濫觴
146.なぜ、学ぶのか。 夢の途中(34)

 ぼくはずっと〈教えて〉きた。
 ぼくはずっと〈せんせい〉だった。
 ぼくの生きている時間のほとんどは、<教える>ことに、〈せんせい〉と呼ばれることに費やされた。
 それ以外のことはしたことがなく、それ以外の存在であったことはない。
 けれども、数十年も教えながら、ぼくにはわからないことが多すぎる。それはどんどん増えていくのだ。
 〈教える〉ということは何であるのか。それを考え、考え込み、疲れて眠る夢の中でもまた、考えるのだ
 その答えを見つけようとすることは、ぼくの〈生きる〉ということの意味を探そうという行為に等しい。
                              *
 気がつくと、目の前には〈学ぶ〉者がいる。
 いや、この〈学ぶ〉者がいなければぼくは、〈教える〉ことはできない。ぼくに向き合うそれらの者たちがいなければ、ぼくは〈せんせい〉ではない。
 ならば、この者たちの〈学ぶ〉ということについて考えれば、その意味について整理すれば、ぼくの生の意味を定義できるのではないか。
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 なぜ、〈学ぶ〉のか。
 研究所のさまざまな教育課程に入学する者たちについて考える。ある者は、日本や英米の大学や大学院を卒業するとすぐに入学してくる。ある者は、さまざまな種類の会社での就業経験を持つ。またある者は、入学する直前まで学校の先生であった。20代の若者もいれば、50代や60代の者もいる。
 学ぶことで彼らは、知識や技術を、あるいはさまざまな思考の座標軸を、新しいまなざしを得ようとする。
 では、それらは彼らにとってどのような意味を持つのだろうか。
 性別や年齢、それまでの社会体験や経験、そういったものに関係なく、人には、今の自分を見つめようとする、そういう時がある日、訪れる。
 その時、つまり今の自分を見つめようとするその時、その時間と向き合うには少しだけ勇気が要る。まっすぐに自分を見つめるためにはそうしようとする意志の力が必要だ。
 しかしながら、いや、だからこそ、人は自分の今をそのまま見つめることを恐れる。怖いのだ。自分が見つめなければならないと思う自分の今は、本来自分が自分に課している、期待する自分の姿とは、少しであったとしてもずれがあるのだ。そのずれと向き合うことは辛く、怖く、逃げたい。だが、いくら恐れて逃げようとしても、その思いから完全に逃げ切ることはできない。追いかけるのが、自分自身であるからだ。
 このような学生生活を送っていてもよいのか。ぼくが友人として付き合っている連中は、本当にぼくにとって大切な友人といえるだろうか。会社の愚痴ばかりを言いながら過ごす私の人生って何なのか。妻として過ごす私の人生は決して恵まれていないわけではないが、毎日夕刻になるとつく溜め息はなんだろう。
 いやいや、そもそもぼくはいつの日からか、何かに打ち込み、努力しようとする人間ではなくなってはいないか。言い訳ばかりをいつもポケットに忍ばせている人間になってしまってはいないか。私が本当におなかの底から笑ったのはいつだっただろうか。ぼくが本物の涙を流したのはいつだっただろう。
 そういった思いは毎日少しずつ、静かに沈殿し、溜まっていく。いつかその溜まったものと向き合わなければと思いながら、巧みにごまかし、逃げ続けてきたのだ。
 けれども、自分を信じようとする自分がそれを許さない。
 私は変わりたいと思うのだ。ぼくはもう逃げたくないと思うのだ。
 そして、学ぼうとする。変わるために学ぼうとするのである。
 それは無意識なものであるかもしれない。けれども、学ぼうという思いは、つまりは、変わろうとすることなのだ。
 そして変わるために学ぼうとすることは、学べば変わることができると信じていることになる。自分は学ぶことで成長できると信じていることになる。
 明日を信じようとしていることになる
 学ぼうとしたその時、すでに一歩前に足を踏み出しているのである。このことはとても素晴らしいことではないか。
 ゆえに学校は、明日を信じようとする者たちが集うところなのだ。
 このことはあらゆる学校に当てはまるはずだ。小学校の児童も、中学校や高校の生徒たちも、大学などの学生も、すべて明日を信じようとする者たちであり、その者たちが集うところを学校と呼ぶのだ。
 持っていた夢や理想を捨てさせ、現実を教え、現実に適合する人材を生産しようとするところではけっしてない。現実というものがあるとすれば、そしてその現実におかしなところがあれば、それを変えようとする精神を育むところが学校である。すべての人間が平和で幸せに生きていこうと願っている。そのことを確かなものにするために、必要な知性や心を育てていくところである。
 学ぶとは、そういうことだ。そして、教えるとは、その学ぼうとする者たちに寄り添う行為である。
(図師照幸)
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