濫觴 No.120 December 4th, 2008
1209.変数χの孤独 夢の途中(8)
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寒い朝、空が焼けている。きれいだな、と思う。もう少しそのままでいてくれないかなと思う。

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言語分析はぼくにとってはいわば一種のだ。文法のある概念について書かれた論文を読みながら、その論理の破綻を見つけるとぼくは、味方の走者を自分の打撃でホーム・インさせて得点したような軽やかな喜びを感じる。オリジナルの論理を磨きながら微笑むのは、ずっと幼いころの野球ゲームでの独り遊びに通じる。

小学校に入る前からぼくは、独り遊びを覚えた。同じ年代の子どもたちと遊ぶのに比べて、幼稚な仲間意識や非論理的な秩序に振り回される必要がなく、なにより想像力が満たされた。

その頃人気のあったスポーツは何と言っても野球だった。ゲームだから野球に関する本やゲームが店先にはいろいろあった。もちろん今風のコンピュータを使ったゲームなどではなく、ボード・ゲームがせいぜいだった。パチンコ玉のようなボールを転がして、ボードに張り付けられたバットで打つといった他愛もないもので、ゆえにすぐに飽きた。小賢しい細工が施されてはいたが、それがかえって興ざめだった。プレゼントで貰ったどんなに新しいものもすぐに興味が失せていくのだった。

そこでぼくは、自分で作ろうと考えた。既成のもののように磁石やほんの少しの電気を使うのではなく、単純で、ふくらみのある仕組みはないかと考えた。いろいろ考えた上で、行き着いたのは薬品を入れた箱などのコーナーにくっついている堅いスポンジと鉛筆とを用いた何とも地味でみすぼらしいものだった。ボードの上に様々な模様を描き、二つのチームの選手を決め、投手の持ち球や決め球をそれぞれ設定した。決め球は絶対的ではなく、相性を組み合わせ、と次から次へとゲームの密度は複雑になっていった。ぼくは試合の解説をしながら延々と何時間も一人で遊んだ。目の前のボードの貧弱さとは大きなギャップのある高度で豊かな<遊び>が展開した。想像と創造の楽しい空間だった。あるいはその頃の遊びの方が今の言語分析よりも夢中だったようにも思える。

いや、その頃も、夢中になっている自分に耳元でささやく声が聞こえていた。ぼくはほとんど毎日全力疾走で生きているが、ときにふと、耳元でささやく声に立ち止まるのだ。

<ボクハ・イツマデ・ボクナノダロウカ>

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懸命に記録を伸ばそうとするオリンピックの選手たち、もはや絶対に使いつくすことのない財力を持ちながらさらに富を得ようと睡眠時間まで削る経済人、名誉と権力のために必死に演説する政治家、研究のために家族も友人も捨てる学者、いやこういった者たちはほんの一例に過ぎない。この世に生きとし生けるもののすべてに、ある悲しみがある。

ぼくは幼い頃からよく空を見上げた。ずっと、ずっと上のほうからだれかが覗いているのではないかと思ったのだ。そしてまた、ぼくは不思議だった。足下を見つめ、この地面は何が支えているのだろう、と。

ぼくたちはある方程式のχに投げ込まれた変数にしか過ぎない。あらかじめ設定されている方程式の一変数に過ぎない。ゆえに、χに放り込まれる数字の間で個性だの優劣だのと言ってみてもそれは滑稽なだけだ。ぼくたちは大きな誤解の中で生きている。最も大きな疑問と向き合うことから逃れながら、ごまかしながら、ほどほどの納得の上に築いた生なのだ。すなわち、<生きている>ということさえもあるいは誤解なのだ。もがき、喘ぎ、苦しみ、あるいは笑い、喜び、そういったものが落ち着くところはあらかじめ設定された方程式の箱の中なのである。

深く考える恐怖から逃れるために、ぼくたちは眠る。眠るために、歩き、食べ、恋をする。どのように歩くかとか、何を食べるかとか、どんな恋をするかとかは恐怖から逃れるためのちょっとしたレトリックやカムフラージュに過ぎない。そういったもので飾りつけることで、確かに眠りが訪れやすくなるのかもしれない。深く眠ることのできる者たちは幸せだ。けれども、眠ることを忘れた者たちは夜毎考えなければならない、<ボクハ・イツマデ・ボクナノダロウカ>と。

χには毎日おびただしい数の変数が投げ込まれてくる。それぞれの変数は単なる一つの変数に過ぎない。変数χはゆえに孤独である。時と空間を見失いながら、χという入れ物の中でため息をつく。けれども、なかに何とか首を伸ばして隣のУを見ようとする、あるいはχから逃げ出そうとする変数が、いや、いまい。


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