②の意味になる。「天下御免」という言葉があるように、この「御免」はもともとお上(幕府)によって何かが免じられているという意味で、そのため「御」がつくのである。女性に人気のある直木賞作家の宮本輝は作品の中で、「どの国の女も謝るということをなかなかしない」と書いている。女性はなかなか素直に「ごめんなさい」が言えないというのである。いや、これはあくまで宮本輝の言である。誤解なきよう。

(2009-6-6)



図師照幸の日本語を歩く (15)溺(おぼ)れる者は藁(わら)をも摑(つか)む

溺(おぼ)れる者は藁(わら)をも摑(つか)む

ある日のことである。子どもの拒食症と不登校に悩む親が訪ねてきた。いろいろな方に相談に乗ってもらい、精神科のお医者さんにも見てもらったけれど状況は悪化するばかりで困っている。助けてくれないかというのである。「溺れる者は藁をも摑むといいますが、本当にそんな思いなんです」と親は憔悴し切った表情で頭を下げた。このことわざは、「溺れている者が必死になって何かに取りすがろうと、近くにある役に立たない藁をつかむ」(時田昌端「岩波ことわざ辞典」2000)という意味で、どうやらぼくは「役に立たぬ藁」であるようだ。その子どもは何とか助けることができてほっとしたが、藁としては後味に多少苦(にが)い思いが残る。このことわざは、英語の A drowning man will catch at a straw. の翻訳だという。

(2009-5-30)



図師照幸の日本語を歩く (14)預金

預金

▼銀行からお金を借りることを借金という。借りようとする人には担保等の提示が求められる。けれども、銀行がお金を借りるときは預金と呼ばれる。銀行にお金を預けるというのである。これは少しおかしくないか。▼銀行は預けられたお金を運用して利益を得る。銀行がその経営に息詰まると、場合によっては預けたお金が戻ってこないこともある。さて、なぜ<預金・預ける>というのだろう。銀行がお金を借りているのだからこれも<借金>というべきではないか。▼窓口に行くと行員が言う、「お預け入れでございますか」と。「え?」「預金でございましょうか」「いや、なに、お金を貸してやろうかと思ってね」「はあ?」「だからさ、この銀行にお金を貸してやろうかな、と思ってね。だけどこの銀行は大丈夫かどうかわからないからね、責任者を出してくれるかなあ。それから担保に当たるものもね」「……」▼お金の流れが異なるだけで、その中身は一緒なのだが、<預金>という言葉が使われるとなんだかお願いして預かってもらうようで、民間企業の銀行をまるで公的な、お役所のようなイメージに変えてしまう。お金を借りたほうが偉そうに胸を張って、貸したほうが頭を下げてお礼を言ったりしている。だれがこの言葉を使い始めたのかは知らないが、癪だけれど、頭いいなあ。

(2009-5-30)

図師照幸の日本語を歩く (13)昔話

昔話

かつて、日本全国に伝わる昔話について調べたことがある。面白い発見がたくさんあったが、その一つは、こうである。昔々、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいる。おじいさんとおばあさんの間には子どもがなく、いつも子どもがほしいなあと思って暮らしている。これはおかしい。もうおじいさんとおばあさんになってしまったのだから、子どもを授かるのは難しい。あきらめるのが自然だ。にもかかわらず、しぶとくほしいなあと願っているところから物語が始まるものだから、作者は無理をして竹の中に考えられないほど小さな赤ん坊を隠しておくなど努力する。普通に育ったのではその子が大人になった時にはおじいさんもおばあさんも他界していることになるので急激に成長させる。つまり、一種の化け物である。確かに他の星から来たエイリアンであり、最終的にはその星へと帰っていく。ところで、こういった物語の始まりに「昔々、あるところにおじいさんとおばあさんがありました」という表現が時折みられる。「ありました」ではなく「いました」が正しいのではないかと日本語教育について学んでいる者たちは思うに違いない。初級の学習者には「アル」と「イル」の使い分けについて教えなければならない。しかし、確かに「おじいさんがありました」と表記されているのである。実はこの「アル」はかつて、人間の存在についてもつかわれていたのである。伊勢物語の「昔男ありけり」のように。さらに調べてみると、なんとあの星新一のショート・ショートにもこの表現が見つけられた。しぶとく生き続けていたのである。立派。

(2009-05-23)

図師照幸の日本語を歩く (12)とても40歳には見えない

とても40歳には見えない

日本に出張(帰国)する楽しみの一つはかつての教え子たちとの再会だ。居酒屋で近況を聞きながら、あるいは昔の思い出話をしながら、時に不覚にも眼頭が熱くなることもある。みんなぼくのくだらぬ冗談でさえあたたかい微笑みで受け止めながら聞いてくれる。「彼はとても40歳には見えないだろ?」「ええッ、うそッ? ホントですか?」「うそって、40歳に見えるってこと?」「いいえ、とても40歳には見えないですよ、20代に見えますよ」「だから、40歳には見えないだろって言ったでしょ」ぽかんとしているみんなに、「ね、日本語って面白いねえ」さて、どうしてこういうことが起こるのか、わかるかな? えッ、ヒント? ぼくはヒントを与えたりするのは嫌いだけれど、特別に。助詞「に」がしているいたずらですよ。

(2009-05-16)

図師照幸の日本語を歩く (11)本格芋焼酎

本格芋焼酎

5月5日こどもの日、日本に到着。シャワーを浴びて、ホテル近くの居酒屋で日本事務局のスタッフと「がんばるぞの会」で乾杯。生ビールを飲んだ後、焼酎を飲むことにする。ところが、メニューを見て考え込むことになる。たくさん並んだ焼酎の銘柄の頭に、「本格芋焼酎」と書かれているものもあれば、ただ「芋焼酎」と書かれているものもある。「あのー、すいませーん」とお店の方を呼ぶ。もちろんわがスタッフは、「私には関係ありません」といったふうによそを向いている。「この本格芋焼酎とただの芋焼酎とは何がどう違うんですか?」「本格芋焼酎の方が芋焼酎よりも本格なんです」「あのぅ、本格というのはどういうことなんでしょうか?」「……」そういえば北海道・札幌にあるラーメン横丁でも似たような質問をしたことがある。たくさんのラーメン屋さんが並んでおり、それぞれの店には客寄せの看板やのぼりが出ている。「元祖」「本家」「宗家」などなど、違いのわからぬ言葉が「札幌ラーメン」の頭にくっついていた。訊ねると、あるラーメン屋の大将が答えた。「ああ、ここのラーメンが元祖なんだなあ、と思って食べると元祖の味がわかるようになっているんですよ」。なるほど。

(2009-05-09)

図師照幸の日本語を歩く (10)チンする

チンする

ぼくは飲むだけでなく食べるのも好きだ。愛する者と、たとえば美しい庭でも眺めながら、おいしい肴(さかな)ととびきりの酒を味わう。まさに至福だ。もちろん、世の中そううまくはいかない。ところで、料理である。ぼくは食べることの達人だが、料理は全くできない。実は、この料理という言葉について思うことがある。巷(ちまた)に「チンする」などという奇妙奇天烈(きみょうきてれつ)な言葉が横行している。電子レンジのスイッチを入れて食べ物を加熱したりすることのようだが、これは料理なのか。「チンする」ことで食べることのできるものが出現するのだから料理だという者がいるが、ぼくは認めたくない。そんなものは料理なんかじゃないと思うのだ。料理には時間と手間といった、いわゆる過程(プロセス)が必要だ。作品(料理)が完成していく過程で発生する匂いや音が必要なのだ。それらは愛情表現の伴奏である。「チンする」にはそれらがない。なんだか空しくて、わびしくて、さみしいではないか。だから、手間暇(てまひま)かけて料理をする人をぼくは尊敬する。もっとも、料理の世界のことは何も知らない。ある時、ロンドンのあるレストランで食事をしていたら、ぼくのテーブルまでわざわざ挨拶に来た女性がいた。「へえ、君は料理の仕事をしてるの。おいしい料理が作れるの?」とぼくが聞いたその人は、後で知ることになるのだが、今をときめく栗原はるみさんだった。知らなかったとはいえ、本当にごめんなさい。お詫びのしるしに、彼女の本を一冊買った。

(2009-04-27)

図師照幸の日本語を歩く (9)ジェット噴射

ジェット噴射

日本から小包が届く。卒業生からの贈り物だ。開けてみると、手紙とともにスプレーが入っている。養毛剤である。ぼくの薄くなった頭髪をからかう悪戯である。教え子の顔を思い浮かべながら苦笑する。かつては「ごますり機」をプレゼントしてくれたつわものもいる。ところで、そのスプレーの説明書には「ジェット噴射で地肌に届く」とある。それはおかしい、とぼくの分析癖が始まる。ジェット噴射であれば勢いがあって液材が地肌に届きやすく、効果が高まると言いたいのだろうが、それは論理的に間違っている。これを用いるのは頭髪が薄くなった者である。 ジェット噴射などの力なんか借りなくても、液材がすぐに地肌に届くスカスカの構造をしているのだから。そういった分析を口にしたら、スタッフの一人が言った、「いちいちそのように分析をされるから、また抜けるんでしょ」。ごもっとも。

(2009-04-20)

図師照幸の日本語を歩く (8)みどり・の・くろかみ

みどり・の・くろかみ

日本に出張すると、いろいろな発見がある。街を歩く。かつて様々な色に染められた若い女性の髪の色が落ち着きを取り戻し、黒に戻ったように感じる。とはいえ、「みどり・の・くろかみ」といった風情はない。この言葉を若者の前で使ったら、「みどりという名前の女性の黒髪のことですか」と聞かれた。唖然としていると「なんだか矛盾した感じですね」と追い打ちを食らった。どうやらこの「みどり」という言葉を勘違いしてとらえているようだ。この「みどり」という言葉は、いわゆる「緑色」を意味しているのではない。「瑞々(みずみず)しい」という言葉から転じたものである。「つやのある美しい黒髪」(広辞苑)という意味だ。「みどりご(緑児・嬰児)」という言葉があるが、これは「新芽のように若々しい児の意」(広辞苑)である。ところで、先に「風情」という言葉を用いたが、髪の色だけでなく、若い女性の、その醸し出される雰囲気に、初々しさや瑞々しさが感じられないのが残念なのである。いや、ぼくが歳をとったせいだな、これは。

(2009-04-13)

図師照幸の日本語を歩く (7)孟母三遷の教え

孟母三遷の教え

「孟子の母が、最初は墓所の近くにあった住居を、次に市場の近くに、さらに学校の近くにと3度遷(うつ)しかえて、孟子の教育のためによい環境を得ようとはかった故事。」というのが広辞苑(第五版)の解説全文。あれッ、住居を遷しかえたのは2度じゃないか。「遷しかえて」という言葉を好意的に解釈しないと変だ。「孟子の母が、最初は墓所の近くにあった住居を、次に市場の近くに、さらに学校の近くにと遷しかえて、三度も住居を定めて、孟子の教育のためによい環境を得ようとはかった故事。」といった説明のほうが親切だろうなあ。

(2009-04-06)

図師照幸の日本語を歩く (6)空き巣・泥棒お断り

空き巣・泥棒お断り

日本出張中の話である。東京・神楽坂にぼくの隠れ家がある。東京滞在中はその半分をここで過ごす。ぼくが使う部屋は映画監督の山田洋次さんの仕事部屋で、隣の部屋はNHKが朝の連続ドラマの脚本を書くための部屋、他の部屋にもいろいろな作家たちが蠢く。おかみさんは往年の大女優小暮美千代(故人)の妹さん。その界隈を散策しているとき、ある貼り紙に目がとまった。「空き巣・泥棒お断り」とあり、いくつもの住居に同じものが貼ってある。町内会で作って配った貼り紙だろうか。面白いのは文面である。かつては「押し売りお断り」というものがよく目についたものだが、 「空き巣・泥棒お断り」とはめずらしい。神楽坂の空き巣や泥棒はこの貼り紙を見て「断られちゃった」と空き巣に入るのをやめるのだろうか。ぼくならどんな貼り紙にするかなと歩きながら考えた。「空き巣・泥棒の方は裏口にお回りください」「空き巣・泥棒の方へ/ただいま留守にしております」なんていうのはどうだろう。

(2009-03-20)

図師照幸の日本語を歩く (5)とぶ

とぶ

「廊下をとばないでください」という貼り紙に違和感を覚える。「廊下でとばないでください」の誤りではないのか。だいたい、廊下で飛んだりするような人間がいるのだろうか。えっ、とスタッフの一人が驚く。[を] でいいと思いますが、との見解。山梨出身の彼女は標準語でも「走る」ことを「とぶ」というのだと信じていたのである。「ということは」と、例によってぼくの意地悪な質問が始まる。山梨では、運動会の時、走り幅跳びの選手をどんなふうに応援するの? とべッ、とべッ、とべッ、とべーッ!

(2009-03-19)

図師照幸の日本語を歩く (4)かじる

かじる

日本では見かけないが、英国の教育現場では大いに活躍するブル・タックという接着剤がある。ホワイトボードでもガラス窓でもどこにでも掲示が可能で、簡単にはがすことができ壁面を痛めない。紙だけでなくなんでも貼ることができる。もちろん短所もある。教室のカーペットの上に落ちたブル・タックを踏みつけると、なかなか取れないのだ。チューインガムのようなものなので、学生が休暇中の教室の清掃・整備にあたっていたスタッフが困っている。そこに通りがかった別のスタッフが言った、「私がかじりましょうか」。「いや、そこまでしてもらわなくてもいいよ」とぼくが言うと、不思議な顔をしている。彼の出身の静岡では「かじる」というのはリンゴなどを歯で「齧(かじる)る」意ではなく、「引っ掻く」といった意味なのだ。背中がかゆいとき、みめ麗しいご婦人も「かじる」んだろうなあ。

(2009-03-13)

図師照幸の日本語を歩く (3)一生モノ

一生モノ

尊敬する伊藤克敏神奈川大学名誉教授が奥さんと二人で微笑んで立っている。わざわざ横浜駅まで出迎えてくれたのである。二人に連れられてレンガでできた倉庫跡を歩く。いろいろなお店が入っているが、どれもこれも若者向けのものばかりで我々にはちょっと場違いの感じである。「ちょっと早いけれど、食事にしましょうか」という誘いにのって伊藤先生のなじみのお店へと向かう。タクシーの中で伊藤先生がぼくに新しい腕時計を見せてくれる。「これは2年間、ノンストップで動くんですよ」と誇らしげな先生にぼくが応える。「2年間ですか、じゃあ、一生モノですね」。直後、伊藤先生はぼくの右足を踏みつけた。ま、3年は大丈夫だな、確かに。

(2009-03-06)

図師照幸の日本語を歩く (2)濡れ衣

濡れ衣

日本出張中に見たテレビ番組はニュースと国会中継のみだった。日本の国会中継は新宿・末広亭で聞く落語より面白い。首相が胸を張って言った、「濡れ衣をかぶせないでほしい」と。「濡れ衣を着る」が正しく、「着せないでほしい」と言うべきだが、そんなことより何より、現政権のよりどころたる「郵政民営化」について、それは「悪事」であったと言っているのだから驚く。「自分は担当者ではなかったのだから、無実の罪を着せないでくれ」と大見栄を切ったのである。けれども実は彼が担当大臣だった。「自分が担当したんだから、そこのところはしっかり覚えておいてほしい」と強調した数ヶ月前のビデオ映像が繰り返し流れるのを見ながら、980円のコンビニの弁当をほおばった。

(2009-02-27)

図師照幸の日本語を歩く (1)がけを上り下りする

がけを上り下りする

日本出張で東京のホテルに泊まる。ホテルの周りを散策。川沿いの小さな公園の脇を通り過ぎる。土手に区役所の看板が張り付けてある。「危険ですからがけに上り下りしないでください」とある。見間違えたかなと思い、戻って確かめる。きっと近所の子供たちが「がけを上り下りする」のだろう。「公園に散歩する」といえば、公園が目的地で公園までの散歩であり、「公園を散歩する」ならば、公園の中を歩き回ることになる。区役所に電話して教えてあげようと思ったが、公衆電話が見当たらない。そばにいたスタッフが、またかと困った顔をしていた。

(2009-02-20)

所長室からのメッセージ集

図師照幸の日本語を歩く

j0430553.jpg研究所所長・図師照幸が、日本語の世界を伸びやかに、楽しく歩きます。日本語の文法や語彙・意味に関する豊かな視点がちりばめられています。

濫觴

j0401237[1].jpg英国国際教育研究所で学ぶ皆さんへのささやかな、けれども真摯なメッセージとなって、教育や学問の世界での新しい宇宙を創造しようとする皆さんの磁場となるように創刊されたものです。

検証 教育問題への提言

kensho.gif教育に関わるさまざまな問題について、研究所所長・図師照幸が徹底的に分析し、斬新かつグローバルな視点から提言します。

大きな地球 フロントポエム

uta1.gif読者から送られてきた写真の世界を、詩人・図師照幸がまったく独自の想像力と創造力によってあたたかい言葉の世界に置き換えていきます。